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「スーツ=軍服⁉」改訂版 第45回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載45回 辻元よしふみ、辻元玲子

モントゴメリー将軍が流行らせたダッフル

ダッフル・コートは元々、ノルウェーの漁師の防寒コートであった。手袋をはめていても扱いやすい木製の大きなトグル(ヒモかけボタン)は、十三世紀以後に一般化するボタン以前の、古風なボタンの原型に近いものである。
十九世紀末、ベルギーのダフェルで生産された生地で作ったものが英国でヒットし、ダッフル・コートと呼ばれるようになった。この時点では全くの民生品だったが、着脱が楽で防寒性能にも優れている点を買われ、第一次大戦下の英国海軍で、北海での任務に就く将兵にこのコートを支給した。第二次大戦の初期、ドイツ軍が北欧に侵攻すると、これを迎え撃つ英海軍で再び防寒着として採用した。北海を拠点に大西洋に出てくるドイツ艦艇を迎える英海軍の乗組員に好評で、戦史に有名なドイツ戦艦ビスマルク追撃戦などでも大いに愛用されている。
しかしこのコートが今のように有名になったのは意外にもアフリカ戦線でのことだ。破竹の進撃を続けるエルヴィン・ロンメル元帥のドイツ・アフリカ軍団と対峙したのが英第八軍司令官バーナード・モントゴメリー中将(後に元帥)だった。砂漠は灼熱だが、日陰は寒いほどで、夜など氷点下になる。だから単に薄着ならいいというものではない。ロンメルは黒革のコートにチェックのマフラーで有名になった。砂漠で革というのが意外性もあって絵になったのである。これにイメージ的にも対抗しようとしたモントゴメリーが採用したのが、ダッフル・コートであった。一説によれば、モントゴメリーがいわゆるダンケルクの悲劇、つまり英仏軍がドイツ軍に完敗しダンケルク海岸から海に追い落とされた負け戦のさなか、漁師からダッフル・コートをプレゼントされたのが最初だとか。以来、このタイプのコートを愛用するようになったのだという。
その後、モントゴメリーがドイツ軍を押し戻すのに応じて国民的英雄になり、彼のアイテムであるダッフルも「モンティー・コート」として有名になる。大戦終結後に過剰在庫となった軍のダッフルが民間に流れ、一般にも人気のコートとなるのである。このときに民間への払い下げを請け負い、以後、ダッフル・コートのブランドとして有名になったのがグローヴァオール社だ。
なんとなく、日本ではダッフルは子供服というイメージが強い。七〇年代頃に、子供用のダッフルが流行り、日本の学校や幼稚園で制服化した例もあったからだが、本場のイギリスではむしろ、海の男のコートであるとか、モントゴメリー元帥のコートであるとか、ワイルドな大人の服という印象が強いようである。

軍用コートの代表トレンチ・コート」

数あるコートの中でもミリタリーの由来が明瞭、というより、ミリタリー由来であることが売り物であるようなコートが、トレンチ・コートである。そして、アクアスキュータム社といえば、なんといってもトレンチ・コートの元祖である。
ジョン・エマリーが一八五一年、ロンドンのリージェント・ストリートに紳士服店を開き、五三年、防水加工を施したウール地を開発した。この素材で仕立てたレインコートがヒットし、普及した。
ところで、古代ローマ軍団の四角い盾をラテン語でスクトゥムといったのだが、これと水aquaを合わせて「水から守る盾」アクアスキュータムAquascutumとした。非常に復古的な名前であった。

クリミア戦争とファッション

ちょうどその一八五三年、クリミア戦争が勃発した。クリミア半島と言えば、二十一世紀になっても紛争の火種となるような黒海の要衝地で、ロシアとウクライナの紛争の着火点も、元をただせばこの半島であった。
オスマン帝国の勢力が低下する中、セルビア人国家の民族紛争と、そこに介入したギリシャ、英仏など列強の利害関係が絡んで起きた大戦争で、半世紀以上後の第一次世界大戦の前哨戦である。ついでにいえば、このときに極東のロシア艦隊を気にした英国はロシアの勢力がこれ以上、伸びることを恐れて徳川幕府に開国を迫り、ロシアのほうもプチャーチン提督を派遣して日露和親条約を結ぶこととなった。さらに蛇足をつければ、その来航したロシア艦に乗って密航を企てた青年が後の吉田松陰であり、幕末の志士たちにも影響があった。
このように、日本史にも間接的に大きな影響を与えた戦争であるが、どうも日本ではあまり「人気のない」というか、なじみの薄い戦争ではある。
実はこの戦争というのが、男性紳士ファッションにも大きな影響を及ぼしたものだった。
冬場のクリミア半島は極寒の地であり、英軍兵士三万弱のうちほとんどが悪性の風邪をひいて、実働は一万人弱であったというほど過酷であった。また、予想に反して先の読めない持久戦となったため、アクアスキュータムの防水コートが装備品として大いにもてはやされ、以後、制式装備とされた。
防水ウールはアクアスキュータム、一方で撥水綾織りであるギャバジン生地はライバルのバーバリー社が一八八八年に特許をとっており、その後、第一次大戦期にトレンチの原型となったタイロッケン・コートや、トレンチ・コートにつながるのはどちらが主流か、という話が、この両社の間でずっと続くのである。

