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きっかけ

 タバコが無くなって随伴反射のように外出の準備をした日曜の朝。街は休日を訴えるように静かさと独特の高揚感を混ぜ合わせた空気が漂っていた。この空気、僕は正直苦手だ。なんだか、お前の居場所はどこにある? と問いかけられているような感覚に呼吸が少しばかり苦しくなるからだ。
 住宅街を抜け、大通りに出ると普段よりも車が多い。ニュースでは、越県が可能になったと報道していた。自粛という我慢大会から解放された人たちが、どこかへと向かってアクセルを踏んでいる。見慣れていた風景が、今は非日常になりつつあった。人間の価値観なんて、あっさりと上書きされてしまうことが見事なまでに表現されている。或いは、どんなにねじ曲がっても日常は、形状記憶のように戻っていくのだろうか。行くべき場所や会うべき人がいるという贅沢が綺麗に抜け落ちた僕にとっては、他人事だった。
 チャリン、チャリン。自転車のベルが後方から聞こえ、思わず振り返った。ウエットスーツを着ているのにも関わらず、上半身を露出する真っ黒に日焼けした男の姿が目に入った。海の街ならではの改造された自転車には、サーフボードが載せられている。
 山の町で人生の大半を過ごしていたから、この風景は異様だった。男性ならまだしも、同じような格好をしている女性とすれ違ったこともある。この街での当たり前は、僕には当たり前では無かった。でも十年近く住んでいると、驚くこともなくなった。気付けば街のルールに染まっていた。
 男は颯爽と僕の横を通り過ぎていく。この道の行き止まりは、海岸だ。彼は十数分後には海の中で波を待っているのだろう。そのことがなんだか羨ましくなった。サーフィンが生活の中に溶け込んで、もしかしたら生きがいみたいに昇華されているからだ。やりたいことが見つからなくて日々を消化している僕にはできないと思ったからだろうか。
 信号が赤になって足を止める。目の前を走って行く車や自転車、通行人を見つめながら、仕事の待ち時間となった休日を反芻した。やることはある。でもやるべきことではなかった。知らぬ間に棲み分けているのは、省エネの人生を物語っている。どうしてこうなってしまったかと過去の自分を罵り、自己嫌悪したところで何も変わらない。かといって過去の自分を美化したところで現実との差に戸惑う。結局の所、自分自身を卑下しようが、背伸びしようが等身大の自分からかけ離れている点ではきっと同じで、自分が自分ではないという答えに辿り着いてしまう。等身大の自分という設問について何度か証明を試みたことがあるけれど、途中式ばかりが長くなって要領を得ない。
 等身大の自分として生きれば解決する。その答えは分かっているのに証明方法や実践方法がが分からない。まるでフェルマーの最終定理のようだ。その簡潔で綺麗な方程式を解くことに囚われた人間に近い部分があるのだろうか。長いこと「自分」とはという設問を課してきた自分と思い半ばでこの世を去った研究者達と自分を重ね合わせる。でもすぐに設問に対して解こうとする情熱も崇高な決意もない僕と比べるのは傲慢だなと自嘲して別のことを考えることにした。
 多様性を求められ、個性を尊重することによって、従来のざっくりとしていた仕分けが細分化する機会が増えた。インターネットという文明開化によって、飽和している情報が安易に手に入れることができるということで、素人でもその細分化は実施されるようになった。ネットの中では生まれた造語がメディアでも取り上げられて市民権を得た。この変化で恩恵というか、苦痛から解放された人もいる。でも反面で今まで無かった名前、枠組みのせいで苦痛を味わう人もいる。軍隊のような場所、個性を伸ばそうという主義の場所でも時間を過ごしたことがあるから、どちらが正しいとか居心地がよいとか分からない。どちらの環境も苦しさもあれば楽だなと安堵できた経験があるから。 信号が青に変わった。切り替えたつもりでも自分自身ではどうにもできないことを頭に浮かべてしまうあたり、刷り込まれた僕の中の常識は拭えない気がした。
