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【つながる旅行記#40】函館市写真歴史館で、かつてのフォトショを知る

函館山に向かって歩いている。

今日の目的地は函館市写真歴史館だ。
以前深夜徘徊で行った公園の中にあるらしいので、暇だし行くことにした。

ペリーが居た。


そう、ペリーによって日本が開国の流れに舵を切ったことで、
この函館と横浜、長崎の港が開かれることになった。ゆえに像がある。

ペリーが来たのをきっかけに、前回の五稜郭も作られることになったそうだ。結果として、五稜郭が実際に使われたのは敵国ではなく同じ日本人相手というのがなんともだが……。

そしてペリーは今回行く函館市写真歴史館にも関わっていると言っていい。
ペリーが函館に来たことで、銀板写真術(ダゲレオタイプ)西洋音楽が当時の人々に衝撃を与えることになったからである。

やっと坂上ったわ…

坂を上り切り、元町公園の中に入る。

函館市写真歴史館

なかなか趣がある建物だ。
早速中に入ろう。

なんだか赤絨毯が引いてあるし、身が引き締まる感じになる。

展示によると、
本当に最古のカメラは、露光に8時間かかっていたらしい。
もはや人間を写すのは無理があるレベルだ。
その後の銀板写真も最初は20分かかっていたようで、これは今のカメラを思うと凄まじい手間だ。

自分はこの旅を始めてしばらくして、コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)を買ったが、ズームはできるし、すぐ撮れるし、何百枚も保存できるし、さらに動画まで撮れる。

こうして昔の事情を知ると、良い時代に生まれたもんだなと思う。

そういえば、昔はカメラに魂を吸われるとかいう話があったと聞いた。
正直「昔の人は頭悪いなあ^^;」と思っていたが、考えてみれば20分も動けずに謎の機械を向けられ続けていたら、何らかの攻撃を受けていると思いそうな気もする。

自分の想像力が足りていなかったのかもしれない。

この写真はペリー艦隊の応接役を務めた松前藩の石塚宮蔵を写した日本最古の写真。(の複製)
ペリーについてきた写真家のブラウンさんによるものだ。

通訳のウイリアムズさんの日記によると、函館には写真術について知っている人はおらず、めちゃくちゃ驚嘆して喜んでいたらしい。
(一方で「魔術鏡」とか「殺人箱」と呼んでたらしいが)

まさかの石塚宮蔵の袴と刀も飾られている。


歴史を見ると、函館で写真が広まることに貢献したのはロシアの人々だったらしい。
ロシア領事館に出入りしていた洋服の仕立て職人が、写真を生業にするようになるとは面白い話だ。人生どうなるかわからない。

かつての函館山の写真もあった。

そういえばブラタモリで、函館山は頂上が削られてると聞いた。
戦争に向けて要塞化されるにあたって、10mくらい低い山になったのだ。

この写真は1885年あたりとのことなので、要塞化される前……か?
あからさまに尖ってる感じがするし、削られる前の貴重な姿かもしれない。


真っ二つのカメラ
古いの色々


そして函館と言えばもちろん・・・


GLAYである。


函館が誇るラッキーピエロを一躍有名にしたのもGLAYだと聞いた。
コンサートを開く舞台、「緑の島」は、すごい人数のファンが集まり、
函館山をバックに行われるライブは至高だという。
なんと函館山の山頂でもライブの歓声が聞こえるとか。

※ライブの様子はこちらへ→2018年夏、GLAY緑の島ライブ&街角レポート


ライブ、一回も行ったことないな……。(陰キャ)


五稜郭製氷所

写真を見ていると、五稜郭のあの堀でかつては製氷所をやっていたことが判明した。
品質と生産高も日本一で、東京や横浜にも五稜郭の氷が運ばれて全国で大人気だったらしい。
今の堀の様子からは想像もできないが、当時は堀の水もめちゃくちゃ綺麗だったということだろう。

アナ雪じゃん……!


さて、写真の歴史の暗い部分も話しておこう。
戦時中の話だ。

日本は戦争中に各家庭の鉄製品が国に取り上げられ、盛岡城にあった銅像すら供出されていたわけだが、そんな中で写真撮影は当然ぜいたく品として販売禁止されることになる。

「国家の重大事局に、写真を撮って楽しむことは非国民」というわけだ。

実際に、撮影した結果罰金を取られ、カメラも没収された人もいる。
なぜかと言えば、函館山を撮っちゃったからということだ。

函館山は戦争に向けて要塞化されていた。
それを撮るとかお前ふざけとんのかということなのだろう。

なので函館山が写らないようにレンズフードをうまいこと使って写真を撮ったものが残ってたりする。

不自由な時代だ。

絶対タイムスリップしたくないな……。


気分を変えて、

やっとタイトル回収なのだが、
昔もフォトショはあったのである!!

いや正確に言うと、写真の修整はできたのである!!

自分はてっきり、そんな技術はPCが出てからのものだと思っていた。
考えが貧弱だった。

修整道具

そう、昔は描いて修整したのだ!

おぉ…!

目をつぶった少年の写真が見事に修整されている。
話によると電線とかもこうやって地道に消していたらしい。
しかもカラー写真でも出来るという。

知らなかった……。


函館全景

展示を見ていくと、なんだか歴史的に意味のありそうな写真があった。
函館山の全景を写した写真だ。

これは1889年に撮影されたもので、日本、イギリス、ドイツの軍艦がひしめく様をとらえている。
当時の函館は人口5万人の都市で、これは東京以北では最大規模だった。

街の様子(1889年)

恐らくこれらの家々は木造なのだろう。
こりゃ火事が起きたら次々燃えるわ……。

岡田健蔵の回でも触れたとおり、函館は火事で燃えまくっている。
この撮影が1889年なので、焼失戸数が1000を越える火事だけ挙げても、今後7回の大火が発生するのである。

1907年の、岡田健蔵や石川啄木が襲われる大火の前にも2回燃えるわけだ。
なんでこんなに燃えるんだよと思っていたが、これは単純に過密都市だったのも原因なんじゃないだろうか。
まさかこの時点で5万人も居るとは思わなかった。

当然だが、昔はGLAYのライブ会場にもなった緑の島は無い。
そして、現在函館ドックがある場所の左に台場がある。
もし攻め込まれたら、ここから砲撃したのだろう。

台場
ひしめく船

しかし凄い混雑ぶりだ。
なんかもう事故の香りしかしない。

武田斐三郎(五稜郭作った人)

ちょっとした暇つぶしになればいいなと入ったのだが、想像以上に知識が得られた。

良い歴史館だった。

なまら滑る!

函館には長いことお世話になっているが、こうして歴史を知っていくと町にも愛着が湧いてくる。

ぶっちゃけた話、生まれた場所よりも函館の歴史の方が詳しいまである。

思えば実家には18年しか暮らしていないのだ。
今後の人生で、「知識」どころか「住んでいた期間」すら、
他の地域が上回ることなんて普通にありえるのだろう。

なんだか不思議だ。

まあとりあえずお腹もすいたし……。



ラッキーピエロだな!!


~おわり~


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