ハイライト改訂版㉖

「やっぱり、時期尚早だったんじゃないかなぁ」
往生際の悪い僕は、隣に座り、講義を聞きながらレジメに言葉をメモしていた誠治にだけ聞こえるくらいの声量で呟いた。翔平は、僕の前の席で結局眠っている。無理もない話で、僕も何も無ければそうしたかった。
「でも、返信来たんだろう?」
 誠治は顔を黒板に向けたまま訊いた。メモをする手は消して止まらない。ふと、誠治のレジメを見ると、教授の言葉を要約した文字で真っ黒だった。
「まぁ」
 カバンからスマートフォンを取り出し、机の下で起動させる。
『明日の講義終わりなら時間あるから、その時間でもいい?』
 彼女からの届いた簡潔な返事を確認する。スマートフォンの普及によって簡単に誘えるようになったことに感謝したくなってしまう。これがない時期であれば、恐らく彼女と連絡を取るなんてことはありえない話だった。それこそ物陰から彼女の姿を眺めて続け、何も行動できずに四年間を過ごしてしまいう恐れすらあった。それくらい、僕は恋愛について消極的だった。
「じゃあ、あとは茜ちゃん次第だな。天命を待てよ。もう、賽は投げたんだから」
「そうだね」
「あとは告白の場所と言葉はちゃんと考えておけよ」
 誠治の言葉を鵜呑みにして、彼女に伝える言葉を考え始めることに尽力し始めた。さっきまでゆっくり進んでいたはずの時計の針が、水を得た魚のように活発に進みだと錯覚する程度に、あっという間に過ぎ去っていった。
「んじゃ、健闘を祈る」
 五限終わりのチャイムが鳴り、講義を受けていたお仲間が一斉に帰り支度を始める。僕もお仲間と同じように帰り支度を進めていた時に誠治が言った。思わず手が止まる。
「どうせダメなんだから、潔く死んで来いよ」
 誠治の言葉の後すぐに翔平は茶化すように言う。茶化してバカにしているのではないと分かる表情だった。
「おう。ちょっくら死んでくるわ」
 極めて短い返事だけを残し、二人よりも先に教室を出た。
 有名ミュージシャンのライブが終わり会場を後にするファンの人波みたく、校舎の出入り口は混み合っていた。事前に彼女と待ち合わせた場所である図書館に辿り着くまでの間、浮き足立ち、脈拍は激しく鼓動していた。ロードバイクで坂道を登る時よりも激しく、それは今までに体験したことのほどの緊張感を示している証だった。
 図書館の前に行くまでの短い並木道を歩きながら、講義中に選んだ言葉を何度も反芻しては添削を繰り返していた。別に文字に起こす訳ではない言葉に必死になることなんて、正直言えば無縁だと思っていたからなのか、初めての告白だからか、誠治たちと話している時のように上手く編集できなかった。
「カズ君。お疲れ」
 図書館の前に着くと彼女はベンチに腰かけていたが、僕の存在に気付くとすぐに立ちあがり、僕の方へと向かってきた。
「お疲れ。今日の講義、疲れたね」
「うん。最後のテスト解けた?」
「微妙かな。茜ちゃんは?」
「私も微妙なんだよね。折角、三日間も講義に出たんだからもっと簡単でもいいのにって思っちゃったよ」
「オレもだよ」
「そうだよね。もうあの講義、選択しなきゃよかったって後悔しちゃったよ。って愚痴ばっかり言っちゃった。それで話ってなに?」
 僕は決心して、決戦の舞台へと彼女を誘った。
 図書館の屋上へと繋がる階段の前には、「立ち入り禁止」と書かれた張り紙と工事現場で見かけるコーンと黄色と黒で色付いたバーで封鎖されている。
「ここ入っていいの?」
「僕は何度も侵入している」
 僕はバーを手に取り、階段へと繋がる入り口を開く。彼女は戸惑ったような表情をしていたが、僕は何も言わずに階段を上がり始める。僕の背中を追い掛けるように、無言のまま彼女も上り始めた。コンクリートできた階段を上がる二人の足音が聴覚を刺激した。
 屋上にはエアコンの室外機が幾つも並び、新宿の高層ビル街が一望できる。大学が小高い丘の上にあることも加わって、見える景色はそれとなく味があった。
「わぁー、綺麗」
 彼女はそう言って、反対側まで小走りで進んだ。欄干に身を乗り出して、少しでも近くで景色を見ようとする姿勢は女の子らしく、新しい一面を見ることになった。
「八号館以外にこんな綺麗な景色を見られる場所があるなんて知らなかった」
 大学構内で一番の高さを誇る八号館は、この場所から見える景色よりもっと綺麗なことは、ここの学生なら全員知っている周知の事実だった。夜になれば、東京の夜景が一望できる校内きっての名所は、都内のビルで営業しているレストランから見える夜景と比べても遜色はないはないだろう。けれど僕がこの場所を選んだのは、人目を気にしなくていいことと、この場所が僕らしいと思える場所だったからという浅はかな理由だった。
「ねぇ、茜ちゃん」
 僕は覚悟を決めて彼女の名前を呼んだ。彼女は振り返り、口を動かす。
「ん? なに、カズ君」
「ちょっと真面目に話してもいい?」
「カズ君、いつも真面目に話してるよ」
 彼女ははぐらかす。まるでこの後起きる展開を回避しようとするように。その時の僕はそれが分からなかった。諸突猛進、自己中心的、目の前に見えているものしか取り扱えない懐の狭さか。何が相応しい形容詞なのか分からなかった。
僕は震える手を拳にしてから用意した言葉を言おうとする。しかし頭の中は真っ白で言葉が出ない。でも視覚は鮮明で、まるで幽体離脱でもしたかのように俯瞰で今を見ている僕がいた。不思議な感覚だった。
「あのさ、――僕は、茜ちゃんの事が好きです。付き合ってください」
 ようやく口にした言葉は考えたセリフよりも陳腐で真っ直ぐなものだった。僕の言葉を聞いた彼女の顔は次第に真剣な表情へと移り変わっていく。後方に見えていた夕日が沈み始め、ビル街の光が少しずつ主張し始めていた。
 彼女は何も言わない。ただ僕の姿を真っ直ぐ見つめている。彼女の目に僕は一抹の不安を抱き始める。直感で分かった。彼女は言葉を選んでいる、と。僕を傷つけない言葉を。
 退屈な講義よりも長いと感じる時間に沈黙が溶け込んでいく。僕の心臓は張り裂けそうなほど緊迫し、頭の中で予想される言葉の返事を模索する反面で、ここから逃げ出したくなる感情が全身を支配し始めていく。
 逃げる、という選択肢ができないと分かっているから、ただ沈黙に耐えるしかできなかった。彼女が放つ言葉を待っている間、ずっと少年時代にハマっていたロールプレイングゲームをモチーフにした漫画のセリフが頭の中でこだまし続けていた。
 大魔王からは逃げることはできない。
決して彼女の事を大魔王に投影したわけではなかった。ただ状況と常識を鑑みれば、今の状況はレベル不足で、それでも勢いでラスボスに臨む哀れな勇者ご一行にひどく類似していた。

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