ハイライト改訂版㉒

「海だぁー!」
 翔平は大声――まるで声出しをする高校球児のような声――を海に向けて叫んでから、一目散に砂浜を走り出した。誠治たちも翔平につられるように走り出した。
砂浜は柔らかく足を取られる。空は憎たらしいほどの澄んだ青。ゆっくりと動く雲。自由に旋回するトンビ。目を瞑れば聞こえてくる規則正しく押し寄せ引く波音。海水浴を楽しみにしていた子供たちの楽しそうな声。時より国道百三十四号線を駆け抜ける車やバイクのエンジン音。翔平たちの賑やかな声。
 住んでいる街では匂わない潮の香り。タバコの香りが嗅覚を刺激する。このどれもを全て残したい。心が訴えかける。僕は立ち止まり、海へと走り出した六人の背中を見送った。そして首に掛けていたカメラで翔平たちの背中を切り取った。
 この記憶と写真の事は永遠に忘れることはないだろうな。なんて予感を抱きながら、吹き抜けた風に想いをはせた。
 タバコを吸って、翔平たちが騒いでいる姿を見つめていた。夢中になったことには体力の限界まで打ち込んでいる五歳児のような翔平たちは見ていて飽きなかった。海岸とサイクリングロードを区切るコンクリートで作られた階段は、容赦なく降り注ぐ太陽の光によって熱せられ、臀部が焼けてしまいそうだった。自分の身体よりも大事なカメラは首から下げたままで、時よりレンズやディスプレイが太陽の光に反射して、眩しさを訴えている。
 カシャ、不意に僕の横でカメラのシャッター音が鳴った。デジカメでもなければスマートフォンでもない懐かしい音。
「いい感じに撮れたかな?」
 いつの間にか海で騒いでいたはずの彼女が僕の横に立っていた。小さな手にはインスタントカメラがある。咄嗟の事だったので思わずカメラに目が行ったが、すぐに海水を浴び、キャミソールやその下に着ていたTシャツまで濡れている彼女の上半身に目移りする。下心が連動した胸騒ぎのようなものが巡る。一度、胸の辺りをチラ見してから視線を海に戻した。男としての真っ当な反応だ。
「いきなり撮るのは反則だよ」
「ゴメン。でもいつもカズ君はカメラマンで写真に写らないから、私が代わりにカズ君を撮ってあげたよ」
「……そっか。ありがとう」
 確かに今まで積み上げてきた写真の中に僕の姿が入っていることは皆無だった。出来上がった写真の向こう側には僕がいるという事実だけで満足している心境が強く影響しているのだろう。それにアイツらを撮るのが役目だという自負もあったからこそ、その立ち位置から動くことができなかった。
「ねぇ、海の方に行かないの?」
「うん。アイツらを見てるだけで十分だよ」
「カズ君って、海に来たら文庫本でも読み始めるタイプだと思ってたけど、本当にそうなんだね。今回は文庫本じゃなくてカメラとビールだけど」
 彼女は優しく微笑み、僕のカメラとすっかりぬるくなって飲めたもんじゃない缶ビールに視線を注いでいた。
「それ、どんなキャラだよ?」
「ドラマとかマンガで出てきそうな、冷めたように振る舞っているけど、胸には熱い想いを持つキャラクター?」
 茶化すように言った彼女は、いつかの夏クールドラマのことなどを続けざまに話し続けた。彼女の言ったドラマは僕も見ていて、あんなイケメンじゃないし、そんなにカッコいいもんじゃないよ、などと答え続けた。
 彼女と中身のない話をしながら、翔平たちが騒いでいる姿を眺めていると、青春を謳歌している気持ちになった。あまり認めたくはなかったが、本質的にこういう青春じみたことが僕は好きだ。どう振る舞えばいいか分からないから、今みたいに斜に構えることしかできないけれど。
 彼女らしくない、饒舌過ぎるドラマトークが落ち着いた頃、僕は横に置いていた缶ビールを飲み干した。炭酸も抜け、マズいはずのビールの味も何故か美味く感じてしまうほど青春に染まっていた。
「ねぇ、カズ君」
