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明け方の乾杯

 部屋に着いた途端に、屋根が雨粒を弾き始めた。好きな音に耳を傾けながら、僕は乗っていたロードレーサーを部屋の片隅に置く。フローリングの上に、通販やスーパーで貰った段ボールを敷いたスペースは異彩を放ち、違和感を体現していた。
 エアコンのリモコンの電源ボタンを押して、冷風を求めた。瞬時に涼しさを手に入れられないのが難点だな、と呟きながらも唯一の冷暖房器具が動く出す時を背負ったカバンを下し、着替えながら気長に待った。室内には熱がこもり、蒸し暑い。背中から溢れる汗をタオルで吹きながら思うことがあった。この部屋は、いつまでも過去に縛られ動きがノロマな自分にそっくりだと思わず自嘲してしまう。
我ながらどうしょうもない癖だなと、新たな自嘲をしているうちにエアコンは呆れるほど愚かな僕を慰めるように冷たい風を吐き出し始めた。僕は玄関と台所が同居している空間に置かれた冷蔵庫から、コンビニのイベントで貰った飲んだことのない銘柄のビールを手に取り、プルトップを開けた。炭酸と鉄のような味が舌を刺激し、喉を潤した。
「仕事終わりに飲むビールって、幸せだよな」
 何かを祝う飲み会の三次会、上司に強制連行されたスナックで顔を赤らめて酒に飲まれていた同期の丸山が横で言った言葉と映像が不意に蘇った。
「幸せか。なんだよ、その抽象的概念は」
 僕も酒に飲まれていたのだろう、思わず本音を吐露してしまった。
「お前、冷めてんな」
「そうか?」
「冷めてるよ」
「実感湧かないけどな」
「森は熱くなることとか幸せだと思うことないの?」
 丸山は神妙な顔で訊いた。赤らんだ顔ではあったが、なんだか僕のことを心配しているような、どこかで軽蔑しているような表情をしているように映った。「熱くなるなんて年齢でもないだろ?」
 僕は極めて平静を装い言葉を繋いだ。でも心の中は動揺していた。酔っても冷静に起動する理性は、かすかな心の動きを見逃してはくれなかった。
「年齢は関係ないんじゃないか?」
 丸山は、視線を僕から目の前にいる五十代の部長へと移した。僕は丸山の目線を追い掛けるように部長に視線を移す。酒の入ったグラスや乾きものが置かれたL字のテーブルの向こう側、カウンターチェアから立ち上がり、日本代表の応援でもしているような真剣な表情の部長が見える。
 社内では社会人のお手本のようにスーツを着こなしているのに、今は目も当てられないほどスーツが崩れている。おまけにネクタイを頭に巻いているもんだから、僕は思わず笑いそうになった。更に追い打ちを掛けるように、近藤真彦の『すにーかーぶるーす』を熱唱している姿は、大みそかのお笑いの特番に出ても誰かしらを笑わせることができる気がした。音は合っていないし、何より社員のお手本のような人が周りを気にせずに何かを吐き出している姿は滑稽だった。
「あれを見てるとそうかもしれないな」
 僕は部長に聞こえない声で丸山に言い、そして店内を見渡した。一本足の丸テーブルにスタンドチェアーが二脚セット。それが二つ。その奥は鏡張りの壁が広がり、反射したカウンター席や酒瓶の並ぶ棚、ママと呼ばれる女性の姿が映っている。天井からぶら下がっている薄型のテレビは、恐らくカラオケを歌う為だけに用意されているのだろう。今も、上司が熱唱している曲が流れている。明け方、いやもう朝がやってきたと表現して構わない時間までいる客など、僕らしかいない。明日、正確に言えば今日仕事がないことに安堵したことは言うまでもない。
「そうだろう?」
 丸山は笑いながら言った。僕は小さく頷く。
「確かに深夜三時を過ぎてるのに関わらず、あのテンションでいられるの幸せなんだろうな。でも日頃の鬱憤を吐き出しているようにも見えるけどな」
「違いない」
 僕らは、何の意味も持たない乾杯をした。それを上司に見られて、二人でおぼろげにしか歌詞の分からないcomplexの曲を歌う羽目になったのは、失策でしかなかった。

文責 朝比奈ケイスケ

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