ハイライト改訂版㉕

 夏の暑さを引きずったまま、秋になった。子供の頃は紅葉を写真に収めていた時期も今は温暖化のせいで夏の延長戦みたい印象を抱く。紅葉なんて見る方が珍しくて、生温い風に当たっていると、近い将来には秋という季節が日本から消えてしまう日が訪れてしまうのだろうと、漠然とした不安が浮かんだ。
 これからやってくる繁忙期に備えてバイトを長期で休んだ。コンクールの写真を撮るために。今日もあてもなく、赤いアンカーのロードバイクのペダルを規則正しく踏み続け、写真を撮る場所に相応しい場所を探していた。一定の速度を保ちながら、普段よりも注意深く東京らしい風景を眺めて進んだ。
 タクシーが目立つ四車線の道路。僕と同じようにロードバイクで駆け抜けていくジャージ姿。スマートフォンの画面を見つめ歩く若者。電話をしながら頭を下げつつ急ぎ足で歩くサラリーマン。東京に住み始めた頃は、東京らしいと思った風景も今では般化して日常に落とし込まれている。少しばかり東京という街に染まった自分を不意に感じた。
 結局、二時間ほど走り回ったが、写真を撮る場所を見つけられず、それどころか写真を撮る気にすらなれなかった。唯一の収穫と言えば宮野写真館がある街で見つけた公園の雰囲気が気に入ったくらいだった。そんな情けない収穫だけではいけないと鼓舞しながらもペダルを回していると、あの坂を目の前にしていた。陽炎が浮かぶアスファルトでできた坂を睨み、そしてゆっくりと坂を登り始めた。
 夏休みの大学は喧騒のない静けさだった。まるで美術館にでもやってきたか錯覚に陥ってしまう。入学して以来、何度も歩いた道を進む。図書館の裏、立ち入り禁止になっている屋上へと繋がる階段の前にロードバイクを立て掛けた。そして階段を一段一段噛みしめるように上がっていった。もう二度と行くことはないはずの場所。そう思うだけであの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。
「もう三年か……」

 夏の本番を抜けても尚容赦ない残暑に、もはや秋は消滅したと宣言してもらいたい気分だった。今日も真夏日だと朝のニュース番組で、見ているだけで癒される可愛い女性が天気の解説をしていたのを思い出す。その女性が女子アナかアイドルやそれに類似するタレントなのかは分からなかったけれど、朝から上がった分のテンションが下がる程度に教室で退屈な時間を過ごしていた。
 夏休み特別講習を受ける必要性は、正直言って僕にはなかった。ただ、翔平や誠治が受講するからというだけの理由で受講することにしたのは、単純に大学に入学して出会った友人と同じ時間を共有したいという気持ち、同じ時間を共有していれば何か面白いことが起きるかもしれないという極めて明快な動機だった。
 その特別講義に彼女がいることを知ってからは、少しだけ意味合いが変わっていたけれど。特に今日は。講義を聞いている彼女の横顔を眺めながら、明け方まで飲んだ酒のせいで強烈になった睡魔に襲われつつ、昨日の夜の事を思い出していた。
「あのさ、そろそろ告白しろよ」
 酔った勢いで翔平が言った。特別講義は朝九時の一限から夕方六時までという大学生にとっては厳しいスケジュールが三日続くことになっていた。僕は一人暮らしの部屋からロードバイクで三十分も掛らない場所に住んでいたから、さほど苦痛ではなかった。しかし実家から通う翔平と誠治は口を並べて「シンドイ」と初日から言い始めたので、昨日、今日とに僕の部屋に泊まりに来ていた。
「今じゃないだろ?」
 僕は飲み慣れないビールの苦さに顔をしかめながら答えた。
「じゃあ、もうチャンスはないぞ」
 高校生の頃から酒を嗜んでいると話していた翔平は、頬を赤らめるだけの変化しかなく、どう見ても普段通りの翔平だった。
「そんなことないだろう」
 僕が翔平の言葉を否定すると、ウイスキーの瓶を持った誠治が会話に入り込んでくる。
「いや、和樹自身、夏休みの間会えないのはシンドイだろうし、茜ちゃんも誰かになびいちゃうかもしれないよ」
 ウイスキーの瓶をテーブルに置いた誠治は、可能性について言及し、課題文献が印刷されたコピー用紙に目線を落とした。酒を飲みながらでも勉強できる能力は不器用な僕には到底できないと思ったが、そのことには触れなかった。酒を飲みながら勉強するスキルよりも優先するべきことが僕にはあったからだろうと言い訳を作りながら、誠治の姿を盗み見した。
「まぁ、確かに」
 弱気な僕の声は、夏の魔法のようにあっさりと消えた。
「じゃあ、明日だな」
 翔平の言葉には拒否権などという逃げ道はなかった。むしろ、さっさと連絡して待ち合わせをしろという意味が含まれている。その煽る展開が面白いと感じ酒の肴になったのか、翔平はテーブルの上に置かれた未開封の缶チューハイに手を伸ばす。
「急すぎないか?」
 僕は必死に抵抗する言葉を脳内に準備する。こういうことに関して言えば、僕のワードストックは豊富にあるほうだと自負していた。
「急でもなんでもいいから、明日待ち合わせしろ」
 翔平は一切引くことなく同じことを言う。百六十キロオーバーのストレートしか持っていないパワーピッチャーが浮かぶ。この手のピッチャーには小細工は有効だが、土俵際の場面では有無を言わさない力が小細工に勝ることを、メジャーリーグや世界大会の中継を見て知っていた。だからこそ僕は、密かに翔平が酔いつぶれてしまい、このことを忘れてくれて欲しいを願った。
「でもまぁ、こういうのは勢いも大事だよ。和樹」
 誠治は課題文献を読みながら、ぼそりと呟く。僕のささやかな願いはあっさりと打ち消された。パワーピッチャーに隙の無い守備陣が居る場合、それは負けを意味していると言っても過言ではない。
「そう言われてもなぁ……」
 エバースをするバッターのように、言い訳を紡ぎながら逃げ切る糸口を模索する。アルコールで思うように働かない頭は、まるで貧打に苦しむ下位打線だ。
「弱気になる気持ちは分からなくはないけどさ、こういうのもいいんじゃない? オレたちが背中押さなかったらいつまで経っても動かないだろ。和樹は」
 出会って数か月なのにも関わらず誠治は僕の思考や行動を知り尽くしている気がした。恐らく翔平も把握している。その事実を踏まえると逃げられないと思い、言い訳で逃げることに対して諦めの念が濃くなり始める。同時に、こうした友人に早くも出会えたことに感動を覚えていたのは否めなかった。些細なことかもしれないけれど、そのことは僕にとっては嬉しい事実だった。

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