見出し画像

デスノートとプラチナエンド 生と死をめぐる物語の行方


 0.読まなくてもいい前書き


 僕がデスノートを読破したのは忘れもしない、中学一年生のある夏の日だ。不思議な引力に引っ張られるようになんとなく入った商店街の古本屋で、ビニールに包まれた色褪せた全巻セットを手に取り、埃っぽい店内を横切った。確か網棚には当時最新のドラクエが掲げられてあり、硝子棚の向こうでは美女が惜しげもなく全裸を晒して浜辺で微笑んでいた。そんな手狭な通路を進んで躊躇いがちにレジへと持っていった。税込み1200円だった。

 部活の帰りで相応に疲れていたはずなのだが、そんなことは気にかけず、ラケットケースを放り出して自室のカーペットに座り込んで夢中で読み耽った。一心不乱に二日で読みきった。時間にして数時間程度の目眩めく物語経験は、結果として十年近い時を経ても続く、物語への愛の礎となっている。

 大袈裟に言ってしまえば、デスノートという漫画は、僕にとってある種の正典(カノン)なのだ。それは、ある人にとっては『十角館の殺人』かもしれないし、『ブギーポップは笑わない』かもしれないし、『金色のガッシュ!』かもしれないし、『魔法少女まどか☆マギカ』かもしれないし、『虚無への供物』かもしれない。ある瞬間、限られた一定の時期に摂取したからこそ深い感銘を受ける作品というのは確実に存在する。少なくともその時、僕にとってのそれは、紛れもなくデスノートという漫画だった。台詞は暗記できるレベルで読み込んだし、それまでは小説>決して越えられない壁>漫画だったのがその後数年逆転しかけていたほどだった。まあ漫画の比較対象に小説やアニメを織り交ぜても致し方ないかもしれないが、その当時僕が一番ハマっていたのは、明らかにこの表紙が異様に格好いい、マンガだった。

 今更のように切り出すのもアレだが、ずっと放置していたNoteに改めて記事を書く気になったのは、最近ずっと単行本をリアルタイムで追っていたデスノートのコンビによる新作『プラチナエンド』の最終14巻を読み、何らかの形で考察を残したいと感じたからだ。

 というのも、プラチナエンドの最終回を読んで私が感じたものは、「ええ……これで終わり?」という困惑だったからだ。その後暫くしてからは、五年近く追わせておいてこれか、と憤りすら覚えもした。事実、ネットで感想を大雑把に検索するだけでも、好意的な感想が驚くほど少ないことに気付くはずだ。「炎上」とか「打ち切り」とか「期待外れ」とか、皮肉、揶揄が飛び交っている。楽しみにしていた読者として、これは余りにも悲しい。中には「亜城木夢叶が書いてそう」なんてものもあって、乾いた笑いが出た。(亜城木夢叶とは、両作のコンビの過去作『バクマン。』に登場する漫画家。「エグい」作風に定評があるが、問題行動ばかり起こす)

「これってやっぱないよな、鑑定眼は違ってないよな」。安心感を覚えつつも、だが、その一方で確かにこの状況に落胆を覚えていたのだ。まとまった長文、論理的筋道の通った批判ならまだしも、都道府県を全部言えないような小学生でも言うことができる「クソ」とか「つまらない」という言葉で片づけてしまうにはあまりにも口惜しい作品……だと最近になって気付き始めたからだ。確かに『デスノート』や『バクマン。』などの過去作に比べると幾分か見劣りするかもしれないが、決して打ち切り作品ではないし、寧ろ(途中までは結構)面白いし、今秋でのアニメ化も決定している。

 そもそも、作品の評価はオールオアナッシングではなく、是々非々が普通だ。全てがつまらない、何らの美点も見つけられない作品の方が少数派ではないだろうか。私自身、プラチナエンドはラストシーンこそ悪い意味で愕然としたものの、単行本をずっとリアルタイムで追っており、ここ五年ほど、毎度楽しみにしていた。漫画は完結してから一気に読んだり、往年の名作をkindleで大人買ったりするのがメインなので、こういった楽しみ方は私の中では珍しかった。そういう意味でも、深い思い入れがある作品ではある。

 私の主観的な印象や評価だけを述べていてもただの感想文にしかならないので、もう少し客観的な評価、社会的な評価を書いておく。以下、ウィキペディア他媒体から一部を引用させていただく。

『DEATH NOTE』は原作:大場つぐみ、作画:小畑健(いずれも敬称略)による漫画で、週刊少年JUMPに2004年1号から2006年24号まで連載された。全12巻、全108話(人間の業の数)。累計発行部数は3000万部を突破。その巻数の短さから考えると、破格と言っていい数字だ。アニメや映画などメディアミックスも盛んに行われ、大きな注目を集めた。2016年には、連載終了からかなりの時間が経ったにもかかわらず新作映画が公開されたり(出来について何も言うまい)、近年にも新作の読み切りが公開されるなど、未だに衰えない人気を見せている。「社会」をちゃんと描いていることからか、普段漫画を嗜まないような層にもその影響は波及し、「子供向け」「子供が読むもの」と捉えられがちな漫画の印象を見事に覆して見せた稀有な作品なのだ。

 評論家の宇野常寛氏は『ゼロ年代の想像力』において、『DEATH NOTE』を「セカイ系の克服」を試みた作品だと論じている。「セカイ系」について論じだすと本当にキリがないので、ここでは割愛する。ヒロインが戦うのを見ているだけで何もしない(必ずしもそうとは限らないが)「セカイ系」の対抗馬として、本作から続く諸作品を、「当然のように戦場のような世界を生きる人々」を描いたサヴァイヴ系、と冠している。

