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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第82回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載82回 辻元よしふみ、辻元玲子

※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。
 
浴衣はバスローブ、晴れの場では着ない

日本の元祖クールビズ衣料である浴衣。その文字の通り、本来は入浴用の衣服で、要は日本の「バスローブ」。本来は湯帷子(ゆかたびら)といい、湯に入るための帷子、ということだ。「かたびら」とは片枚、すなわち裏地がない一枚仕立ての和服のことである。平安時代にはすでに、麻で仕立てた湯帷子が登場しており、主に貴族や僧侶などが沐浴の際に着用した。
戦国時代末期になり、徳川家康は自分の妻妾に木綿の着物を着させた。さすが倹約家の家康、と思うところだが、実際には当時、木綿は家康の本拠地である三河地方の特産品で超高級品。当然、木綿の浴衣など将軍家や大名でもなければ用いられなかった。この当時の将軍や大名は、風呂上がりには仁王立ちし、家来が浴衣を着せかけて水気を吸い取り、脱がせてはまた新しい浴衣を着せて吸い取り、ということを繰り返して汗を引かせた。専ら着物というよりバスタオルの一種と見なされていたわけだ。贅沢にもそういう汗取り用の浴衣は使い捨てで、内々に家臣に下げ渡されたという。
一方、木綿は徐々に量産されて普及し、水分をよく吸い取ることから浴衣の生地としても一般化、庶民も江戸で花開いた銭湯文化のなかで、浴衣がけで銭湯に通うのが普通の風俗となり、ここから湯治場や花火見物、縁日などで着る夏場の略装として、風呂や入浴とは離れたシーンでも用いられるようになってきた。
とはいえ、出自はあくまでもバスローブなので、正式な場では、浴衣は着るべきではないだろう。最近は最も安価で手に入りやすい和服として、外国人が買い求めることも多いが、「これは一種のバスローブなので、フォーマルには使わない」と一言、教えてあげたいところだ。

体操服=ジャージー、ではない

オリンピックの開会式を見ていると、各国選手団が身に着けている公式ユニフォームはお国柄が出ていて興味深い。民族衣装の国も多いが、伝統的なスポーツブレザー姿が圧倒的に多数派で、日本も大抵はそんな感じである。そんな中、バミューダ諸島の選手はブレザーにネクタイをしめ、バミューダパンツに長靴下、というのが定番である。一方、スポーツ用のウェア、日本でいう「ジャージー」姿の選手団もある。
このジャージーという言葉、日本では体操服全般の総称だが、本来はちょっと意味が違う。もともと英王室領ジャージー島で編まれた伸縮性の高いニット生地が原点。同島では労働着として古くから使用されていた。これがスポーツウエアに取り入れられるのは十九世紀のことになる。 
近代スポーツの多くはナポレオン戦争後の十九世紀に英国で発祥したが、当時はスポーツ用の衣服というものはなく、だから最も古く成立したクロケット用の服は白いシャツに白いズボン、タイを着用し帽子をかぶる、といったいでたちだった。その他の競技でも大同小異だったが、この世紀の半ば、英国の名門校でフットボール(サッカーやラグビーの原型)が登場すると、もっと動きやすい衣服が必要になり、ジャージー生地の運動服が使われるようになってきた。
一八九〇年代、アメリカの大学のフットボール部で汗をかくためのトレーニングウエアとしてこの種の服をセーター(汗かき用の服)と呼んだ。これがセーターという語の語源で、当時は日本人が思う防寒用の意味ではなかった。
第一回アテネ五輪では、マラソンの選手たちも普通のシャツかセーターに長ズボン、という姿で走っていた。さらに一九二〇年代になると、より軽快なポロシャツや、タンクトップが各競技で用いられるようになる。すると従来の「セーター」は、ポロシャツやタンクトップの上に羽織るトレーニングウエアとして発達することになり、「スウェット・シャツ」と呼ばれるようになった。今、日本人が「ジャージー」という名で思い出すものに近くなってきたのである。
第二次大戦後、それまで軍用として普及していたジッパーを取り付け、また素材もウールやコットンから化学繊維になったウエアが出回り始めた。
このようなスポーツウエアは、一九四八年にドイツで設立されたアディダス社が作り出したものが世界的に普及した。アディダスは創立者アドルフ・ダスラーの名を縮めた社名である。戦時中、この前身の企業ダスラー社はドイツ軍に軍靴などを納品していた。戦時中の軍への協力などをめぐって、アドルフと反目した兄のルドルフ・ダスラーはプーマ社を設立した。この後、両社ともにスポーツ用品企業として世界的名声を得た。
戦後になってこの種の服を、日本人は「ジャージー」の名で受け入れたので、日本では体操服のことをジャージーと呼ぶのである。また、日本でこの種の服の中でもスェット・シャツを「トレーナー」と呼ぶが、VANの石津謙介が作った和製英語であり、海外では通じない。
なお、表記としては「ジャージ」ではなく「ジャージー」のほうが正しい。英ジャージー島にあやかってアメリカで生まれた地名が、「新しいジャージー」、つまり「ニュージャージー」である。また「ジャージー牛」という家畜の品名もあるし、そこから「ジャージー牛乳」という名前もある。体操服だけは語尾を伸ばさない、というのも妙な話である。
 