 彼女の声に反応し、僕は横に居た彼女を見つめる。
「ん?」
「本当にありがとうね」
「何が?」
 何についての感謝の言葉なのか分からなかった僕は彼女に問う。
「カズ君のおかげで内定いっぱい取れたし、行きたい会社にも受かった。全部、カズ君の写真、お守りのおかげだよ。本当にありがとう」
 電話越しで聞いた言葉よりも、直接言ってくれた感謝の言葉は響く。なんだか泣いてしまいそうだった。
「茜ちゃんの力だよ。複数の内定に、行きたい会社に内定貰えてよかったね。おめでとう」
「そんなに褒めてくれてありがとう、嬉しいよ。でもね、カズ君のおかげなんだよ。カズ君もきっと内定取れるよ。今までカズ君が受けてきた企業の面接官の目はね節穴なんだよ。カズ君なら大丈夫。ちゃんと内定取れるよ」
「……あのね……」
 僕は今後について静かに語り始める。悦に浸る傲慢な権力者のように、能弁に、そして青二才の理想論から導いた進路について。
 五分もしないうちに、僕はこれからの近い将来についての漠然とした未来図を吐き出した。
「……ホントなの?」
「うん」
「そっか。でもカズ君なら大丈夫。勇気を貰える写真を撮れるんだもん。私は応援するし、何よりカズ君らしい決断だから大丈夫だよ」
「まだ、どうなるか分からないけど今の言葉で勇気が貰えたよ。ありがとう」
 無意識で彼女の手の甲に自分の手のひらを置く。柔らかく小さい彼女の手は、僕の手の中にすっぽりと収まった。彼女は抵抗しなかった。
「でも、なんか悲しいな」
 彼女は寂しそうに言う。僕は彼女の横顔を見つめ、「どうして?」と優しく問い掛ける。
「カズ君の撮る写真が、私たちから離れて行っちゃいそうな気がしてね……」
 波の音が僕達の沈黙に差し込む。心地の良い音と時間に、この瞬間で全てのことが止まってしまえばいいのに、と本気で思った。
「そんなことないよ」
「カズ君の撮る写真は、本当にいい写真だから……。色んな人に評価されるのは嬉しんだけど、ちょっと寂しいよ」
 俯き加減で彼女は言う。両膝まで海に浸かる場所で未だに衰えぬテンションで騒ぎ続ける翔平たちの声が聞こえる。やがて翔平が誠治とジーター二人掛かりで担がれ、海に投げ出された。その姿を見て薫子さんと美沙は笑っていて、この場所でも十分聞き取れる大声で、ふざけんなお前ら、と翔平が叫んでいる姿が目に入った。
「大丈夫だよ。僕はこのままだよ」
 彼女は何も言わない。
「ねぇ、茜ちゃん」
 僕は彼女の名前を呼んだ。
彼女は顔を上げ、僕の顔を見る。潤んでいる彼女の眼を見て、僕の中で何かが外れた。
 覚悟、決意、勇気、そんな言葉では表現できない何か。
 気付くと僕は彼女に顔を近づけ、唇を重ねていた。彼女は驚いた表情を一瞬だけ見せて、僕の情動が起こした冷静さが抜け落ちた安易な行動を優しく受け入れた。
「いけないんだぁ」
 唇を離して、彼女を見ると悪戯な笑顔をしていた。その顔を見て、僕は正気に戻る。
「ゴメン」
「キスしといて謝るのはいけないんだよぉ。ちょっと傷つく」
「ゴメン」
 再び謝罪の言葉を述べる僕は、思春期の中学生と遜色が無いほど、どうしょうもないガキだった。謝り倒したい気持ちを押し込み、極めて冷静に振る舞とうとする。横に座る彼女は唇を交わす前より、心理的、物理的な距離が近くなっている気がした。まるで次の一手を待っているように。僕は、もう一度彼女に顔を近づけた。彼女は抗おうこともせず、ゆっくりと目を瞑り、僕の暴挙に似たキスを許した。
 身体が震える。心臓が激しく脈打つ。彼女の汗と化粧品の匂い、唇を通して伝わる体温に幸せの欠片を見つけた。
 写真として形には残らない、記憶だけの写真を脳裏に焼き付ける。
 この時は、何もかもが上手くいく未来しか浮かばなかった。

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