 そして同時に、この真剣に考えれば「ネタ」以上のものではない幼稚な夜神月でさえも、この不透明な世の中に「わかりやすさ」を示し、バトルロワイヤルに勝ち残れば魅力的に見えてしまうということを露悪的に突きつける作品が、この『DEATH NOTE』なのだ。   『ゼロ年代の想像力』より

 この、「露悪的」というのは本当に言い得て妙で、『デスノート』がそういった「暗部」を殊更に誇張して描き、またそういったものに対する逆説的な反抗を意図的に内包している作品だ、という主張には概ね同意だ。

 そもそも、主人公の月が頭が良く高学歴でイケメンで女の子にもモテて、実家も太いハイスペック、なんてあまりにも出来すぎだろう。ここが一番、露悪的かもしれない。(頭が良い「から」高学歴とかイケメン「だから」女の子にモテる、とうわけではないのがポイント、必ずしもそうとは限らないので)作中でも、作中人物が「月」のことを「裕福な子供」とか「モテる」とかプロファイルする箇所があることから、これは狙った描かれ方だろう。

 他にも、メインストーリーの裏では、埋まらない格差、止まらない貧困、複雑な問題を抱える家庭、マスコミや広告の過剰な宣伝戦略、政治や宗教の問題などを、「やりすぎ」とも言える社会風刺を交えて明に暗に描き出している。

 その風刺の最たるものが、「露悪な大衆の描き方」だと私は思っている。

 折角だから、ここで一例を挙げてみよう。

 気付く人は気付く、程度のさりげなさだが、デスノートの第一話と最終話には、共通して登場するモブキャラがいる。彼(醜く肥え太った眼鏡の男)は、なかなか親が迎えに来ないことに対して路上で一人暴言を吐くのだが、一話と最終話での違いは、罵倒する相手が「母親」か「父親」か、という、ただそれだけの違いなのだ。作中時間では相当な時間が流れているはずなのに、である。

 宇野氏の指摘通りの、「魅力的な」月の描かれ方も勿論だが、この箇所は、変わらないものは変わらない、変えられないところは変えられない無常観を、鋭く指し示してはいないだろうか。

 繰り返して主張するが、露悪的な大衆の描き方こそが、この素晴らしい作品を裏から支える重要な舞台装置だと私は考えている。

 中学一年生で読んだとき、生憎と「露悪」なんて洒落た言葉は知らなかったので、僕は友達に貸す前に「皮肉な作品なんだ」と言った気がする。高尚な社会風刺を含んだ新世界の神漫画なんだとか力説して引かれていた覚えもあるが、それは多分気のせいだ。あのラストはハッピーなのかバッドなのか議論した級友は確か一橋に行った。私はただの私大……こういうところからも格差を感じる。

 本記事には「露悪的」とか「皮肉」という言葉が頻出すると思う。そのような単語を本記事で扱った場合、決して揶揄や下品な意味ではなく、すべて褒め言葉として解釈してほしい。なんなら本記事に含まれるふざけた記述もそう解釈してもらってもいい。

 戯言はこれまでにするとして、本題に入る。

 本記事は大きく三つのパートに分けて考察を展開する。

 まず、①デスノートとプラチナエンド両作について粗筋を説明し、両者の類似点または相違点を考えてみる。

 それから、②考察の対象を主にプラチナエンドに絞り、似通った構造を持つ作品を引き合いに出しつつ、プラチナエンドの持つ魅力や描かれているものについて持論を展開し、

 最後に③総括、という流れだ。 

 長くなりそうだが、良ければお付き合い願いたい。

 以下、デスノートとプラチナエンド両作について、その核心部分、それも結末に関わる凄まじいネタバレを容赦なくかますので、ネタバレを気にする未読な方は潔く引き返すか、『DEATH NOTE』全12巻(完全収録版全1巻)及び『プラチナエンド』全14巻を読んで来てください。


1.デスノートとプラチナエンド ~バトルロイヤルの内と外で流れるもの~


 まずはデスノート(タイプが面倒なのでカタカナ表記に統一します)から見ていこう。読んだことがある人はプラチナエンドに比べれば多そうだし、何度も読んでいる分、私も解説しやすい。

 デスノートは「名前を書くだけで人を殺せる」死神のノートを偶然拾った主人公、夜神月(やがみ ライト)が「世直し」をしていく物語だ。

「世の中に知らしめるんだ僕の存在を 正義の裁きをくだす者がいるって事を‼ 誰も悪い事ができなくなる 確実に世界は良い方向に進んでいく」(中略)「そして僕は 新世界の神となる」     デスノート1巻より

 月はノートの力を用い、死んだ方が良いと思う人間、凶悪な犯罪者を次々と処刑していく。死因を書かなければ必ず心臓麻痺になるというノートの特性を生かし「悪を裁く何者かがいる」と大衆に思わせることに成功した月は、「キラ」と呼ばれ世界中の信奉者たちから神のような扱いを受け、持て囃される。

 そのキラ(≒月)に対するのが世界最高の名探偵「L」率いる、警察機構の捜査官たちだ。彼らはキラの確保のため、水面下で独自に動き始める。

 デスノートは主に、この大きな対立構造によって物語を牽引していく。

 物語の途中からは、もう一人のノート所有者であるヒロインやキラの権威を出汁にして大衆を扇動するマスコミ、自社の利益のためにノートを悪用する大企業の幹部、ノート奪取を目論む海外マフィアなども現れ、いくつもの対立構造の交錯によって、デスノートを巡る「戦い」は更に激化していく。

 魅力的かつ斬新な設定と、繰り広げられる巧みな駆け引き、一癖も二癖もあるキャラクター、それにノートに関わる緻密なルール設定などが有機的に絡み合い、非の打ち所がないほどの濃密なストーリー展開が矢継ぎ早に展開される。漫画として、物語として、恐ろしいまでに完成度の高い作品なのだ。美麗で丁寧な作画も、その過酷な世界に確かな彩を添えている。

