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(読書会用)イド:インヴェイデッド論ー「本物の場所」にカエル

一、はじめに


本日はご参加いただきありがとうございます。
読書会という名目の集まりでありながら、普通に映像作品を扱ってしまい申し訳ない。
今回底本として「イド:インヴェイデッド」(以下、作品名を指す時は「ID」とする)を扱いたかった理由は、極めて個人的な理由と願望があっての事であり、私が舞城王太郎が好きで布教をしたいからである。と、このような書き方をしてしまうと映像作品に関わる全ての人への敬意が欠けているが、演出、音楽、映像、キャラデザ、様々なものが全て噛み合っていて、脚本:舞城という文脈での楽しみ方以上に色々な感想が出て来る事が予想されるため、ぜひ様々な視点からの感想をお聞かせ願いたい。

さて本論についてだが、今回イド:インヴェイデッド論を銘打っておきながら、論文的な文章にはならない可能性を予告しておこう。論文的である事とは、前提条件を整え、問題点を提示し、論拠を挙げて、はじめに挙げた問題点に答えるもの、と定義してみるが、そのような振る舞いをする事は難しいと考えている。それはアニメーションあるいは映像作品の特性か、エンターテイメントの特性か、一つの論を構成するにあたっての言葉が少ないからである。どこまで意味があってどこから意味がないのか、映像からはわからない。判別できない。言葉のみで構成されている小説との違う難点があると考える。

一方で、今回の文章がどのような振る舞いを演じるかと言えば、今回の作品にも出てきた「名探偵」のような振る舞いである。
本作において「名探偵」達は、ほとんど直観的に事件の謎を解いていく。そしてその論拠となる部分は後付けであり、その後付けが尽く正しい、という構成になっている。富久田保津の言葉を借りれば、「答えは一つ」であり「名探偵って最終的に見逃しや間違いがあったら失格」であるため、「名探偵」である時点で基本的には間違わないという仕組みになっているのである。
例えば、第一話で酒井戸は「この世界に役割があると信じる事はおかしな事だろうか」と問う。そして、既に死んでいるカエルちゃんに出会う事で自分という存在が「名探偵、酒井戸」であり「カエルちゃんの死の謎を解くこと」こそが自分の役割だと直観し、その謎を解く。そして第一話で直面した殺人鬼「穴あき」の「バラバラの世界」において重要なことは「あるものではなく、ないもの」でありバラバラの世界を整序した時に現れた「たこや」という文字が事件解決の糸口になっていく。つまり結論が常に先にあり、自分が何者であるか、自分の役割が何か、やるべき事に対して、一切の疑問はなく、ただそういう風にできている。ここでの「名探偵」とはメタ探偵の名付けなのだ。何故「名探偵」という存在が正しいかと言えば、それは「名探偵」というキャラクター、役割だから、と同じ言葉に帰ってくるしかない。つまるところ、理由はない。このトートロジカルな理由のなさに何か意味を与えたくなるが、ここに疑問の余地は挟まないし、挟めない。強いていうなら、脚本:舞城王太郎による(いつも通りの)メタな仕掛けであるとしか言いようがない。
では、そのような「名探偵」の物語を前にして何故私が「名探偵」のように語るのかと言えば、論拠のはっきりしたものに対してのみ語る事に意義を感じないからであるという素朴な理由を端緒として、正しいと直観したものに対して、その正しさを補強するために論拠を増やしていくと言う逆転した運動にどれほどの意義があるかを問いたいからである。テクストとの戯れの中に何かがあると直観してみる。
名探偵はしばしば意味もわからぬままに直観を信じて命がけの飛躍をし、飛躍した先に偶然的に意味が立ち上がってくる。この偶然立ち上がるものを私も信じてみたい。ID内にこのような台詞がある。

