ハイライト改訂版⑲

「やっと、やる気になったか?」
 カウンター席で僕の横に座るマスターは、日本酒のお猪口を口に運んだ後に満足そうな笑みをこぼして言った。
「はい。まだ何にも決まってませんけどね」
 僕はジョッキに入ったビールを一気に飲み干した。
 宮野写真館の近くの商店街で地域住民をターゲットにした居酒屋は今日も満席だった。土方風の中年二人組や商店街を闊歩する商店会のじいちゃんなど、メンツは安定して変わらない。手書きで書かれたメニューや今や大女優になっている女性が水着姿でビールジョッキを持って笑顔でカメラ目線をしているビールのポスターなどが壁には貼られている。昭和の居酒屋というイメージだ。
 平成生まれにも関わらず不思議と居心地のよさを感じるのは、毎年、親戚を集めた新年会の雰囲気に似ていたからだろう。まだ子供だったから、オレンジジュースばかり飲んでいたけれど、僕が撮った写真を褒めてくれたことは今も記憶の深い場所でしっかりと生きていた。
「『忘れられない一瞬』って、テーマはお前の撮る写真には合ってるよ」
 就職活動が始まる直前にマスターから参加を促されたコンクールに、今日まで僕は首を縦に振らなかった。就職活動が始まり、写真とは縁遠い人生を送ることを頭の中で感じており、面倒な未練みたいなものを生み出したくなくて頑なに不参加の姿勢を決め込んでいた。
 この心境の変化は、単に就職活動に連敗して、僅かな可能性にすがりたかったわけではなく、僕の中で勝手に狭めていた選択肢を洗い出し、一番やってみたことを素直に選んだ結果。少しだけ自由になれそうな気がするのは、どう抗っても写真が僕の一部になっている証拠だった。
「なんでまた急にやろうと思ったんだ?」
 徳利を傾けお猪口に日本酒を注ぎながらマスターが訊いた。
「この前写真館に来た友人に言われたんです。もっと自由になれって。がむしゃらな方が生き生きしていると言われて……。それが、ここ数週間ずっと胸の中に突っかかったままだったんです。そんな状態で就職活動をしていたら苦しくなってしまいまして……。それでさっき、マスターに『写真、面白いだろ?』って言われた時、自分の一番やってみたいことに正直になってみようと思ったんです」
「そうか……。いい友達を持ったな」
「はい」
「やりたいと思ったことをやれないまま時間を過ごして、慣れていくのが人間だ。でも色んな価値観で溢れている中で、自分の我を通すことができるのはごく僅か。たまに巡ってくるチャンスに飛び込める奴も少ない」
 語り掛けるような口調は、どこか未練を残したマスターが過去の自分に向かって言っている、と僕は思った。
「和樹は自分の想いに正直になって、やりたいと思うことに向き合うことを決めた。その結果がどうであれ、この先、どんなことがあってもその決断が自信になるぞ」
 瓶ビールや冷酒が収納されている冷蔵庫の上に置かれた薄型テレビでは、今日行なわれている野球の世界大会が流れていた。得点や失点、ヒットやエラー、単純な内野ゴロでさえ、感情が爆発したかのような声が店の中に響いている。その声の主は土方二人組だった。日本代表の投手がストライクを取るだけで盛り上がり、何度も乾杯をしていた。
 不意にマスターは野球中継で盛り上がっている客を指さしながら、語り始めた。
「アイツらだってそうだ。アイツらはプロを目指して野球漬けをしていた高校球児で、同じ高校のバッテリーだった。高校最後の夏、タオルを巻いている方がピッチャーをしていて肘に爆弾を抱えていたんだ。それは監督もチームメイトも知らなかったんだけど、隣に座っているハゲ頭は気付いていた。だから、試合前に何度も投げないようにと忠告してたらしいんだ」
「……」