クラシックを貫く野球のユニフォーム

ほかのスポーツウエアがシンプルなカジュアル・スタイルが多いのに対し、野球だけは古風で独特のクラシック・スタイル。なぜ野球だけは異質な服装なのだろう、と思う方も多いだろう。
これは野球ユニフォームの成立が比較的、他の競技よりも早かったためのようだ。
野球の原形は古くは十三世紀のフランスからあったというが、アメリカで今のような野球ルールに基づいて最初の球団が出来たのは一八四五年のこと。ニューヨーク市消防局第十二中隊の隊員が結成した「ニッカボッカーズ」というチームだった。球団名は母体の中隊の愛称にちなんだもので、「半ズボン」という意味だった。ちなみにアメリカで半ズボンをニッカボッカーズと呼ぶのは、オランダ系移民の半ズボン姿を紹介した本の筆者のペンネームからである。
そして、このニッカボッカーズは一八四九年、世界初の野球ユニフォームを採用した。ところがそれは、フランネルのシャツに、球団名とは異なり青い普通の長ズボン、頭には麦わら帽子を被るというもので、今の野球ウエアとはまるで異なっていた。
それからしばらくたち、一八六〇年頃、ブルックリンの市民球団であるエクセルシオーズが、今の野球帽の原形となるツバ付きの帽子を採用。その後、大いに普及したベースボールキャップである。
一八六八年になり、シンシナティ・ベースボール・クラブが新しいユニフォームの着こなしを始めた。ひざ丈のニッカボッカー・ズボンに、赤いチームカラーの靴下を組み合わせ、この靴下をチームのシンボルとするやり方で、六九年にクラブはその名もシンシナティ・レッドストッキングス改称し、アメリカ初のプロ野球チームとして活動を開始した。これが現在のシンシナティ・レッズである。レッドストッキングスの赤靴下に対抗して、白い靴下を採用したのが、シカゴ・ホワイトストッキングスである。
一八八〇年代、それまで白一色が普通であったユニフォームにストライプのものが現れ、さらに二十世紀に入るとカラフルなものも登場。シャツの下に靴下と同色のアンダーシャツを着て見せる着こなしも一般化して、今のような野球のユニフォームが完成した。
日本で正岡子規=掲載写真=らが野球を導入したのは明治時代半ばの一八八〇~九〇年代で、アメリカから野球ルールと共に、この独特のユニフォーム文化も、ほぼ完成した状態で受け入れたことになる。ちなみに「野球」という日本語は子規が作ったらしい。
ということで、ほかのスポーツのウエアがポロシャツやタンクトップ(アメリカでいうAシャツ=アスリート・シャツ)など、主に下着やカジュアルウエアから二十世紀に発展したものが多いのに、野球だけはすでに十九世紀半ばから専用のユニフォームが成立していたため、独特の姿になったといえる。
今の日本の野球界では、アマチュア野球では靴下を見せるクラシック・スタイルが多いが、プロになるとズボンの裾を長く伸ばす着こなしが主流のようだ。
また、冬場に野球選手がユニフォームの上に羽織る、いわゆる「スタジアム・ジャンパー」は、スタジャンという通称で日本では親しまれている。近年は男女を問わずカジュアル・ブルゾンとして人気再燃しているが、このスタジアム・ジャンパーなる用語もVANの石津謙介が日本で売り出すために作った和製英語である。
もともと一九五〇年代のアメリカで、学生の運動クラブ用に作られ始めたもので、チーム名などを背中に大きく描くのが通例だったため、レター・ジャケットと呼ばれた。つまり「文字入りの上着」である。最近では野球チームなどで用いるものは、球場で着る上着の意味でグラウンド・コートなどともいうようだ。これまでにも書いたことだが、一般的には英語圏ではジャンパーという単語はブルゾンのようなものではなく、日本でいうセーターのようなニットの意味になる。

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