「この世界の全てに意味がある」

であれば、この私、視聴者としての私にも役割があると信じる事はおかしな事だろうか。
方針についてはここまでにして進めていくとしよう。

(読書会前の感想)
Aさん
・イド、難しかったなあという印象
・専門用語が多く後出し後出しで情報が補足されていくから、ついていくのに時間がかかった。
・カエルちゃんの本体が出てくるあたりから勢いで見てた。
・音楽好きだな。一話の音楽とかかっこいい。
・絵柄は好き。その点はストレスなかった。
・名探偵の言葉は口に出したい日本語
Bさん
・イドはアマプラ配信中に見てた。
・面白かった。サイコサスペンスホラーっぽさ。羊たちの沈黙のパロディっぽいものが出てた。犯人と被害者が入れ替わって逃げるところとか、3話の自殺追い込みシーンとかも、羊たちの沈黙か、という感じ。
・イド一話が好きで、井戸から場面が上昇して分析官の層に行って外部に向かうところ。世界の構造の表現。
・ミクロからメタな層に行って、現実の層とイドの中が連接してる感じ。
・舞城の小説内小説内小説「愛の愛の愛の」について。創作物と創作者の関係、恋愛の話。『異セカイ系』にも通じる。
Cさん
・面白かった。2、3話ずつ見ればええかなーと思ってたら一気に見た。メモしながら情報を逃さないように見てしまった。考察好きオタクは好きだろう。
・3話の鳴瓢の自殺教唆とか、6話の本堂町の追い詰めるシーン、よかった。
・というか、ツダケンの演技が良すぎる!!!
・カップリングとしては保春がいい感じ、お互いを埋め合う感じ
・富久田(穴井戸)が鳴瓢(酒井戸)にあしらわれる感じも好き
・松岡本堂町のコンビ 「先輩がうざい後輩の話」っぽい凸凹感があるね
・キャラクターとして松岡さん結構好きだった。話が締まる。
・タイトルロゴについて、数学記号の寄せ集めかなと見てる。Dが欠けていて部分集合の記号っぽい。I が侵略されるものを内包する、とか。N=自然数、とか。仕掛けがありそう。
・サブタイトルについて、必ず受動態という点が気になる
・名探偵の名について、酒井戸(逆サカにも通じる?)穴井戸(なぜ穴?複合的な意味を持ちそう)聖井戸(なんで聖?、なぜフルネーム?一人だけ女性、とい違いはあるが…)
・穴のモチーフ、井戸も穴だし、いろいろ穴ありすぎる。
・数字について、13話構成で、飛鳥井の暴走時に13人倒れてる、とか数字の配置の仕方気になる
・フロイト論をどういう風に使っているのかという点。
・夢とイドとイドの中のイド、どこまで繋がっている?飛鳥井さんの夢はいつもイド的に現れる。
・「愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の」について、世界は一人の女の子という表現や、「愛の」が七回繰り返される点。クセ強くてやりたいことはわかるけど、内容的な面白さはあまりない。
・アニメを扱う難しさ。音楽とかいろんな要素がある。道路標識とか看板にも意味深な点はあった。10話の鳴瓢と本堂町の出会う直前に「合流注意」の文字?(要確認)
Dさん
・小分けに見ようとしたら一気見した
・俺たちの殺人鬼捜査はこれからだぜ!みたいな終わり方笑った。
・13話の本堂町の最後、マジモンのサイコパス感
・飛鳥井救済ルートとかもあるのかな、と今後について思う
・面白かったが、難しさはあった。名探偵の思考スピードは早すぎて、ついていけない。謎がバンバン増えたから、途中理解が難しかった。エンタメとして流れるようにみた。
・Aさんも言ってたように、1話とか音楽よくて、MIYAVIさんの音楽!好き。
・名探偵は、名探偵だから正しい。みたいな構成について、ポストトゥルースの世界において、こういう探偵の物語書くのってどうなんだって思う。
・「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって」について、内容は理解したが、文学って色んなものを含んでいて、文楽以外のものも含むと思うからブルジョア男性の言い草だな、とか思った。あえて痛い評論として出してるのかもだが。
・「愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の」について、内容がなんか、うえってなるよりも、入れ子の入れ子の入れ子みたいな構造についていけなくなった。
・イドの用語について、可愛いという印象。イドの周りを「井戸端」と呼んでいて、みんなで井戸端に集合!とか言ってる感じ、面白い。
・キャラとして好きなのは百貴室長。鳴百はいいね!百貴さんがスーツ着て乗り込むところ、よかった。

二、作品紹介

・イド:インヴェイデッド
「監督・あおきえい×脚本・舞城王太郎が創り出すオリジナルSFミステリ」
殺意を感知するシステム「ミヅハノメ」を用いて、犯罪事件を捜査する組織、通称「蔵」。
そして「ミヅハノメ」のパイロットとしての犯人の深層心理「殺意の世界(イド)」に入り、事件を推理する名探偵・酒井戸。
頻発する凶悪かつ謎多き事件と、そこに見え隠れする連続殺人鬼メイカー「ジョン・ウォーカー」の影を追っていく
(イド:インヴェイデッド公式HP「INTRODUCTION」より抜粋)

副読本として
・「いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって」(愛媛川十三)
・「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」(舞城王太郎)

三、前提としての世界構造解説


本論に移行する前に今作に現れた様々な仕掛けや言葉を整理していく。必ずしも本論に関わる整理でないことと、一つの解釈に過ぎない可能性であることも留保しながら、本論に向かう前までの共通認識を得ていくとしよう。

①世界の様々なレベルについて
本作は様々な世界のレベルが存在し、鳴瓢の眠りと覚醒の間で混在している。現実か、イド内か、夢の中かは鳴瓢が目覚めるまで、我々視聴者には認識できない仕組みとなっている。そこで本作にどれだけの数の世界レベルがあるかを確認していこう。ここでは作品名としての「イド:インヴェイデッド」を「ID」、殺意の世界の呼称を「イド」として区別する。