「そしたらタオルの方が『プロにはなりたいけど、お前とバッテリーを組んで久保田のいるチームに勝ちたい。お前と一緒に久保田と勝負できるなら、この肘がイカれても構わない』って言ったらしくてな。その覚悟にハゲ頭も覚悟を決めて、それ以上何も言わなくなった。試合では久保田を三打席連続三振に打ち取ったんだけどな、最後にサヨナラホームランを久保田に打たれた。でもアイツらの表情はやりきったかのようにすがすがしかった。今、二人で会社を作って仕事して、野球のある日には二人でああやって酒を飲み交わしてる。今日の試合は代表選で、日本代表監督が久保田ってこともあって普段よりもうるさいけどな。アイツらには勝負したこと、タオルの肘が壊れたことに未練がない。自分の我を通して掴んだ結果に対して、決して後悔してない証拠だ」
 マスターは噛みしめるように言葉を紡いでいく。まるで同じ場所にいて、二人の覚悟を知っているような口ぶりだった。そう言えば宮瀬写真館には、一枚だけ違和感のある写真が飾ったあることを思い出した。高校の名前の入ったユニフォームを着た若者が二人並んで写っている写真。もしかしたら、あの二人が被写体なのかもしれない。
 野球中継で盛り上がる二人に視線を移す。テレビの向こう側で行なわれている試合は、日本代表がヒット・エンドランを決め沸き立つ球場が映し出され、二人も同調するように声を挙げた。
「別に写真で飯を食おうなんて思わなくてもいい。ただ、自分のやりたいことに蓋をするなよ」
 僕の背後で、マスターは静かに呟いた。思わず振り返ると、マスターはさっきの僕のように二人を眺めていた。
 僕が質問をしようとした時、テーブルの上でスマートフォンが震え、ディスプレイが明るくなった。着信主は翔平だった。滅多に連絡をしてこない相手からの着信に、不吉なことが脳裏に浮かんだ。
「出なよ。あの時のホスト風の友達だろ?」
 あの日に会っただけの僕の友人をマスターはしっかり把握していた。そのことについて疑問符が浮かんだが、マスターの言葉に甘えて、スマートフォンを持って店の外に出た。
「もしもし」
「おう、暇人。今日も元気に就職活動頑張ってるか?」
「皮肉か? それとも内定決まってる奴の暇つぶしか?」
「どっちでもねぇよ。お前に連絡するオレの気持ちにもなれよ」
「知るか、そんなもん」
「ったくよお。ふざけんなよ」
「いきなりキレるとか、相変わらず理不尽だな」
「キレてねぇーし。お前と話してんと調子崩すわ」
「じゃあ病院にでも行きやがれ。電話切んぞ」
 翔平と話す時だけ僕は何も考えず思ったことを口にしてしまう。嫌いなわけではないけれど、翔平に対してだけはいつも喧嘩腰で話をしてしまう。考え方が符号違いの翔平を僕は無意識で意識をしているのだろう。
「あー、切るな、切るな。来月にバーベキューすることになったから」
「はぁ?」
「んじゃそういうことで。オレは薫子を連れていくし、誠治と美沙も来る。お前とジーターも強制参加だから。ってことで、お前も誰か呼べよ。んじゃ以上」
 まくし立てるように用件だけを伝えた翔平は電話を切った。耳元でツーツーと通話終了を告げる機械音が無機質に流れた。
「ったく、いつもいきなりなんだよな。ふざけんなよ」
 恨み節を口にしたが、予定が一つ増えたことにワクワクしていた。純粋に飲み込めないのは、誰かを呼ばなくてはならないということだった。誰を呼ぶかを考えた先に浮かんだのは一人しかいなかった。
 覚悟を決めた今日じゃなければ、絶対に誘うことのできない相手。LINEを起動させ、積み重なった会話を見ながら電話のマークをタップする。LINE通話特有のリズムが耳元で何度も響く。彼女が電話に出るのを待った。二十秒くらいが経過しても出ない事実を言い訳にして電話を切ろうとした時、耳元の音が変わった。
「もしもし?」
 彼女の声は遠く、声よりも街の喧騒の方が大きい。
「もしもし。今、大丈夫?」
「うん。大丈夫だけどうるさくない?」
「外にいるの?」
「うん。今ね、美沙と二人飲みし終えて駅に向かってる。ちょっと酔っぱらっちゃってるけど、気にしないで」
「そっか。二人飲みって珍しいね」
 彼女はあまりお酒が強くない。何度か一緒に飲んだことがあったから、僕はそのことを知っていた。だからかなんだか引っ掛かった。別に大学生なのでおかしなことではないが、それでも違和感は拭えない。
「今日ね、美沙が就職先を決めたからそのお祝いなんだ」
「美沙ちゃん、どの会社に行くのか決めたんだ」