 そんなデスノートの最終局面では、月の惨めな敗北が描かれる。

 決定的な証拠を突き付けられ、捜査陣たちに追い詰められた月は、自分は「犯罪者」ではなく、あくまで「新世界の神」なのだ、大衆から望まれる存在なのだ、と不敵に笑う。

 しかし、Lの後継者ニアは月にこう告げる。

「いいえ あなたはただの人殺しです(中略)あなたは死神やノートの力に負け 神になろうなどと勘違いをしている クレイジーな大量殺人犯 ただそれだけの何者でもありません」          デスノート12巻より

 状況的にも思想的にも、ニアたちの説得は不可能で、月の敗北は決定的なものになってしまう。

 デスノートにおける死は、即ち敗北であり、結果だ。 作中では本当に多くの登場人物たちが命を落とすが、そこで描かれる「死」は純然たる悲劇であって、どことない後味の悪さを残す。月の死亡時の黒塗りの頁の演出や、「死んだ者は、生き返らない。」との最終話の無常な言葉にも、それは見出せるだろう。

 Lが月に、月がニアに敗れ死んだように、私たちは散りゆく者たちのモノローグに思いを馳せ、嘆き悲しむ(と思う)。あるいは日本人らしい判官贔屓の精神が作用しているのかもしれないが、余程の嫌われ者でもない限り、創作物の中でも人が死ぬのはやはり悲劇だ。

 デスノートは、空に浮かぶ「月」に向かって祈りを捧げるキラ信者の女性の姿が最後に描かれ、幕を閉じる。

 これは、新世界の神足り得なかった(人間として死んだ)月が「新たな」世界、既存のものでない価値観をほんの少しでも作中世界に持ち込めたことの紛れもない証左であり、間接的ではあるものの小さな勝利とも言える。 月本人は死亡しているが、一部の人々の間では神にはなれているのだから。(勿論、月は新世界の神として「君臨し続ける」ことが目的だったわけなので、敗北には違いないのだが)

 キラとして世界に君臨し栄華を極めた月の敗北を通じて、デスノートは「バトルロイヤル」の過酷さ、世の非情さ、確かなものなど何もない価値観の流動性、相対性などを強く指し示していると言える。

 月の「死」は勝負の過程を経ての、結果としての「死」であり、その悲劇に疑問を差し挟む余地はない。死の直前の走馬灯で、月はノートを使用し始めたばかりの時のことを見る。そこには、ほんのわずかな悔悟の念があったのかもしれない。月に関わる登場人物の人物のその後も、ヒロインの海砂は自殺(本編では描かれないがファンブックに記載)、一連の事件で警察官僚の父親と前途有望な息子を失った残された夜神家がどんな道を辿ったかは想像に難くないだろう(純然たる悲劇だ、ひょっとしたら松田辺りが援助しているかもしれないが)

 デスノートは、バトルロイヤルの渦中の登場人物の栄光や挫折、希望と絶望、生と死を、強固な対立構造で克明に描いて見せる作品だと言える。

 

 プラチナエンドにも、似たような構図が存在する。即ち、「バトルロイヤル」の枠組みを通じて、歪な価値観を抱く登場人物たちの信念やイデオロギーの対立を鮮やかに描き出す構図だ。

 デスノートが死神のノートの争奪戦や探偵と犯人の対決、という構図で読者を惹きつけたように、プラチナエンドは次代の神を決めるための戦争、という形でその構図を魅せてくれる。

 天使の矢と翼(どちらも特殊な能力がある)を手にした「神候補」たちが次の神を決めるために相争うという大まかなストーリーラインは、Fateや未来日記、魔法少女育成計画などの「バトルロイヤルもの」を何処となく彷彿とさせる。特殊設定を導入したバトルロイヤルが大好物な私としては、設定だけでお腹一杯といった感じだった。

 だが勿論、ここで終わらないのが流石だ。

 物語の、特に中盤以降で、重きが置かれるのは戦闘描写というよりも登場人物たちの狂おしいまでの葛藤や内面描写だ。

 プラチナエンドの主人公は架橋明日(かけはし みらい)。引き取られた親戚一家に日常的に虐待され、全てに絶望し生きることを諦めている少年だ。自殺の途中で天使ナッセに助けられ、翼や矢を譲り受けた彼が「幸せ」を追い求めることから話が始まる。

「幸せになるために生きる…死んだら幸せになれない…そうだよ…当たり前なのに…俺は死のうと…幸せにならなきゃいけないのに 今まで何やってたんだ俺…家族の分まで幸せにならなきゃ…」  プラチナエンド1巻より 

「神候補」に選ばれる者たちは「生きる希望を失くしたもの」とだけあって、本作には自殺未遂者や志願者、末期がん患者、鬱病を患っている者、過剰なまでの差別主義者、承認欲求に飢えたSNS中毒者など、何れも様々な問題を抱えている。翼や矢を得てからの彼ら彼女らの変化、希望や絶望を細かに描く点は、デスノートとよく似通っている。

 なんか、こうして書くと作風が暗すぎるような印象を受けるかもしれないが、一つの事実として本作は暗い。主人公もヒロインも暗い。ヒロインの花籠咲(はなかご さき)は明日との関係が改善するまでは常にレイプ目(瞳から光彩が消えている漫画的表現のこと)と言った有様である。

 そのせいか、デスノートのような、序盤から弾け飛んだバイタリティはお世辞にも見受けられず、暫くの間は主人公陣営も膠着状態が続く。

 そんな主人公陣営を嘲笑うかのように、物語序盤で暗躍するのが生流奏(うりゅう かなで)という少年だ。彼は特撮ヒーローのメトロポリマン(大都市を頭から生やしているわけではない)に扮し、矢と翼の能力をフル活用して積極的に他の神候補を抹殺していく。

