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【つながる旅行記#43】in大洲 初めての四国とまさかの武田斐三郎

ここは大洲市立博物館

まさかの四国

大洲市は四国の愛媛県にある市。
この旅行記は北海道と東北が大半だったのでめちゃくちゃ新鮮だ。

自分は知らない土地にふらっと立ち寄って、何かないかを博物館などで探す人間なのだが、この大洲、今までの旅行記とも関係のある場所だった。


大洲市立博物館のなかに、なんだか最近見た覚えのあるものが置いてある。

五稜郭

そう、これは函館にある五稜郭の模型だ。

函館から遠く離れた四国の地になぜ……?」と思うだろう。

なぜかというと、五稜郭を設計した武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)は、伊予大洲藩士だったのである。

大洲の街中にあった武田斐三郎

大洲の街を歩いていたら、よく見た顔があったので博物館に入った次第だ。

この顔、過去に記事にした函館の写真歴史館でも遭遇している。

函館市歴史写真館にて

そして函館の五稜郭の中には武田斐三郎のレリーフが設置してあり、
みんなが触っていくせいなのか、顔の部分がテッカテカになっている。

ここまで重なれば、自分でもさすがに覚えているというわけだ。

五稜郭のレリーフ(触られまくり)

そんな武田斐三郎がどんな人物だったのかをwikipediaで軽く見ていこう。

伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として今の大洲市に生まれる。
当初は漢方医学を学んでいたが、22歳の時に藩主に願い出て大阪の緒方洪庵の適塾で学び、のちに塾頭となる。

2年後に洪庵の紹介で伊東玄朴佐久間象山兵学、砲学まで学んだ
ペリー来航のときは、象山に連れられて吉田松陰らとともに浦賀に行って黒船を見て『三浦見聞記』を著した(27歳)。
その才能を認めた江戸幕府の命により旗本格として出仕。
箕作阮甫に従い長崎にてロシアのエフィム・プチャーチンとの交渉に参加し、通詞御用を務めた(28歳)

歴史に造詣が深くはない自分でも、緒方洪庵、佐久間象山、吉田松陰くらいならわかる。
こうしてみると歴史上の偉人から学びまくりの人生である。

ちなみに箕作阮甫(みつくりげんぽ)という人はペリー来航時に米大統領国書を翻訳した人物だ。
そんな人と一緒にロシアとの交渉についていくとかすごいな……。

江戸に戻ると、幕府の命で箱館奉行・堀利煕らの蝦夷地・樺太巡察に随行箱館でアメリカのマシュー・ペリーと会談した(28歳)。

巡察中に箱館奉行所が設置されると箱館詰めとなり、10年間同地に滞在した。箱館では、機械・弾薬製造の任に就き、弁天台場や五稜郭の設計・建設に携わった。

また、諸術調所が開設されると教授役となり、榎本武揚・前島密・井上勝などが学んだ。他にも溶鉱炉を作ったり(33歳)、生徒らを連れて国産帆船「亀田丸」を操船して日本一周をしたり(33歳)、ロシアの黒竜江に日本初の修学旅行を兼ねた貿易に出かけたこともある(35歳)。

明治維新後は新政府に出仕し、陸軍士官学校を開校。

いや35歳までの人生でどんだけ成し遂げとんねんという話である。

プチャーチンの通訳についていったのと同じ歳でペリーと会談してるし、
諸術調所で教えた榎本武明、前島密、井上勝といったら、
函館戦争の中心人物と、日本近代郵便の父と、日本の鉄道の父である。
それを教授する側だったとは衝撃だ。

さらっと日本一周してるし、
ロシアに学生連れて修学旅行&貿易に行ってるし、
いやもう凄すぎだろこの人。

これは五稜郭の設計もするわけだわ……。


ふと壁のカレンダーを見る。

いやまさかの函館の写真!!


JR四国のカレンダーなのに函館の金森倉庫である。

ここの学芸員、実によくわかっている


博物館を後にし、大洲と言えば……という観光地を目指すことにする。

肱川橋
肱川(ひじかわ)

そういえば武田斐三郎はこの肱川(ひじかわ)で12歳にして小舟を自作して浮かべ、大人を感心させたという。

……やっぱあれだな、もう偉人は子供のころから凄いな。

目的地が見えた。

さあ、今日も歩くぞ。


~次回へ続く~


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