・IDを見ている視聴者における現実(世界I)
・IDにおける現実(世界II)
・IDにおける現実の世界で鳴瓢が見る夢(世界III)
・イド、殺意の世界、無意識の世界(世界Ⅳ)
・IDにおける現実の世界で鳴瓢が夢に見るイド(世界Ⅴ)
・イド内イド、飛鳥井のイド(世界Ⅵ)
・イド内イドで鳴瓢が見る夢(世界Ⅶ)

非常に重層的な構造を有している事がこの羅列だけでも分かるだろう。そして前述したように鳴瓢が覚醒するまで、見ている我々はどの世界にいるのかを認識できない。例えば、第一話冒頭において我々は世界Ⅳしか認識できない。今回大筋としては、現実(世界Ⅱ)と虚構(世界Ⅲ〜Ⅶ)を行き来する物語として認識出来れば良い。また、世界Ⅰについては鳴瓢に認識されない。

(補足・読書会上ツッコミ)
・世界Ⅷとして、ほとんどイドと同じ形で現れる飛鳥井の夢もあるよね。

②世界Iについて
何故、ID世界のレベルの区別においてキャラクターに認識されない世界Ⅰを加えるかと言えば、IDが虚構である事を露骨に示す様々な仕掛けがID世界内に施されているからである。あるいは、世界(Ⅳ)の中にいて世界(Ⅳ)の在り方自体を疑う事ができる「名探偵」という存在がいる事自体が、世界IIが本当に現実なのか、疑わせるのである(勿論、視聴者にとっては現実ではない)。例えば下記の点が挙げられる。

・蔵内の人物が福井のお酒の名前になっている点
・飛鳥井の出身地としての西暁町と調布市という地名
・村上春樹の作品パロディを思わせる要素(カエル、井戸、ジョニー・ウォーカー、鳴瓢と綾子の会話)

世界I(我々の現実)と世界II(作品内の現実)について、通常コンテンツに接する際に区別をする必要はないと思われるが、本作においては世界の構造の多重化に強い意味があるためこの区別を導入する。この区別の要点は、端的に言えば、キャラクターがそれを意識できているかどうか、キャラクターにとっての無意識の情報かどうかである。
まず、世界Iの情報は世界IIにおいても一部共有されており、例えばID四話の「燃えさかるビルの世界」において分析官の若鹿が「ギルバート・キース・チェスタートン」の名前を挙げていた。この人物は世界Iにおいても実在する人物であり、探偵小説の古典作家としての固有名がそのままトリックの説明になっている。つまり「木を隠すなら森の中」というトリックの代名詞として使われている。この点において、世界Iと世界IIを区別する意義は生じず、我々とキャラクターの間では共通の認識があると考えられる。一方で、上記した三つの要素は世界IIが我々とは別世界である事、つまりID世界が虚構の世界である事を露骨に示すマーカーになっている。
どういうことか。蔵内人物の名前について、自分達が福井のお酒の名前という点に意識は向けられないのは、世界IIと世界Iでは同じ言語を共有していないからである、という事だ。あるいは、カエルちゃんの故郷として西暁町という架空の町名、あるいは生活の場としての調布市は、舞城作品に度々登場する地名装置であり、現実と虚構の区別を撹乱する機能を持っている。ここにおいて、ID内の現実の認識と我々視聴者の現実の認識はわずかにずらされている。加えて、先ほど現実の探偵小説の作家として「ギルバート・キース・チェスタートン」の名前が挙げられたが、この作品と特定の作家を繋げる回路があるのなら「村上春樹」の固有名は世界Iの我々にとって無視できない。

③村上春樹について
例えば、カエルちゃんのモチーフになっていると考えられるのは、村上春樹作品における「かえるくん」の事かもしれない。ここに「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)より最後の場面を引用してみる。

「いったいどんな夢だったの?」
何が夢で何が現実なのか、その境界線を見定めることができなかった。「目に見えるものがほんとうのものとは限らない」、片桐は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
「そうね」と看護婦は言って微笑んだ、「とくに夢の場合はね」
「かえるくん」と彼はつぶやいた。
「かえるくんが一人で、東京を地震による壊滅から救ったんだ」
(中略)
「でもそのかわり、かえるくんは損われ、失われてしまった。あるいはもともとの混濁の中に戻っていった。もう帰ってこない」

以上が引用となる。細かい検討はしないが「かえるくん」という存在を中心に夢と現実の境界が曖昧になっている点、「かえるくん」が「混濁の中に戻」る事で世界が収束する点などは、ID十三話における「カエルちゃん」を下地に世界の安定を得ているIDの構造に似ていると言えなくもない。
加えて『ねじまき島クロニクル』における異世界に通じる「井戸」のモチーフや、『海辺のカフカ』における邪悪なもの「ジョニー・ウォーカー」もパロディ元と考えて概ね正しいだろう。また、ID十話、イド内イドにおける鳴瓢と綾子と椋の最後の会話シーンすらも『ノルウェイの森』の引用だと考えられている。ここに『ノルウェイの森』の最後の一節を引用する。

僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。(中略)それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるの?
(中略)でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?(後略)

