仏教音楽の声明は音楽なのか?
私の師匠 吉岡治
演歌界の大御所作詞家に故・吉岡治先生がいた。
先生と書く位であるから私は大変お世話になった。
吉岡先生のヒット曲と言えば誰もが知って口ずさめる歌が多い。
石川さゆり「天城越え」、瀬川瑛子「命くれない」、大川栄策「さざんかの宿」、美空ひばり「真っ赤な太陽」。晩年には子供向けに「あわてんぼうのサンタクロース」も世に出された。
この吉岡先生のもとで私は、運転手をしスケジュール管理をしいわばマネージャーのような仕事をさせてもらいながら歌の勉強をしていた。
ある日、先生は私にこう言った。
「俺の歌は声明(しょうみょう)みたいなもんだ」その意味を私が問うても、「自分で考えろ」と投げ捨てるように叱られた。
あの日からどれぐらいの歳月が流れただろう。今、改めて声明について考える機会があると思うと不思議な気持ちになる。
声明は音楽なのか
声明は音楽なのか?
考えの出発点として、音楽とは何であろうかをまず考えていく。
「音楽とは楽譜に表せるものである」ということがまず思いつくので仮定してみる。19世紀までのヨーロッパに限って言えばこれは正しいと言えるだろう。
西洋音楽の流れをみると、楽譜の構築に力を注いできた。ヨーロッパ人は目に見えない音を、見える形として残したいと考え、書きとどめる方向へと進んだ。
18世紀まで費やしてヨーロッパ人たちは、現在使っている合理的な五線譜を完成させた。誰が見ても演奏できると言うスタイルである。
しかし、日本では音を書いて残さず、「口承口伝」と言う形で音楽を残してきた。音の大きさや息づかい、表情、質感等のこれぞ音楽の命と言っても良い重要な部分は、とても楽譜では表現できないものだ。伝承という形により、他の流派に漏れないようにという狙いもあった。
また、バリ島のガムラン音楽も基本的には楽譜を使わずに演奏している。楽譜に表現できなくても音楽は成立するので先の仮定は成立しない。
では次に、このように仮定してみる。「音程が時間とともに変化していくものが音楽である」
西洋音楽も日本の音楽もガムラン音楽も、全て音程は時間とともに変化していっている。しかし、詩や物語の朗読(語り)を考えてみると、音程はすべて一定で変化していないとは言えない。
感情が高ぶるところは音程も高くなっているであろうし、そもそも単語レベルでも音程が変化している。「赤とんぼ」、この4つの文字だけにも音程差を感じる。時間とともに音程が変化しても音楽とは言えない。
音のコミュニケーションか
では、次にこう仮定してみる。「音楽とは音を使ったコミュニケーションである」
別の表現をすれば、音を使って何かを伝えたいことがあるということだ。ピアノやギターの音をただ鳴らしただけ、和音をジャーンと鳴らしただけで、何かを伝える意思が無ければ音楽ではない。
当然、鳥の鳴き声や川のせせらぎ、風の音や波の音はそれ自体は音楽ではない。それらの音を録音して編集すれば音楽となる。これがコンクレート音楽といわれるものだ。
では、結論。
「声明は音楽か?」に対する私の考えはこうである。
声明はお経に節をつけて、お釈迦さまの尊い教えを聞くわけだから、音を通して(声と音を通して)コミュニケーションが行われている。だから、声明は音楽であると考える。
最後に、二十年ほど前に吉岡治先生が言った「俺の歌は声明だ」と言った本当の意味は何だったのか?
言葉のような歌?歌のような言葉?いくら考えても答えらしきものは出てこない。
しかし、吉岡先生の中には明確に答えがあり、その指針というかコンセプトに法って、作品作りをしていたのだろう。だからこそ、あれだけ多くの素晴らしい作品を世に残せたのだ。音楽を作っていく上での自分の型を確立していくことは必要であろう。
●参考文献
岩田宗一「声明は音楽のふるさと」法蔵館
●参考サイト
ウィキペディア「声明」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?