 神になったらブスと貧乏人は〇す、裕福でも不細工なら〇す、などと歪んだ思想を語り、自分を当然のように他者の上に位置付けることを憚らない彼の姿勢は、月と何処か似通っている。その理想の半分はクラスメイトからの受け売りで、いいね採用、とそれだけで決行する。民間人を巻き込んでの、いとも容易く行われるえげつない行為。

「貧困層がいなくなれば格差がなくなるって言ってんだよ 裕福なものが見返りなしにクズを世話しエサを与えるだけなど不公平だ 平等というのは特別扱いがないこと 哀れまれ恵んでもらいそれを「平等」と言う恥を知らない人間は死んだ方がいい」          プラチナエンド7巻より
「友人に何でも願いが叶うとしたらどうしたいと聞いたことがある 友人はこう答えた 金が欲しい それが駄目ならブスに消えて欲しい どうだこれが人間の本音だ 皆が裕福で美しい者だけの世界 これが僕の目指す世界だ」                    プラチナエンド7巻より   

 僕は心中で密かに「劣化ライト」と呼んでいた(掲げる信念も行動原理もあまりに幼稚すぎ月ほどの「魅力」がない)が、形式的平等や実質的平等の違いも理解せず暴論を振り回したり、他の神候補たちを焙り出すために無辜の市民を殺害したりと、やりたい放題である。物語序盤においては、仲間と共に彼の好き勝手な横暴を止めさせることが大きな目的となっていく。

 また、上述した通り、本作に登場する人物たちは大なり小なり問題を抱えており、そのせいもあって物語後半からはバトル要素は抑えられ、代わりに暴力によらない「対話」が割合を増やすこととなる。

 天使の力を保持し欲望を満たすことを第一とする女性や、終盤から登場し、最終的にはバトルロイヤルの最後に神となる中学生男子、神を決める戦いそのものに否定の立場を取る大学教授など、彼ら彼女らとの意見や信条の対立や協調、その中で「幸福」を求める登場人物たちの姿勢も本作の大きな見所となる。 

 大雑把に二作品を解説し終えたところで、ここで一度整理のために、二作品に共通する作風、あるいは明確に異なる点を洗い出してみたい。

 デスノートもプラチナエンドも、死神のノートを巡る頭脳戦や、次の神を巡る戦いといった「バトルロイヤル」の枠組みを通じて、登場人物の主張や信条の対立、あるいは各キャラが標榜する願望の成就や破滅を生々しく描いているという点で共通している。「名前を書かれたものが死ぬノート」や「天使の矢と翼」といった超常的なアイテムを登場人物が得て、その変化を通じて、登場人物たちが繰り広げるドラマを鮮やかに際立たせる仕組みだ。

 歪な登場人物たちに焦点を当てるのもいいが、その前に私はあえて、魅力的な登場人物たちの「外」……部外者がどう描かれているかについて注目、検討してみたい。 

 デスノートにおいてはさくらテレビ(ネーミングからして悪意を感じる)や黎明間もないインターネット、プラチナエンドでは上のようなマスコミに加えてSNSのような媒体で、「嫌な世の中」を嫌と言うほど見せてくれる。

 事実、嫌な世の中だ、という趣旨のセリフ、それを匂わせるような描写は頻出する。だが嫌な世の中だと評しつつも、登場人物たちは他ならぬ自分自身もその社会に属する成員である意識、自覚を持っている。だからこそ、彼ら彼女らは苦悩する。自分たちが「嫌な世の中」で暮らしていることに。

「少女Aって以前本名も顔もネットに流出してますよね」「嫌な時代だ………だが顔はわかっていた方がいい」「そうですね」             プラチナエンド3巻より
「既に残る神候補全員の素性が晒されている あることないこともだ 嫌な世の中だな」「はい……こんな世の中生きていたいと僕は思いません」             プラチナエンド11巻より 

 プラチナエンドでは大衆の愚鈍さを嫌というほどに見せつけられる。その度合いは神を巡る戦いの詳細が人々にとって周知の事実となっている分、デスノートより比重が大きいかもしれない。

 SNSでは神候補たちの情報がばら撒かれ、テレビでは死体画像や戦闘映像がモザイク付きとはいえ流され不謹慎な関心を集める。モブキャラたちは神候補たちの姿を我が身を顧みずスマホで撮影したり、好き勝手に情報を拡散したりといった始末だ。勿論、全員が全員そうというわけではない。良識的に、大人として主人公を保護するため接触してくる善人もいる。だが、彼らの存在は極めて特例で、得難いものとして描かれている。

 物語序盤において、このような露悪描写を象徴するような展開がある。神候補たちが神宮球場に招集をかけられ、観客席にて大勢の人間が見守る中、神候補の一人である年端も行かない少女が命乞いの甲斐もなく殺されてしまう展開だ。観客たちはドン引きしつつも誰一人として助けに行こうとしない(何が起きているのかさえ把握できない)し、マスコミはテレビ映りを気にする始末である。目の前で人が死んでも、殺されても観客気取り、どころか「観客そのもの」だ。画面の向こうのリアリティショーを鑑賞しているのではなく、干渉可能な眼前の「リアル」なのにも関わらず、である。

 二作とも、当事者足り得ない大衆の愚かさ、感受性の鈍さをバトルロイヤルの外の舞台装置として、如実に機能させていることは明らかだ。

 ところどころに差し挟まれる中継映像やSNSの画像では、モブキャラたちの意見の応酬がこれまた露悪な感じで差し挟まれる。なかには建設的な意見もあるが、大多数は神候補たちを揶揄したり、身勝手極まりない憶測を立てたりするものだ。渋谷のTSUTAYAや新宿のアルタ前で愚かな群衆は今日も今日とて囀り続ける。(何度も前を通っていたり待ち合わせに使っていたりと馴染み深い場所だったので、正直身につまされる思いだった)