『ノルウェイの森』においては「あなた、今どこにいるの?」という問いであり、IDにおいては「秋くん、今どこにいるの?」という問いとなっている。『ノルウェイの森』において「僕」は自分の場所を答えられないが、鳴瓢は「本当の俺は…現実にいるんだ。君のいない…椋もいない、現実に」と応答している。
この点に意味を見出すことはあるいは可能かもしれない。しかし、今回は語られる世界のレベルの違いによって別の機能を持ちうる可能性を指摘するに留めておく。つまり、世界Iにおいてはこのシーンが村上春樹との対比において機能し、世界IIにおいては世界Ⅵが虚構であることを認める語りとして機能する。そして、世界Ⅵにおいては単に噛み合っていない会話として。

④世界内存在である事の自覚ができる名探偵
世界IIのキャラクターは世界Iの我々について認識できない。しかしその一方で、世界内存在であり世界外が認識できないまでも世界の在り方を疑問視できるものがいる。それこそが「名探偵」である。第一話から一部引用してみる。

「世界のために何か自分の役割が用意されていると信じることはおかしいだろうか」
「どうしてこの世界はこんな風に細切れになっているんですか」
「カエルちゃん…」
「俺はこの子を知らないが、名前だけはわかる。この子はカエル」
「そして、この子の名前を思い出したことで俺は自分のことも理解する」
「俺の名は酒井戸…ん…下の名前が思い出せないがまあどうでもいい」
「大事なのは俺は名探偵である事」
「そして俺はこの子カエルちゃんの死の謎を解かねばならないという事だ」

(俯瞰カメラが上昇し、蔵内の映像へ)

「百貴室長、酒井戸覚醒しました。」
「おかしいのはこの世界かもしれませんよね」
「………」
「……住んでる世界そのものを疑うヤツなんていないか…」
「しかし名探偵の仕事はそこにある」
「俺は世界のあり方すらも疑っていい」

これらの場面を見るに世界Ⅳ、すなわちイド内にいるものでありながら、イドという世界のあり方を疑っている。この名探偵というキャラクターは決して世界IIに辿り着くことはないが、世界IIの価値観を一部有している、そのようなキャラクターであると言えるだろう。

四、本論 家族を失った鳴瓢の帰る場所とはどこか
「この世界のすべてに意味がある」と鳴瓢は言っている。しかし終盤、鳴瓢の言葉には説明が特にされず解釈が難しい言葉が多い。例えば「泣けなくなることも喜びだ」という言葉、あるいは「本物の場所」に「帰る」事とは何か。十話で虚構世界の家族と交わされた「必ず帰る」という「約束」の意味は何か、ということである。つまり、この物語において鳴瓢が得た回答とは何だったのか。鳴瓢に幸福はあり得るのか、という点である。
無論、この点に明確な答えは提示されていない。今回は鳴瓢周辺の情報を整理する中で、その点を探っていこう。

四の一、夢と現実、不眠について
本作は先に触れたとおり、村上春樹との連関でも読まれることができる作品であるが、その村上春樹を引くまでもなく、夢の世界を生きるか、現実の世界を生きるか、という複数の世界を行き来する主体の葛藤を描く作品となっている。まずはその葛藤がどのように現れているかを確認しよう。

「秋くん、今どこにいるの?」
「俺は…」
「本当の俺は、現実にいるんだ。君のいない、椋もいない、現実に」
「何言ってるの?」
「パパ?」
「椋、今そこで君らと一緒にいられなくて 本当に悔しいよ」
「ちょっとパパ、何、何処かに行っちゃうの」

「ねえパパ死なないでね」
「秋くん、私は死なないからね。椋と秋くん残して死んだりしないから」

「俺がどこかに行くのか?違うだろ…」
「君らがどこかに行ってしまったんだ…!!」

「パパ?」「あき君?大丈夫?」
「あぁ、大丈夫。俺は大丈夫」
「ちゃんと帰ってくるよね。うちに」
「必ず帰る。必ずちゃんと帰ってくるから」

ここで鳴瓢は本堂町に対して「これでいいんだ」と言う。しかし、世界が崩壊するまでは明らかに世界Ⅵを現実として信じていたことを見ると、ここの受容はいかになされたのだろうか。あるいは、「必ず帰る」と出来ない約束をすることにはどのような意味があるのか。夢か現実かの対比について下記を確認する。

「夢」
「あの時目を覚ますまでに俺が経験していたことは」
「全て飛鳥井さんの中で見ていた長い夢だったとしたら」
「全く信じがたいし、矛盾もたくさんある気がするが」
「これが現実、ということになる」

ここで少し笑い、前向きな顔になっている。そしてコーヒーを飲みながらジョン・ウォーカー事件の謎を探る。ここにおける転換点は、世界Ⅱを夢の世界として、世界Ⅵを現実と信じて生きることを決めたと思われる点である。
また、ここでやや奇妙に映るのはコーヒーを飲んでいることである。コーヒーは睡眠を妨げる効果があるが、よりにもよって鳴瓢が睡眠を阻害するのだろうか。何故このような問いを立てるかといえば、鳴瓢は家族が死ぬ悪夢に悩まされ、そもそも不眠に悩まされていたはずだからだ。少し戻って、九話にて綾子が手首にカッターを突き立てる悪夢から目覚めた場面を確認する。