「うん。私もね、決めたよ。いろいろ迷ったけど、就活が始まってから行きたいと思った会社に行くことにした。――それでね、カズ君、ありがとう。カズ君のおかげでいっぱい内定取れたよ。第一希望の企業の内定も」
 スマートフォンで繋がっている向こう側の彼女は、恐らくとびきりの笑顔をしているのだろう。それを想像するだけで嬉しくなった。
「僕の力じゃなくて、茜ちゃんの実力だよ。おめでとう」
「そんなことないよ」
 僕の言葉を否定する彼女の言葉は強かった。
「本当にカズ君のおかげなんだよ。凄く緊張する試験とか面接ばっかりだったけど、企業の人が私の履歴書を見る時に、私の写真が見えたりするの。私を一番良く撮ってくれた写真が少しでも目に入ると、なんだか落ち着いたの」
「そうなんだ」
「面接前まで緊張していたのが嘘みたいに、普段の私でいられた気がするの。質問もしっかり答えられたしね。撮ってくれたカズ君に言うのは恥ずかしいけど、写真を撮ってもらってから、ずっとあの写真は就職活動のお守りだったんだよ」
 通りすがりの人に腹でも刺されて重傷を負わないと見合わない言葉の数々に胸中は、すっかりはしゃいでいた。
「少しでも力になれたなら良かったよ」
「少しどころじゃないよ」
 電話を掛けた理由を忘れてしまいそうになるほど嬉しかった。もしも彼女が目の前にいたら抱きしめてしまいそうなほどに。
「ありがとう。自信になるよ」
 電話口から電車のアナウンスが聞こえる。もう駅構内、あるいはホームに彼女はいることに気付いた僕は、覚悟を決めて言葉を放った。
「来月、みんなでバーベキューするみたいなんだけど、茜ちゃんも来ない? というか来てほしい」
 思ったことを理性というフィルターを通さずにこぼれ出た。言った後すぐに恥ずかしくなる正直な気持ちは、がむしゃらだったあの頃に少し重なる。
「行きたい!」
 彼女の答えは即答だった。僕は人通りの少ない店の前で左手を拳にして小さくガッツポーズをしていた。我ながら、らしくない行動だった。
「詳細が決まったら連絡するね」
「うん。待ってるね」
 間もなく電車が到着します。白線の内側でお待ちください。
彼女の声の後ろで、駅のアナウンスが聞こえる。今、渋谷か池袋辺りにいるのだろうと漠然と思った。
「ゴメン、電車来ちゃった。バーベキューの連絡待ってるね」
 そう言った彼女は、しばらく無言のまま電話を切らなかった。駅のホームでおしゃべりをする若者の声、電車が過ぎ去る音、電車が来ることを知らせるサイレンが、僕達の沈黙の中を疾走していく。そんな喧騒の中、どこかで聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「うん。帰り道気を付けてね」
 それだけ言い残して、僕は電話を切った。それを待っていたかのように気持ちのよい風が吹き抜けた。熱帯夜にしては不思議なくらい爽やかな風だった。
 再び店に戻り、カウンター席に目を向ける。マスターは座っていた席にはおらず、土方の二人組のところで一緒になって野球中継を眺めていた。
 なんだか画になるな、と思った僕はスマートフォンのカメラ機能を起動させ、三人の後ろ姿を写真に残した。シャッター音に気付いたマスターたちは、何撮ってんだよ、とにこやかな表情をしながら文句を言ってくる。こんな大人になれたらいいな、と思い、さっきまで座っていた席に腰かけたテーブルにはお猪口が一つ置かれており、日本酒が注がれていた。マスターのお猪口だと思ったが、マスターが座っていた席には空になったお猪口が置かれている。それがマスターからの激励だと気付くのに時間が掛かった。
テレビをかぶりつくように見ている三人の背中に向けて、感謝の意を込めてお猪口を持った手を伸ばして一人で乾杯した。飲みやすいが辛口の酒は、日本酒が苦手な僕でももう一杯飲みたいと思えるほど美味しかった。
 夏の暑さを心地よく感じた、気持ちの良い夜だった。

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