 さて、それでは満を持して主人公を始めとする登場人物たちを見ていこう。といっても、語ることはさほどない。 

 目的達成のためには無辜の犠牲を厭わない月は、確かに既存の観点からして悪人だ。だが、その悪を魅力的に描くピカレスクロマンの側面をも、デスノートは秘めている。『悪の教典』の蓮実聖司や『コードギアス』のルルーシュなど、悪であっても人気があったり格好良かったりするキャラは多い。事実、月は作中キャラで人気が高く、傲慢ではあるものの、それを昨今の劣等感丸出しの某う系主人公のように徒にひけらかしたり、マウントを取ったりすることはあまりない。決して人当たりは悪くないし、魅力的な人物に見えるように設計されている。(幼稚であることは否めないが、それは意図しての漫画的表現だ、揚げ足取りになるのでやめよう)

 月が徹底して「戦う」主人公だとすれば、明日は「戦わない」主人公だ。戦いを忌避する主人公、とも言える。彼はバトルロイヤルに身を投じても争いには積極的に参加せず、頑ななまでに暴力や争いを避けようとする。特に序盤はそのヘタレぶりは顕著だ。

「人を攻撃することが嫌…怖い 臆病なんだ(中略)人は競争し努力し自分の理想に近づこうとする それが幸せに繋がる そんなことはわかってる でも今やってることはそれとはまるで違う 人を傷つけたり犠牲にして何かを得ても嬉しくない それで喜ぶなんて理解できない」                    プラチナエンド4巻より

 この姿勢は月とはまるで対照的だ。真逆、と言ってもいい。相手が明確な悪人、それも殺人犯やテロリストであっても傷つけることを躊躇い、お陰で敵には「小学生か?」と煽られたり、味方にも「それではやっていけない」と窘められる。正直、主人公にあるまじき情けなさである。自身の幸福のため、周囲の味方のため、その姿勢を克服していくのが、明日の課題となる。

 バトルロイヤルの「内」と「外」に注目して、二作を大まかに論じるのならば、こうなる。

A 登場人物たち(バトルロイヤルの参加者たち)……月、L、明日、咲、奏など

B 無関係な大衆(当事者たちを眺めて楽しむ民衆)……モブキャラたち 

 A(内部)では闘争の過程として必然的に起こる主人公や他登場人物たちの信念・理想の対立を描く一方で、 B(外部)では群集心理や無関係な大衆の無責任さ、当事者意識の欠落を浮き彫りにし、大衆社会を半ば露悪的に描き出す、という点で、二作の構造は極めて似通っていると言える。

 デスノートとプラチナエンドという同一のコンビによる二作品は①「バトルロイヤル外部で大衆の愚鈍さを露悪的に描く」という点で共通しており、②「バトルロイヤルへと臨む主人公の姿勢、態度」の点で異なっていることが、私の稚拙な説明でもそれとなくお分かりいただけただろうか。


2.プラチナエンド ~タイトルに籠められた切実な祈り~ 

 

 では、1で触れた内容を踏まえて、ここからより考察を広げていく。

 プラチナエンドでは、多くの神候補たちがそれぞれが神になった世界を思い描くが、それは現代の問題の表面をさらっと撫でるものが多く、どれも絶対的な真理足り得ない。彼ら彼女らの具体性を欠く理想を一蹴し「神はいない」との真理を掲げる人物でさえも、最後には持論を引っ込めてしまう。

 そして無事に「対話」という平和的な解決で神が決まり、バトルロイヤルが終結してからも数話、物語は続く。デスノートでは最終話や番外編で描くに留まった、「後日談」が三話分描かれる。神選びの背景に隠された残された謎や、仄かな伏線としてあった天使ナッセの特別性が語られる。

 最終話で描かれるのは、世界の醜さ、救えなさに絶望した神の自殺による全人類の「死」。あまりにも唐突で救いのない、衝撃的なカタストロフィ。

 これを、奇妙なバランスで辛うじて成立している、いつ崩壊してもおかしくない不安定な現代社会の暗喩、と解するのは大袈裟だろうか。

 たとえばSNSアプリをアンインストールしたからと言って、私たちは縦横無尽に張り巡らされたネット社会からは逃れられない。どこまで行っても、システムが駆動している限り逃げたことにはならない。何かの拍子に復帰してしまうことも、友人伝いに話が伝わってくることもあるだろう。

 もはや何処に逃げても  社会と無関係、ではいられないのだ。

 アカウントを消去しても、ブラウザとかで「ああっ、こいつまだ同じようなこと呟いてんな」などと意味不明な優越感に浸ったり、また別のSNSのアカウントで何処か神妙な雰囲気を漂わせて「アカ消し報告」をして、恰も輪の中から抜け出たような偽りの解放感を感じたことはないだろうか。因みに私は、ある。恥ずかしいことだ。

 この、傍観者「気取り」という受動的なようでいて攻撃的な積極性も含む態度は、かなり危険な姿勢なのでないかと常々思う。それは、自身が振りかざす無意識の暴力性に無自覚である、ということを意味するからだ。

 タイムラインから間断なく流れてくる時事ネタや流行ネタは、瞬発的かつ機知にとんだ大喜利のようなコミュニケーション(全然うまくない)を促進し、座布団の代わりの「いいね!」を加速させる。何がいいのか私には皆目わからないが、とにかく誘発し時には誘爆する。