「もう死ぬ必要ない!!」

「!おはよう。ごめんね、びっくりしちゃって」
「ふ、ふっふふ」
「やな夢見たんだね」
「ふふふ」
「誰が死んだの?私?」
(無言)

「秋くん私は死なないからね」
「椋と秋くん残して死んだりしないから」
(目をそらす)

「椋は?」
「昨日友達と花火大会行って疲れたから、昼くらいに来るって」
「へえ」

「ねえ秋くん夜眠れてる?」
「んん…いやもうずっと眠れてないよ」
「っ…いつから?」
「もう、ずっとだよ」
「やだ、なんで言わないの」
「言えたらよかったんだけど…」
「言ってよね、睡眠って本当に大事なんだから」
「夜眠れないなんて命削ってるようなもんだよ」
「うん。はは。だから、夜ゆっくり眠らせてあげようってのは正しいかな」
「誰の話?寝なきゃいけないのは秋くんだから」

「ねえ、どんな夢見たのかわからないけど
私が死んだらそれが夢だっていう合図だからそこで起きればいいよ」
(一度目を閉じ、開けると場面は転換し首を吊った顔削ぎの顔のアップ)

綾子の言葉を無視し、目を逸らし、話を逸らそうとするこの場面で、鳴瓢の語りと仕草はまだ世界IIのレベルのままであることがわかる。ずっと眠れていないという鳴瓢の語りは、世界Ⅵではなく世界IIに依存しており(この時点で世界Ⅵに来てから数日しか経っていない)、不眠のことを綾子に言えないのは、世界IIのレベルで言えば、既に故人となったものに相談などできなかったという意味で捉えることもできるし、世界Ⅵのレベルで言えば、世界Ⅱで死んでしまった二人のことを、生存している世界Ⅵの綾子に相談できないという意味で捉えることもできる。
世界Ⅵにおいては不眠が解消されたのであろうか。コーヒーを持つ鳴瓢が示すものとは、悪夢の解消を示すだろうか。眠ることに鳴瓢の幸福を見ることは可能だろうか。それはここではまだ判断できない。

四の二、電話と写真、存在の記憶の不幸について
鳴瓢の幸福について考えるにあたって、鳴瓢の不幸を改めて振り返ってみる。鳴瓢の不幸が際立つのはいつでも、既に存在しないものの存在を否応なしに知覚してしまう瞬間ではなかっただろうか。その端的な例は先ほども触れたような「悪い夢」であるが、その存在しないものの存在を知覚させる装置として、「電話」や「写真」について触れてみる。
まず第一に、十話の電話のシーンである。世界Ⅵにおいて綾子と電話をしながら、世界Ⅱにおける鳴瓢の過去の幸せな時が再生される。これは電話から耳を通して既に死んでしまった家族の声を経験しているのであり、遠い他者を近くに感じさせる装置として機能している。多くの電話のシーンがある作品内でもこのシーンでは電話相手の顔が見えない。その代わりに鳴瓢が見るのは、世界Ⅱでの幸せな記憶である。電話とは近くにいない人間との不可能な会話を可能にしている。
また、この場面で再生される映像の全ては、鳴瓢の独房に貼られた写真としても現れていた。写真はいかにして存在しないものの存在を知覚させるか。ここに『写真の存在論ーロラン・バルト『明るい部屋』の思想』を参照してみる。

私は最愛の人の死について何もいうことができない。その死を何らかの意味に変換することができない、それを有意味な文脈な中に位置づけることができない。それはできないし、そうしたくもない。いかなる有用性にも回収されないままにその死を尊重したいし、そうすることしかできない。これこそが死の恐ろしさであり、これをバルトは死の「平凡さ(平板さ・陳腐さ)」(laplatitude)と呼ぶ。そしてわれわれは、写真を前にして、これと同じ状態に陥る。被写体について何も言うことができない、それを何らかの意味に変換することができない。したがって、最愛の人の死に直面するときの体験と、被写体に正面から向かいあうときの体験が一致するのだ。これは、無意味を体験することと(意味の彼方に見定められたものとしての)存在を体験することが一致するからである。

死の「平凡さ(平板さ・陳腐さ)」については、三話の「花火師」との会話でも語られていた。花火師にとっての「本物」「この世の現実」は写真の中にあり、死の「平凡さ」を「大量死」によって、「平板さ」を「写真」に収める行為によって表現することを信条としている。ここでの「花火師」との対話は、まさしくこのような死に対する何とも言えなさを表している。下記に引用する。

