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【情が移った時点で、肉ではなくなる。】

以前から気になって
いたことなのですが、

教育と言って学生たちが
愛情かけて育ててきた
豚や鶏を屠殺するのは、
ちょっと違うかなと
私は思う。疑問に思う。

その豚や鶏は、
いつも食べている豚や鶏とは
違うということだ。
それは、
愛情をかけてきた犬や猫を
殺して食べるのとあまり
変わらない。

「食べる」という行為は、
対象に情が移ると、
とてもし難い行為へと変わる。
逆に情が移っても「食べる」という
行為ができる人は野生的であると
言ってもいい。
畜産業の人たちは、
ペットとしては家畜を飼っていない。
『出荷するその時まで
大切に育てている。』
と言う畜産業の人もいるけれど、
彼らは、家畜と一線を引いている。
美味しくなるように、餌を与え、
「出荷する」という目的が頭の中に
あることで、ペット並みの愛情は
与えない人が殆どだと思う。
美味しくなるように、
大切には育てるが、
家畜に情は移さない。
情を移してしまうと、
殺す行為に躊躇が生まれてしまい、
仕事にならないからだ。
畜産業にとっては、家畜は商品なのだ。
ペットショップ店員にとっても、
ブリーダーにとっても、
動物は商品であるのと同じ。
リアルファーや象牙もそう、
動物=商品として見なしているから
容易く殺せるのだ。

だが、
まだ成熟していない学生が
その分別をできるかどうか。
難しいだろう。
この動物は、屠殺用だと
預けられても、ペットのように
可愛がってしまう、
一線を越えてしまう学生の方が
多いだろうと思う。
学生は大人とは違い、
まだピュアなのだ。
情が移ってしまった動物は、
ペットと同じ。
情が移ってしまった時点で、
商品ではなくなる。

子供が鶏に名前を付けて
大切に可愛がっていたが、
ある日、祖父に捌かれて、
その日の夜の食卓に肉として
並んだという話はよく聞くが、
祖父にとっては、鶏=肉、
子供にとっては、鶏=ペット、
という概念の違いだ。

なので、教育といって、
豚や鶏を学生に飼育させるのは、
違うかなと思う。
しかも、屠殺するとなると、
余計に、動物側も人間側も惨い。

学生なら、
屠殺場を見学するくらいで
いいんじゃないかと思う。
それでも十分ショックを
受けるからだ。
動物を肉として商品として
見なせない学生は、
きっと心に深い傷を負う。

命の重さや命の有り難さを
学ぶのは良いことであるとは思う。
しかし、その手段が問題である。

情が移ると食べれなくなる生き物は
人間だけではない。動物だって、
普段は敵対している関係でも両者の
間に情が芽生えると、そこに、愛情が
生まれ、襲わなくなる。
その状況下になってまだ尚、
「殺して食え」というのは、
非情にも程があるだろう。

「食べる=殺す」という行為は、
対象に対して情が無いからこそ
できる行為なのだから。