 スクショしたアニメキャラのアイコンとひらがなを並べた珍妙なハンドルネームで「知った風な口」を聞く謎の存在に出くわしたことはないだろうか。宛ら討論番組のコメンテーターにでもなったように、その道のプロでもないのに、なぁぜか偉っそうに意見を垂れ流す、そんな奇妙な人種に(完全に偏見だけど岡崎京子とか山本直樹の作品とか偏愛してそう)。嗅覚で回避できない分、糞尿を垂れ流すより質が悪いかもしれない。

 他にも、SNS上のほんの些細な投稿がリアルでのトラブルに発展したりだとか(経験あり)、そういう事案は山ほどあるだろう。今の子供たちは教室だけでなく電子画面の中でもこういった戦いを繰り広げなければならないのかと思うと可哀想でならない。

 話が抽象的になってきたので戻す。

 ここで、私が何度も繰り返し言及してきた「露悪的な大衆」が機能し始める。言ってしまえば、そこにあるのは圧倒的なまでの当事者意識の欠如だ。

 過剰に繋がり過ぎた今、私たちは無責任なお客様、無自覚な傍観者ではいられない。

 こういったモブキャラの身勝手さ、当事者意識の欠如を描き出す視点は、ゼロ年代初頭に栄華を極めたセカイ系、と大雑把に括られた作品にも垣間見ることができる。

 たとえば、少年少女が巨大ロボットに乗って敵と戦う胸のすく王道SF漫画『ぼくらの』では、巨大ロボットのパイロットとなった少女のモノローグが、ひりつくような描写とともに以下のように活写され、綴られている。

 突如出現し各地に被害をもたらすなぞの巨大怪獣。その話でもちきりだった。でも、それは表面的な人間関係を成り立たせるためだけに存在する芸能ネタと何も変わることのない価値。自分の身にふりかかる想像など誰もしていない。(中略)自分とは別の世界のこと、自分とは別の世界の話。でも違う。蓄積されたゆがみはいつか自身に返ってくる。芸能ネタと同じではない。                      『ぼくらの』2巻より

 女の子が耳にする教室での何気ない会話の端々には、「自分だけは例外だ」「自分だけは大丈夫だ」、と言わんばかりの根拠なき希望や特別意識の滲み出た、同じ世界に住む当事者としての意識を欠いた、無神経かつ無責任な言葉が散見される。この「自分だけが安全圏にいる」みたいな謎の安全意識は、コロナが蔓延する緊急事態宣言下の東京でなんらの緊急感もなく飲み屋街へ繰り出す危機感が遺伝子レベルで欠如しているとしか思えない方たちにも言えることではないだろうか(地元民としては切実にやめて欲しい)。因みに胸のすく王道SF漫画『ぼくらの』では、お仲間が怪獣により天に召されてもなおこういったモブたちは「あいつは運がないよなー」などと他人事である。ここまでいくとデスノートやプラチナエンド以上に露悪で、ホラーの域かもしれない。

 こういった行為を善だ悪だ判じるのとは関係なく、こういった大衆の露悪的な描き方がバトルロイヤル内部に間接的に作用し、より一層内部での対立を煽り、浮き彫りにするという側面を秘めている、といった話だ。

 もう一作品、有名なSF作品から引用してみる。来るべき「そのとき」を前に、人々はどう生きるのかを静かな視線で見つめた情緒ある終末SF作品だ。

「じつは、わたしは今こんなふうに考えているんですよ—―人はみな遅かれ早かれいずれは死ななければならない。ただ問題は、心の準備をしてそのときを迎えるというわけには決していかないこと。なぜなら、いつそのときがくるかわからないから。ところが今このときにかぎっては、およそいつ死ぬかをだれもがわかっていて、しかもその運命をどうすることもできない。そういう状況を、わたしはある意味で気に入っています(略)              『渚にて 人類最後の日』より

『渚にて』は北半球で行われた大規模な核戦争により放射性物質が南下し、人類滅亡を間近に控えたオーストラリアの都市メルボルンを舞台に、終末へと向かう人々の暮らしや交流を純文学のような丁寧な筆致で描いた作品である。ともすれば「設定集」になりがちなSFには珍しく、人間の温かみを感じられる作品だ。

 この台詞は、原子力潜水艦の艦長であるタワーズ大佐のものだが、彼は合衆国の軍人として終末を迎える世界を静かに受け入れつつ、鷹揚な態度で周囲と接している。その態度には危機的状況にあっても人の尊厳を忘れない気高さや、危機的状況に屈せず、現状を諦観するでも絶望するでもない潔さが見て取れる。

 しかし、最終話「#58 最期の矢」において明日たちが置かれることになる状況(まさしく、「突然の死」)は『渚にて』のような若干の猶予さえもない、極めて絶望的なものだ。心の準備も何もあったものではない。悲鳴や怒号と共に、人々は為す術もなくその生命を終えていく。

 なるたるや旧劇エヴァのような陰鬱なSF作品のように、これまでメインキャラとして活躍した人物たちも例外にはならず、次々に消えていく。誰一人として、動物や植物、赤子、天使でさえも、その運命からは逃れられない。

 ここでプラチナエンドのキーワード、主人公の明日が求める「幸せ」について取り上げたい。終末のとき、彼は果たして幸せでいられたのだろうか。

「幸せ」という単語は、天使ナッセや明日や咲のセリフ、四葉のクローバー、黄色は幸福の色など、執拗なまでに作中でキーワードとして登場する。 

「私は私の神候補を神様にしたいんじゃない 幸せにしたいの」      プラチナエンド2巻より
「人が競って生きている以上 人の幸せを見て自分は不幸だと感じる人間は出てしまう でも人を幸せにすることを自分の幸せとするのは絶対に悪いことじゃない それに神になったからと言って死ぬわけじゃない 生きてる限り人間としての幸せも俺は諦めはしない」    プラチナエンド13巻より