「心底そう思ってるし、それを知っているんだ俺は」
「人の命に価値なんかない、俺のもあんたのもあんたの可愛い娘さんのもなあ」
「生きてようと死んでようと、どちらにせよ意味なんかないんだ」
(眉をひそめる鳴瓢)
「人は…放っておいても死ぬ」
「老いて死ぬ病気で死ぬ事故で死ぬ、でも」
「お前のもたらす死は常に大量死だ」
「大勢が死ななければ、虐殺じゃなければ」
「お前にとっては死じゃないんだ」
(中略)
「違う…俺はこの世の現実を!!
「違わないさ。確かに写真に写すものはこの世の現実だろう」
「お前にとってのな」
「薄っぺらい人間たち、でもその薄っぺらさはお前のものだ」

死の「平凡さ」「平板さ」について「大量死」と「写真」は確かにそれをよく表している。ただ「花火師」の誤りは、それが「この世の現実」「本物」あるいは人の命の無価値さに変換されていた点である。無価値であるならば、意味がないのならば、今ここで死んでもいいだろうという自殺教唆によって「花火師」は死ぬ。しかし、鳴瓢にとっての家族の写真もまた、大量殺人鬼のもたらす死の平板さを象徴するものではないだろうか。何とも言うことができない、だからこそ繰り返し言葉にならない悪夢を見るし、三話冒頭における、現実とは少し異なる死の夢はそのような語り損ねる死を表していると言ってもよい。
では、その時、鳴瓢の生きる意味とは何だろうか。次の章で検討してみる。

(補足・読書会内ツッコミ)
・目を隠すという表現は死の象徴、特徴を隠す、同じ座標を意味していないと言えるよね
・写真って色々出てくる。墓掘の引き裂かれた写真とか、殺害現場の写真とか、百貴さんの部屋の写真とか。
・その数ある写真の中で鳴瓢の写真を特別取り上げる理由は?
→(アンサー)少なくとも生活空間、それも常に見える位置にある寝室に置かれている写真は他の写真とは区別します。
(私の感想)蔵内では何故殺人鬼に写真の掲示を許可するのか、と考えると、少なくとも鳴瓢に関しては、後悔と怒りを絶やさせないようにジョン・ウォーカーが仕組んでいるのではないか、とか考えてしまうよね

四の三、仕事をすること、役割があること
鳴瓢の行動について確認してみる。十話において上昇するエレベーターの中で百貴にこのように尋ねられている。

「お前、今何しているんだ」
「何って、家族と過ごしています」
「家族サービスでそんなにやつれるやつがいるか」
「嘘じゃないですよ、本当に家族と過ごしてるんです。できるだけ一緒に」

あるいは、崩壊しかけた世界で本堂町と下記のような会話もある。

「この世界で一年以上も何をしていんたんですか」
「家族と暮らして、仕事をしてた」
「警察官の仕事と、俺の個人的なものと」

家族と暮らすこと、それ自体に鳴瓢の幸福があったことは間違いないだろう。しかし加えて、仕事という言葉がある。何故、仕事をするのだろうか。個人的な仕事とはなんだろうか。この「仕事」という言葉はID内では頻出している。第一に名探偵としての「仕事」である。イド十三話の最後の独白を確認する。

「そこでは一人の女の子が常に死んでいる。殺されている。謎がある。」
「そしてその女の子が俺の名前と仕事を教えてくれる」
「そうして俺は理解する」
「この世界の全てに意味があると」
「俺の生にも意味があり、彼女の死にも意味がある」
「そういう世界でしかできない仕事があり
それは俺にしか成し遂げられないのだ」
「俺の名前は、酒井戸」
「名探偵だ」

あるいは警察官としての「仕事」という形でも現れている。
四話では下記のように語られる。

「すみません」
「すみませんじゃねえよ偉そうに」
「偉そうなんてそんなつもりはありませんでしたが、失礼しました」
「確かに仕事ですもんね、謝罪は必要なかったです」
(中略)
「仕事といってもどうせ墓掘の現場にアンタラの出番はないんじゃないの」

あるいは六話での本堂町と松岡の会話にも下記のように登場する。

「松岡さん!ありがとうございます!今回のこと」
「礼を言われることじゃねえ」
「まあ、仕事だからっておっしゃるんでしょうけど」

ここにおいて「仕事」とは礼を言ったり、謝罪を言ったりすることではない。
これらはどのように解釈できるかと言えば、松岡の十三話での言葉「適材適所だな、どうやら」という言葉や鳴瓢の「シフト制にするって…言ってなかったっけ」という言葉にも見られるように、ここにおける「仕事」とは世界における「役割」の話だということだ。役が割り振られていて、それをそれぞれがこなす事こそが「仕事」であるため、謝罪も礼も必要がない。またその「仕事」が鳴瓢の名探偵の「仕事」である場合には「俺の生」の意味にもなるのだと考えられる。何故仕事をするのか、といえば、それが家族を失った鳴瓢における生の意味であるからと言える。役割がある事、それが鳴瓢の幸福と言えるだろうか。