 しばらく歩くとコンビニの看板が目に入る。もう何年も通っている店は、今日も当たり前に営業をしていた。店内に入って、タバコと缶コーヒーを購入して店を出た。店の外に時代に抗うように置かれた灰皿の横に立って、買ったばかりのタバコに火を点して、缶コーヒーのプルトップを開けた。甘ったるいコーヒーの味とメンソールのタバコの煙を吸っていると、情けないけれど居場所を感じた。喫煙者という枠組みの影響もあるけれど、恐らくタバコとコーヒーの組み合わせに付随した記憶が根底に存在していているからだろう。この瞬間は、僕は何者かに確かになれていたのだ。
 タバコをくわえながら、左手で缶を持ち、空いた右手でスマホを操作する。カレンダー機能を起動させ、予定を確認する。仕事と休みのしか入っていない空白ばかりの予定に落胆を抱ければ楽だろうなと思った。もう般化して感情の余白も起きない。
 カレンダーを閉じて、ニュースアプリやネットの掲示板を巡回する。一応外に出てはいるけれど、これでは引きこもりと何ら変わりない。むしろ部屋に引きこもった時間に何かをしている人と比べれば、今の自分は無色透明の存在のようだ。生きていく上で自分と関わりの無いニュースを見つめながら、自分がいなくても世界は回ることを改めて実感する。同時に自分がいなくてもよい世界で、僕の存在を訴えたいのかもしれないと未だに抜けない青いことを抱く。面倒な思考回路。試行錯誤してよい時間に愚直なまでにレールに乗って生きた弊害だ。雨風を受けても立ち続ける灰皿の横に立ち、目の前の国道を見つめる。相変わらず車通りが多い。嫌になるほどに。
 吸っていたタバコが半分以上短くなった頃、僕はおもむろにLINE画面を開いた。やりとりをしていた送信相手の名前が時系列純に並んでいる。どれも数ヶ月前だ。誰かと親密になる訳でもない孤立した存在だと言われているようで気が滅入ったがスクロールする。目的の相手とのやりとりは半年も前のことだった。疎遠具合を自嘲しながら、メッセージを打ち込んで送信ボタンをタップする。自分からメッセージを送るのなんて久し振りで、ちょっと緊張した。3分もしないうちに返信が来た。
『今日は勝つから』というメッセージ共に動画が添付されていた。その動画を観て、僕は『今日も勝つから』と送られた添付データに返事をするような動画を送る。
『昨日の守備、凄かったな』
『あの時、部屋で声上げちゃった。打球、めっちゃエグくなかった?』
『そりゃ、期待の外国人だから。スタメンで出たら一発は打ってくれる』
『今日は無いけどな』
『いや、今日は打つよ。お前のとこ、新人だろ?』
『期待の新人だから、抑えるよ』
 プロ野球を機転とした会話。意思疎通ができているバッテリーのようなテンポの良いやり取りが続く。肩肘は張っていなくて、やってくるメッセージに対して素直に打ち返している。
 あぁ、これか。等身大の自分って。本当の意味での等身大の自分を掴んだわけではないけれど、その断片を掴めただけで呼吸が少し楽になった。こういう繰り返しで自分を形成していくのだと改めて思いながら、途方もない道のりを歩むことに意欲的になっている自分がいた。 新たに吸い始めたタバコを灰皿に落として、来る前の足取りが嘘みたいな足取りで家路を目指した。今日は全試合デーゲームだ。
 帰り道の途中で別のサーファーとすれ違った。けれど、さっき通り抜けた男を観たときに抱いた感情は収縮化していた。面倒な設問に向き合っている割に単純な自分自身の一面が透けて見えて頬が緩んだ。等身大の自分と繕った自分のバランスを整えるには、どうやら野球が一番必要みたいだ。

文責 朝比奈 ケイスケ

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