 他にも家族愛や恋愛、結婚、SNSにおける承認、学術研究への没頭など、様々な形で様々な人の幸せの形が描かれていく。

 第一話の冒頭でも、

 人は誰しも 幸せになるために生まれ 人は誰しも より幸せになるために生きている               プラチナエンド1巻冒頭より

 と、ある。

 自殺未遂を行った主人公とヒロインが幸せになりたい、そう願い、バトルロイヤルを生き残り、愛し合い、最後には幸福の象徴のような結婚をする。

 それまでの「過程」に注目したときにこそ、プラチナエンドの見方が変わったように気がした。「エンド」と題にある通りに、愚直にラストシーンだけを切り抜いて作品の評価を下すことは簡単だ。

 だが、亜城木先生のネーミング技法のように逆説的に考えれば、真に重要なのは、読者の我々が注目すべきなのは、結末に至る過程の方だ。

 明日は、悲劇的な終末にあっても、穏やかな表情で「幸せだ」と口にして夕方の空を見上げ、自分を救ってくれた天使ナッセに感謝を捧げ、その生命を終える。これまでの「しあわせ」を噛み締め、死合わせるのだ。

「死は必ず訪れる それが今なだけ ナッセやルベルに救ってもらわなかったら 2人はとっくに死んでいた だから感謝してる 救ってもらえてどれだけ幸せをもらえたか」「うん」「それに愛する人を先に失ったらどれだけつらいか 咲ちゃんと一緒に死んでいけるなら俺は…幸せだ」              プラチナエンド14巻より 

 幸福は結果ではなく、あくまで過程にあるのだと言える。

 デスノートがバトルロイヤルの結果としての「死=敗北」を克明に、残酷に描き出したのに対し、プラチナエンドはバトルロイヤルの過程としての「生=幸福」を丁寧に、丹念に描き出して見せた。この「差異」は際立っているし、意図的なモノだろう。月と明日の主人公像の相違、死を前にしての態度(惨めったらしく生に縋りつく/潔く死を受け入れる)は、両作のテーマの相違から要請される必然のコントラストだったのだ。

 なにより、第一話で「幸せになりたかった」と言って自殺を図った主人公が、最終話では満ち足りた表情で「幸せだ」と言って、愛するヒロインと共に死ぬ。このストーリーの起伏、主人公の成長は特筆すべきだろう。一巻からじっくりと辿ってみると、思いのほか主人公やヒロインの成長や関係性の変化が丁寧に描き出されていて驚く。「でも最後死んじゃうんだよな……」と前提に置きながら読むと思わず涙腺が緩んだ。バトルロイヤルで死ぬわけでない、というのがまたやるせなさを掻き立てられる。

 似たようなアプローチでも、全く別の物語に変貌した二つの物語。恐らく軍配は圧倒的にデスノートの方に上がるだろうが、プラチナエンドも捨てたものではない。人間の生や幸福の肯定に満ちたテーマは、ダーティな雰囲気が漂うデスノートよりもどちらかと言えば一般向きかもしれない。プラチナエンドは、「幸せ」への絶対的な肯定を、テーマの根底に含んでいる。

3.総括 ~生と死をめぐる物語の行方~


 さて、悲劇的な物語の終末にも、一抹の救いは与えられた。

 だが、本当にそうだろうか。

 プラチナエンドのラスト数ページで明かされるのは、人も、天使も、神も、地上の生物も、なにもかもが、「死」を望んでやまない超常存在に創造された自らを殺すための「殺傷兵器」だった、というオチ。まるで藤子・F・不二雄の異色短編集にでも収録されていそうなオチだ。賛否両論ありそうな結末だが、正直な感想を述べれば、私はハッピーエンドのまま終わって欲しかった。

 何も最終回で虐待や貧困、差別に喘ぐ人々を画面いっぱいに映し出して「これが世界……」をしなくても……亜城木夢叶的「エグさ」をよりにもよって最後の最期で発揮しなくても……。まあそれがデスノートから連綿と続く持ち味でもあるが。もう少し序盤から仄めかしや伏線を張るとか……。

 ……身勝手な感想やめ。

 本作の最終ページで、黒幕(光り輝く生命体のような姿が描かれている)は、生命が死に絶えた荒廃した地球を眺めながら、こう述懐する。

 欲しいのは死…それが我々の求めるもの 死が無いことがどれだけ退屈で虚しいか 羨ましい…死が訪れると決まっていてこそ 命を燃やし 命を輝かせられる            プラチナエンド14巻末尾より   

 生命が絶滅した悲劇的な地球に向けてなお、「羨ましい」と口にするのは皮肉極まりないが、どこか超常的な観念を感じさせられるものではある。 

 ここで改めて、バトルロイヤルの「内」と「外」の問題を取り上げてみよう。

 架橋夫妻は、いつか終わる限りある時間の中で、最期まで命を燃やし輝かせられた人達……つまり黒幕である超常生命に「羨ましがられる」存在だ。

 では、状況を詳しく検分することもなく、神候補たちの戦いを日々のネタとして、面白がってコンテンツとして消費するだけだった大多数のモブたち(≒露悪的に戯画化された大衆)は、果たしてどうだったのだろうか。

 外から与えられる情報に踊らされるばかりで、無責任な意見を述べるだけの(述べることくらいしかできないとも言える)、大した目的意識もなく日々を漫然と生きるモブは、本当に呆気なくそのときを迎えてしまう。

 消えていくモブキャラの悲痛な叫びが次々と街中に木霊する一方、主人公とヒロインは安らかな表情で身を寄せ合い、静かに「そのとき」を迎える。

 これはまさしく、疑いようもなく、「露悪的」だろう。

 こういう機会は滅多にないので……少し偉そうなことを書いてみる。

 私たちはディストピアのような社会を生きている。

 ほんの少しスマホ画面を指先でスクロールすればいくらでも「闇」とやらを見た気になれ、知った気になれる。この「気にな」れるという態度が責任逃れで身勝手な傍観者の態度を促進することは本記事で再三、述べてきた。

