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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第38回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載38回 辻元よしふみ、辻元玲子

カジュアル化と「服装昇格の法則」

 ところで、クールビズという話からは離れ、カジュアル化、ということを考える場合、日本では古来、最高権力者ほど略装が許されてきた、という歴史を私は思い出す。そして、権力者の略装がカジュアル化を推進してきた、という事情である。日本の宮中において、一般の官人は盛装の束帯(そくたい)で御所に行く必要があったが、最高位の大臣や納言は略装の衣冠(いかん)や、もっとカジュアルな直衣(のうし)が許された。天皇から勅許を得る必要があったので、一律に偉い人なら誰でも出来る、ということではない。
 武家時代も、江戸城内で身分の高い者は裃の下に、しわの寄った熨斗目(のしめ)の小袖を許された。一見、クシャクシャしているのだが、そっちを着ている者の方が、身分が上なのである。「四位以上はちぢれ熨斗目といって、ちぢれたようなものを用いる。これは略式なものですが、かえって、これを位のよいものに許され」た、と三田村鳶魚「浅野老侯のお話」にある。将軍の御前に出るにも略装を許されている、それだけ偉い、ということだった。
 西欧では、もっと極端な話で、フランスの国王など寝室でベッドに寝たまま、寝間着の状態で廷臣の朝見を受けたというし、ひどい話では、オマルにまたがって下半身は裸、それで用を足しながら臣下の伺候を受けた貴族もいたという。
 そもそも人に頭を下げる必要がない人物は、略装どころか、たとえ素っ裸の王様でも庶民は尊敬してくれる。権力者が略装を言うときは、実は内心では「俺は偉いからお前ら庶民相手にネクタイなんか締めていられるかよ」という気分があるかもしれないことを疑うべきかもしれない。
 それとは別に、日本に限らず世界中で、服装の歴史は、前の時代の普段着が次の時代に礼装に昇格し、その次の時代には特別な衣装に祭り上げられて、挙げ句に消えていく、その繰り返しである、ということを申し上げておきたい。「服装昇格の法則」があるのだ。
 こういう現象が起こる理由は様々考えられるが、人というものは、改まった場面ではきちんとした服装をしようとする。正月になると、日常用としては廃れている和服を持ち出す、という具合で、伝統のある、正統と思われる、そして権力のある人や年配の人から見てもまっとうな服装を、儀礼の場ではしなければならない、と思うわけである。しかし、その権威のある老人や権力者も、徐々に代替わりしていくわけで、先に書いたように、権力者ほどルールを変更したがるものでもある。それで、徐々にその「正統で伝統ある、権威ある服装」も更新されていく。儀式の場でも、前の時代におじいちゃんたちが着ていた服から、徐々にお父さんたちが着ていた服へと、移っていくわけである。
日本では、平安貴族のハンティング・ジャケットだった狩衣(かりぎぬ)が、鎌倉、室町時代には礼装となり、江戸時代には高位の大名の式服となった。平安庶民の着た直垂(ひたたれ)は鎌倉時代に武士の普段着となり、江戸時代には礼装に昇格した。
赤穂浪士の物語を映画やテレビで見たことのある方は、江戸城の松の廊下で浅野内匠頭が、吉良上野介に斬り付けたシーンを思い出していただきたい。吉良も浅野も鎌倉武士のような直垂の一種を着ていたのを覚えておられるだろう。いずれも江戸時代の当時において、すでに日常的に着るような衣服ではなく、京都から勅使を迎えるという最上レベルのイベントだからこそ、二人ともあのような服装をしていたのである。吉良と浅野の服装も微妙に違い、吉良の方がより格が高い直垂、浅野は似たような服装だが、あちこちに家紋を配した「大紋(だいもん)」というものを着ていた。これは、それぞれ四位、五位の大名の式服であった。身分格式として吉良の方が上の官位にあることを示しているのである。
戦国時代に直垂の袖をカットした略装である肩衣袴(かたぎぬばかま)は、江戸時代には裃(かみしも)としてフォーマルウエアとなった。時代劇で遠山の金さんや大岡越前が着ているような「お奉行様の服」である。あれは当時、公式な場に出るときの正装であり、今日でいえばダークスーツのような衣服だった。本当の礼装としては、先に挙げたような直垂や狩衣が用いられ、もっと最上級の礼装には、平安時代の貴族が宮中で用いたような束帯(そくたい)を用いたのである。
が、これらのフォーマルウエアのうち、束帯は皇居での最高位の礼装として正式に残っているが、狩衣は神社の神主さん、直垂は大相撲の行司さん、裃は節分の豆まきをする力士などが着る以外、特別な祭礼ぐらいでしか見られず、ほぼ時代劇用の歴史衣装となってしまった。
そして、江戸時代には非常に格の低い普段着であった羽織袴(はおりはかま)が、明治以後は礼装となっており、きわめてカジュアルな、まあ今でいえばTシャツ姿ぐらいの服装であった小袖の着流し姿が、今では「和服」というものの通常の形式としてほぼ礼装扱いである。
というか、今や和服そのものが一種の礼装と見なされる。今日の日本では、正月や成人式、卒業式、結婚式など、和服の着用シーンはまさにフォーマル中のフォーマルに限られる。