(補足・読書会内ツッコミ)
・役割のレベルに違いはありそうだが区別はしないのか?名探偵はメタな意味での役割が入ってるが、組織内の分掌としての仕事=役割と等置して良いのか。
・あるいは、分掌のレベルの役割が生存の理由になるか。
→(アンサー)鳴瓢の名探偵という役割が、百貴との関係性の中で現れる事が重要だと思われる。鳴瓢が百貴に「お前はまだ俺の仲間だって意識はあるのか」と問われた時に鳴瓢はそれこそが「理性の端緒」だと言う。つまり鳴瓢が理性的であれるのは百貴と仕事をしているからだ。
・「理性の端緒」っていう部分と「生の意味」に結びつけられるのか?
→(アンサー)「理性」の対義語として「衝動」という言葉がよく使われている。とりわけ「殺意の衝動」だが、この「殺意の衝動」には「自殺」が含まれている。「生の意味」が言い過ぎだとしても「自殺」を食い止めている要因の一つとして「仕事」があるとは言えないだろうか。
・百貴さんが「お前は人間だよ」と言うことで鳴瓢を人間にとどめている、とか、そういう事はありそうだよね

四の四、待つこと、約束、希望と期待
仕事があること、役割があることは鳴瓢において生の意味を与えるかもしれない、という話をした。しかし三話の世界Ⅴ(鳴瓢の夢に現れるイド)において下記のような「仕事」の使われ方もある。

「カエルちゃん!」
「ああ!助けたかったのに」
「知ってるよ、そのために何度もこの世界に来てくれたんだもんね」
(中略)
「事件の捜査なんてどうでも良かったのにね」
「そんなどうでも良くなる仕事なら」
「どうして私たちが死ぬ前にそばに居てくれなかったの」

この鳴瓢が見た夢のイド(世界Ⅴ)においては、鳴瓢あるいは酒井戸の「仕事」は、家族あるいはカエルちゃんを失わせるものとして現れている。鳴瓢は家族を救うことができなかったし、酒井戸もまたカエルちゃんを救うことができない。「カエルちゃんは椋じゃない」とここでは言われているものの「カエルちゃん」が無意識の中で家族に重ねられているのだとしたら、「カエルちゃん」を酒井戸が救うこと、つまり酒井戸が名探偵としての「役割」すなわち「カエルちゃんの死の謎を解く」という「役割」を逸脱することに強い意味があるのではないか。そのような未来の可能性について、十三話から下記の場面を確認する。

「でも、これからいつか絶対に
あなたを本当に助けてくれる人が
必ず現れるから
それを待っていて欲しいんです
希望を捨てずに
いつか絶対に
あなたを苦しみから解放しますから」

(酒井戸との生きたままの邂逅を幻視する)
「やあ、生きてるとこを見つけるのは初めてだね。カエルちゃん」

「私、信じます。だから待ってます、ここで、ずっと」

カエルちゃんの夢、あるいは幻視は予知夢のような側面を持っている。だからこそ酒井戸がカエルちゃんをいつか救うかもしれないことがここでは示唆されている。また、鳴瓢=酒井戸も十三話にて「希望」について下記のように語っている。

「あとは出るだけだ」
「どうやって?何か方策はあるんですか?」
「いや、希望と期待だけだ」
「ええ?私たち名探偵ですよ?
何か窮地を突破するために思考する方が正しくないですか?」
「俺の全智慧をもってして希望と期待を抱いているんだよ
遠い世界の自分の預かり知らぬ誰かに
望みを託すことが大事だったりするんだ」
「それを俺は名探偵として知っている。」

ここで言っていることは、ただ信じて待つという点でカエルちゃんの帰結と一致している。ただ「希望」を自分の預かり知らぬ誰かに託して待つという結末である。この「遠い世界の自分の預かり知らぬ誰か」とは誰のことだろうか。それは、直後のシーンでカエルちゃんと対峙している百貴の事だとも考えられるが、それにしては意味深である。ここではあえて別の見方を提示したい。すなわちこれは我々視聴者のことを指しているのではないか、と。
飛鳥井が酒井戸に救われる予知夢(幻視)を見ていた事を知っているのは、我々だけである。鳴瓢が家族と飛鳥井を重ねていた事を知っているのも我々だけである。だから、十三話以降の世界で鳴瓢がカエルちゃんを救い、また家族を救えなかった鳴瓢の何かが救われるのだと、我々だけが知っている。

(補足・読書会内ツッコミ)
・世界Ⅴ(鳴瓢のイドの夢)と世界Ⅷ(飛鳥井の夢)ってどこまで一致するのかな?
・イドと夢の関係が改めてよくわからない。殺意の世界、無意識の世界、夢の世界と色々あるけど……?例えるならば飛鳥井サーバーを経由した無意識がイドになり、個人サーバーの無意識が普通の夢、みたいな感じなのかな。
・映画の「インセプション」とか「ザ・セル」に似てる部分あるね

