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日記27:「短歌を詠んでみる」

昨晩から唐突に短歌を詠んでいる。
細かい決まりごとをまったく知らず、どころか細かくない部分もそもそも知らない可能性もある。私が把握しているのは57577のリズムで組んで季語は必要ないという、これが四国ゲームだったら速攻で爆発していること請け合いだというレベルだ。注釈すると、四国ゲームとは西尾維新の長編小説である「伝説シリーズ」に登場する出来事で、魔法少女が究極魔法を求めて行われる実験である。なにを言っているかさっぱりだと思うのでぜひ読んでほしい。1巻辺り約500ページ、それが10巻ある。
で、なぜいきなり短歌を読み出したかというと、この日記あるいはTwitterを読んでくれているような稀有な人々ならわかるかもしれないが(恐らくそんな人間はいない)、私の行動は大抵が思い付きである。これはTwitterに書いたことだが、私の思考は同時進行に行われかつ凄まじいスピードで各々が紐付けされていくため、思考が思考を呼び、発想が発想を呼ぶのである。無から有が生まれない以上なにかしらのきっかけはあっただろうが、今ではその詳らかなことはわからない。

閑話休題。
そういう曖昧な経緯で始めた短歌だったが、やってみると、これがなかなか楽しい。出来栄えとかを抜きにして、思い付いたものをひたすらメモ代わりにしているdiscordに投げてみる。それで作られたのが、昨夜、深夜に投稿したhttps://note.com/tukidekka/n/na4e717d12982(短歌1:「ワンナイト・ムーン・ナイト」)だった。合計8首、制作時間は約18分。初めてにしてはなかなかいい出来栄えなのではなかろうかと思った。

初めてとは言ったけれど、厳密にいえば違う。けれどそれは、いや私は短歌を詠んだ経験があるんですよとか、そんなことを明言できるほどの経験ではないことを私はよくわかっている。だから今でも決まりごとを知らないわけだ。そのときの経験はここでは語らないとして。
思い返してみると、そういえば昔、小学生のときに俳句でひとつ賞を取ったことがあった。内容は今でもよく覚えている。「初雪だ 少し遅いが 初雪だ」。これだ。大したものを作った気持ちなど毛頭なかったが、これが評判がよかったらしかった。
なんとなく短歌とか俳句、詩、エッセイとか…そういうものに自分が向いている理由がわかる気がする。ワードセンスの問題もあるだろうけれど、記憶の形式も大きいと私は思っている。
一般がどのようなのかはよくわからないが、私の記憶は基本的に写真とそれに付随するテキストだ。かなり不鮮明な画像があり、それを補うようにして詳細なデータがテキストにある。だから物の外見や街並みなどを脳内で構築して想起することはかなり難しいが、情報量で考えれば、まあ、人より若干多いくらいのそれを並べることができると思う。代わりにずっと住んでいる街の1本の道路を挙げ、手前から順に存在する店名を言ってみろと言われたら、絶対にできない。
これに関してはどちらの方の発言かを失念してしまったのだが、昔Twitterで、感想文の類は数秒の出来事を引き伸ばして書き表すといいという話を見たことがある。私はまさにこれが自分の得意なことだと思った。印象的な記憶のデータをテキストで持ってきて、そのテキストを複数の角度から眺め、あとは思想を混ぜたりベースにしたりして作り上げる。こういう言葉の創作に長い映像的な記憶は必ずしも必要ではないのだと感じた。

だんだん短歌から話が逸れてきたのでこれで締める。好きな話題で始めて好きな話題で終える。これって幸福だ。
ワードセンスの問題という言葉を表したけれど、私の場合、これは語彙というより肌感覚の問題だ。そして愛の問題だ。愛というのは愛されている自覚と愛している自覚、それが安定した関係を築くことで成り立っている。
だから私は言葉に愛されている自覚があるし、愛している自覚がある。そういうことだ。
しかしまあ、今日のはわりと読み手のことを意識して書いた気がする。日記というよりエッセイらしい。

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