本来は決してフォーマルでなかった振袖と羽織袴

もはや日常用の衣服としては廃れてしまったといっていい和服だが、服装昇格の結果、今ではそれ自体がフォーマルな服装とみなされるようになったのであろう。
特にお正月から成人式にかけて、一月は一年で最も和服姿の人が見られる時期である。江戸時代までは誰もが和服を着ていたわけで、その後も昭和三十年代頃まで、家では和服、外出は洋服というのがごく普通だった。今日では、和服そのものが「晴れ着」として礼装扱いになっているのは興味深い。中でも、現代の男性の礼装が羽織袴であるが、これはそもそも、戦国時代に武将が甲冑の上に羽織った陣羽織が起源であり、まさにミリタリー由来のアウトドア服だった。
そのため、江戸時代においては決して格の高い服装ではなく、先ほども記したように、大名の場合、最上礼装は束帯、正装は狩衣か直垂で、通常礼装は裃だった。羽織姿はあくまで日常の普段着、カジュアルだったのである。
しかし、これが町人・庶民においては礼装として扱われることになり、特に黒紋付きの羽織袴は冠婚葬祭に用いるフォーマルとなった。
明治に入って直垂や裃が時代衣装になってしまうと、この羽織が和服の最上礼装に昇格。宮中の式典や勲章の叙勲も紋付きで臨めるし、力士は関取以上、落語家は二ツ目以上でないと着用が許されない格式ある服装となった。
一方、未婚女性の最盛装とされているのが、華やかな振袖。こちらはそもそも、室町時代頃までは子供服の扱いだった。子供は運動量が大きく、体温も高いので、袖口を広く開けていたのである。江戸時代に入ると徐々に袖の袂(たもと)が長く伸びていった。これは平和な時代に入り、舞踊が盛んになって、長い袖がエレガントだったから、というのが長くなった理由の一つ。そして華やかで艶やかな服、というイメージになる。
江戸の初期にはむしろ、振袖は未成年の男性、少年用のもの、という印象が強かった。
有名な振袖火事(一六五七年)も、寺小姓の少年に一目惚れした梅乃という少女が、少年の着ていた振袖と同じものを作らせて執着したのが話の発端という。
梅乃は恋焦がれるあまり亡くなり、その後、売りに出された振袖には梅乃の念がこもっていたのか、二人の少女の命を奪った。このため、本妙寺で供養するべく振袖に火を付けたところ、本堂に延焼、さらに江戸市中に燃え広がり、江戸城まで焼け落ちてしまった。実にこの火事で十万人が犠牲になったといわれる。その後、幕府は綱紀粛正の一環として少年が艶めかしい服装を着ることを禁止し、振袖も若い女性専用のものとなった。
このように、初期には華やかというより、艶めかしい、という印象が強かった服だが、今では「晴れ着」として憧れの的である。

服装の昇格は今後、どう進むか

ヨーロッパの服装も、同じような服装昇格が見られる。
本来はリトアニアの日常着だったものが軍服となって、それからフロックコートが生まれ、乗馬服が燕尾服として昇格した。いずれも、徐々に日常着からフォーマルに、やがて最上の礼装に昇格していったのである。やがてこういう礼装は、くつろぎ用の遊び着だったタキシードが礼装に昇格して、駆逐されていくわけだ。
定着してから百五十年以上たつスーツも、その中で当初の略装扱い、アウトドア・ウエアから、日常ビジネス用に、そして今や、事実上の準礼装に格上げされてきている。今日では改まった服装といえば、ほとんどダークスーツで事足り、タキシードすら追い上げられつつある。こうして多くの古い時代の服装は博物館に入っていったのである。
しかしその後、スーツを駆逐する服装が見られない。不思議であるが、その理由の一つは、常にフォーマル・ファッションのルーツにあり続けた軍服の影響が小さくなって、逆に民間の服が軍服のデザインを左右する時代になった、そのためにスーツに決定的変化を与えるファクターがほかの分野から来ないこと、また、スーツに取って代わるべき適度にフォーマルな服装が登場しないので、それが昇格してスーツを追いやることがない、というのが理由かもしれない。このへんについては、次にもう一度、別に章を立てて、改めて考えてみよう。


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