五、結論 本物の場所へカエル
鳴瓢における主体の救いは今はまだない。しかし未来にあるという形では提示されていたのかもしれない。一つは、不眠症が治る事であり、もう一つは名探偵という酒井戸の役割をこなしながら、その役割を超えていつか飛鳥井を救うことである。いつか「本物の場所」に「必ず帰る」という「約束」は、このような形でなされるかもしれない。

(補足・読書会内ツッコミ)
今更ざっくりとした質問するけどイドの中でのカエルちゃんてなんだ?どう位置付けしたらいいかわからない。
→(アンサー)ほんとになんだ???よくわからない。イド内で自殺したりメッセージを残したりと、ある程度自由に動けるようではあるけど……それがどういう仕組みなのかわからない。漫画版で今後の展開に期待。
(以下、感想)
Dさん
・途中しんどい。割とパンクした。
・ブログの考察とかだと、謎解きに走りがちだが「鳴瓢」の幸福に焦点を当てて論を通してくれたからよかった。しかし、途中で論の混乱があった。
・「四の二」は、鳴瓢の不幸を論じるパートだが、それが浮いている気もする。繋ぎがあるといいかも。
・論中で、「我々」って言葉を使うけど、読者の集合を仮構している感じがあるし、好みの問題としては自分はあまり好きでない。登場人物の意図の話をしているのか、アニメの演出語りの話なのか、我々の意識の話なのか、曲者な語彙だよね「W e」って。
・論の主張として、主体の幸福を語るのはよかったが、複数世界の行き来(メタ)のところに作品の魅力があると思うので、鳴瓢の主体的な幸福の話になってしまった点、メタではなくベタに繋がってしまった点は多少消化不良。
・コーヒーとか細かい部分を見る点がよかった!アニメを見るにあたっての目の良さを感じた。また別の作品とかもやってみてほしい。
・アニメの論だと空間的なイメージを拾えると面白いよね。
・おすすめ本『現代アニメ「超」講義』(石岡良治)

Bさん
・直感的ではあったが、納得する部分もちょこっとあり、焦りました。
・メタとベタの話。メタであるにも関わらず、ベタ的にしか生きられない感じ。
・メタとベタの関係が断絶しているようで何か繋がっている。意識させられる作品である。ありがとうございました。

Aさん
・どこを聞いていいのか分からなくなり、混乱はあった。
・作品をまた見たくなる部分あった。
・村上春樹あんまり知らなかったので、そのような繋がりがあるのかと思った。
・現実と夢の境目が近い感じで、アニメ映画の「パプリカ」とか思い出してた。

Cさん
・考察するオタクが好きそうな作品だよね、自分もだけど。楽しかった。
・アニメの考察の難しさ、楽しさがあるよね。映像表現が出てくる点が難しい。今回はコーヒーの点とか、さりげない部分に意識を向けた点は高評価。
・イメージの意味づけをどう分けるか、どの情報を捨象するかが難しい。
・今まで何回か君の論を見せてもらった中で、作品に自分の読みを寄せてくるっていうイメージがある。作品と自分との位置関係が批評っぽい。作品の批評を通して自分を語る感じ。今回もパーソナリティが出ていて面白い。作中で語られていないことを語ろうとする試み。
・作品の読み込みの部分で、意味わけとかをしっかりして、自分の言葉にし過ぎない点を気をつけるともっと読みやすくなるかも?
・作品としてはまだ噛める部分があると思った。もっといろいろな話ができそう、と感じた。

六、あとがき
(都合により省略)

七、小ネタ、頻出語、重要語などメモ書き
・各サブタイトルについてー作中の台詞が英語で引用されているので面白いよ。
・各挿入歌についてー「Butterfly」「UP」など上昇に関係するものがある。 
・上下の運動について
鳥瞰するものの表現としてー松岡と本堂町の離別のシーンでの「飛行機」、砂漠のイドでの「鳥」、ミズハノメの「パイロット」という表現。
上から下への運動としてー「雷」「滝」「FALLEN」など。 
・「仕事」という言葉についてー「仕事」みたいに、あるいは「神」みたいに、という所でも使われている。
・数字「3」について
→松岡さん「意味が三つ重なれば」
→富久田、「33歳」、潜伏場所など。
→穴井戸、3回頭を叩く仕草。指を指す時に3回振る。三つの指輪。三つのピアス。
→三人の名探偵=三位一体の見立てとする説
 →三位一体の父と子と聖霊の位格について
  父→「父親」→鳴瓢
  子→「ロゴス」→計算→富久田
  聖霊→聖井戸→本堂町、みたいな文脈づけはどうですか?
・「カエルちゃんは椋じゃない」が「カエルちゃんは無垢じゃない」に聞こえる件
・穴という言葉について
 →穴は一つ、地獄の穴、穴は開放、井戸=穴、などモチーフとして頻出。
・地獄 
→地獄の美しさ、地獄の穴、地獄に突き落としてやる、など頻出

八、本日の名言
「it's OK to leave everything just as it is」
「ずっとこのままでいいの」

「イド:インヴェイデッド FILE:06 CIRCLEDより」

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