ラグラン男爵とカーディガン伯爵

クリミア戦争の英軍総司令官・初代ラグラン男爵フィッツロイ・サマーセット元帥は、将校の服装に一つの見識があった。将校という者は部下に対して突撃の指示など、腕を振り上げることが多いので、腕や肩の運動量を確保できるデザインの服が必要なのではないか。特に一番上に羽織るコートが窮屈では話にならない。アクアスキュータムがこれに応えて考案したのが、今でもトレンチ・コートやカジュアル衣料に見られる「ラグラン袖」である。元帥はかつてウェリントン公の副官を長く務め、ワーテルローの戦いで右腕を失った古強者である。その戦傷に悩んできたため、身動きしやすい衣服についても一家言があったわけだ。
さらに、騎兵旅団長であった第七代カーディガン伯爵ジェームズ・ブルドネル准将(その後、騎兵中将に昇進)が、腕を負傷した兵士に防寒用のセーターが着やすいように、前あきでボタンの付いた軽い羽織りものを考えた。准将自身、この戦争で最大の激戦「バラクラーバの戦い」で負傷したことが契機だという。これが今日の「カーディガン」の原型である。
クリミア戦争といえばもう一人、有名になった人物にフローレンス・ナイチンゲールがいる。従軍看護というシステムを確立したことで有名だが、彼女の祖母の叔父にあたるピーター・ナイチンゲールがジョン・スメドレーと共に創設したのが、英国を代表するニットブランド、ジョン・スメドレーだ。ジョン・スメドレーの主力商品の一つはカーディガンであり、間接的ながら、クリミア戦争に縁がある会社といえるかもしれない。

トレンチ・コートの普及

トレンチ・コートは第一次大戦がはじまる一九一四年に英国陸軍で採用された。基本的には官給品ではなく、将校が私的に購入する追加装備であった。それまで存在したタイロッケン・コートは、腰のベルトだけで身体を包む簡易な防水コートだったため、冬季の戦場で使えるよう、しっかりとボタン留めするダブル合わせのピーコートを模した仕様に改められたのである。したがって、本来のトレンチ・コートは左合わせにも、右合わせにも着られるピーコートと同じような作りになっている。風向きに応じて合わせ方を変えるのである。
この新型コートは、初期には正式な呼び名はなく、一五年からトレンチ・コート、つまり「塹壕コート」という通称が生まれ、イギリス将校の代名詞とされた。当時、ウールのコートを着ている兵士の中で、ギャナジン生地の将校は、一見して識別できた。
実は、最初は肩に「肩章(ストラップ)」は付いていなかった。一九一五年以後、装備品を固定するための肩章を付けるようになり、一七年以後は、この部分に将校の階級章も付けるようになった。その他、ベルトに下がっているDリングは手榴弾を留めるための金具、胸についているガンパッチは、小銃を撃つための補強であるが、いずれも戦訓を経て、徐々に追加されたアイテムである。
また、この一七年から、将校ばかりでなく、下士官や兵士にも官給品としてこの種の防水コートが支給され、「トレンチ・コート」という名称も軍の正式なものになった。
もう一つ、英国の防水コートというとゴム引きのマッキントッシュ社だが、こちらは主として海軍御用達で陸軍の御用を務めることは少なかったようである。
トレンチ・コートはその後、第二次大戦期に映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが着こなして有名になり、戦後には一般向けの衣料として大ヒットした。一方で、軍用の衣料としては、もっと高性能な防寒、防水衣料が登場したため、制式品からは外れていき、現在では常装や礼装のときの雨衣(あまい)、つまりレインコートとしてのみ使用され、最前線で着るような服ではなくなっている。

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