 顔文字や記号的な構文を使った益体のないコミュニケーション、心ない誹謗中傷が飛び交う場面は正真正銘、ディストピアそのものだと思う。昨今の、令和時代のテーマとなっている、分断社会を象徴するような、近年なら自粛警察とかSNSを介したいじめだとか……ここまで行くと想像力の欠如、というか前提の共有が為されていない、みたいな感じを受ける。都会か田舎か、男か女か、高学歴か低学歴か、裕福か貧乏か、そんな二律背反な言葉では捉えきれない問題を孕んでいる気がする。

 排中律は必ずしも近代論理学でも機能するとは限らないのだ。

 昔ながらに共感能力が著しく低く、それ故に周囲に馴染めない、というか馴染めたとしてもその状態を「楽しい」とはお世辞にも感ぜられない生来の残念人間、文化祭とか球技大会とかでも一応は周囲に混ざって楽しんでいる素振りを見せながらも「なんでこいつらこんなに楽しそうなんだ…………?」などと、不気味なほどに青い空や夕焼けのグラウンドを宛ら三大電波ゲーかのように見つめていた私も、流石に心が痛む。もうSNSで教養人を気取った似非文化人(大半は背伸びして粋がっているだけの凡愚)に混じって極めて個人的な言論活動(120%の意味で皮肉)を行う気は毛頭ないが、それでもだ。

 限られた命をどう使うか。限りある時間をどう生きるか。それは現実を生きる私たちにとっても不可避のテーマだ。

 死を題材に扱った作品は多い。

 バトルロイヤルものに限らず、物語上の必然の要請として人が死ぬミステリーやサスペンスもの、パニックもの、難病もの、マガジンを中心に一時期だけ流行った、デスゲームもの(また雨後の筍になる可能性も無きにしも非ずだが)……これらの作品群ではまるでバラエティ番組のように人が死んでいく。

 こういった作品群は、死を沢山描いているようでいて、逆説的だが命が「軽く」扱われることが多い。宛らまるで小道具のように。全部が全部そうではないし全員が全員そうではないが、読者は一時の間だけ虚構の死を体感し、お涙頂戴ポルノかのように涙し、また日常に戻っていく。そこには何らのメッセージ性もなければ希望もない。そんな幼稚極まりない作品や読者は巷に溢れている。私が嫌いな「病弱なきみ」との切ないラブストーリーや、閉じられたコミュニティにおけるしょーもない身内話の応酬を描いた作品(ただの自慰行為か近親相姦にしか見えない)も、これに該当するだろう。

 プラチナエンドやデスノートで描かれる「死」は、とにかく重い。確固たる重量感を伴って、私たちの心の深奥に訴えかけてくるものがある。上手くは言えないが、作り物とは思えないほどの「凄味」があるのだ。

 デスノートやプラチナエンドに見受けられる、過剰とも言える露悪な世界認識……社会への問題意識は、ややもすれば読み手を妨げる痛烈な社会風刺となって、時に毒となって私たちの身を蝕む。

 だが私は、その強烈な毒にこそ、現実社会の一端を容赦なく抉り私たちの眼前に突き付ける視点の鋭利さにこそ、一抹の清涼感を見出さずにはいられないのだ。(アンチミステリの巻末解説にありそうな締まらない閉め方だ)

                               了 


読まなくていい追記 

 追記1

 バクマン。を16巻辺りで読むのを中断し、数年が経過しているのですが、最後まで読んだ方が良いでしょうか? 当時純朴な少年だった僕は、ヒロインの処〇膜の有無を訊いてくるモブの出現に震えが止まらず、その後を読むのを半永久的に止めてしまいました。有識者の方、意見をお寄せください。

 追記2

 個人的に考える優れた漫画の条件として、①10巻前後で引き延ばしもなく綺麗に完結する②ラストもしくはラストに至る過程がビター、もしくはメリーバッド(定義があまりに曖昧なのであくまで目安)、③話のスケールが大きい(世界観や設定だけでなく、登場人物の多さとか作中経過時間とかも含む)、を掲げているのですが、この恐ろしいまでに冗長な拙文(約一万八千字)を読んでくださった方にお詫びとして、条件を満たすであろう作品をなんとなく書いておきます。自粛中のGWの漫画読みの参考にでもどうぞ。括弧内は完結巻数です。

 デスノート(12+1)説明不要 

 プラチナエンド(14)上に同じく

 エルフェンリート(12)最初から最後までずっと面白いたぐいまれな漫画

 ぼくらの(11)胸のすく……ではないですが胸に残るのは間違いないかと

 なるたる(12)ぼくらの以上にクる作品なのでメンタルを鍛えたいときに

 最終兵器彼女(7+1)イリヤとかほしのこえとかと並んでセカイ系の代表

 真月譚月姫(10)絵もストーリーも綺麗、リメイク発売するみたいですね

 GUNSLINGER GIRL(15)オタクが好きなものを詰め込んだかのような作品

 ファイアパンチ(8)読むなら今!

 チェンソーマン(11)上に同じく。また、こちらも良ければお願いします

 未来日記(12)これも拗らせた中〇生のときに読んどいてよかった作品 

 イエスタデイをうたって(11)←最近のお薦め(読んでいる途中だけど)

 少しでも参考になれば嬉しいです。


 追記3

 あと、デスノートはいつなんどき何度読んでも本当に面白いです。「私はLです」のシーンとか凄くないですか……? いや本当に面白いし面白いとしか言えないんですよね……。私は弥海砂と南空ナオミが特に好きです……終わり方も含めて女性の執念を感じるので……いや本当に……面白いんだよな……。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?