画一された多様性と、シンの多様性
「多様性」それは現代社会における、進歩と発展を導き出す公式と呼べる。このありがたい公式に嫌疑を挟むような愚か者は、是非こちらの解説をご覧頂きたい。
SDGsバッジが爽やかに輝く大学教授が語る内容は、以下のようなモノだ。
そう、進歩著しい今を生きるわたしたちは、新しい発想やイノベーションを求められている。そのきっかけとなるコンセプトこそが、多様性である。
そこで「価値観の新たなコラボレーション」のためには、当然ながら異質な考えの持ち主をチームに引き入れることが肝要だ。
しかしながら、大変残念なことに、画一的な日本社会には、多様性を拒み、LGBTや異民族への無理解を公言する政治家が、公職に就いているのだという。
もちろんながら、今日も #杉田水脈を更迭しろ というハッシュタグアクティビズムがこだましているとおり、多様性の観点からは、このような議員は議員辞職(=杉田氏に投票するような、無知蒙昧な選挙民の投票は無効化)するべきであるのだ。
つまるところ、多様性は至高の概念であるが故に、民主主義のセオリーである、全ての人が平等に一票を持つ、などという愚かしいコンセプトと共存することは不可能といえる。
その論拠に、こちらの画像を上げることができる。わたしたちはとてもとても寛容な社会であるが故に、なんと言っても不寛容な意見を許容することは認められないのだ。
そして、「異文化の理解・尊重」については、実のところ、昨今の多様性からは外れることが導き出されるだろう。仮にミオランドという国があり、ほとんどの人が杉田水脈氏と同じような考え方をしている民主国家があった場合、そのような文化は当然排除されなければならない。
そう、世の中にはLGBTに不寛容な異民族も、また政治的に右派を支持するLGBTも存在しうるが、望ましい多様性の勝利のためには、とても寛容なわたしたちは、彼らの口を塞いで閉ざさせるほかない。
至上の考えを生み出す、偉大なる西洋文明と、その他チンチャンチョン
何故、進歩にみちた社会に住むわたしたちにとって、インドネシア人の信仰する宗教、あるいは価値観は打倒すべき敵であるのに対し、多様性の殿堂たるカール・ポパーの考えはなぜ尊ばれるのか。この事件にそのヒントが見られる。端的に言えば、彼が西ヨーロッパ人だからだ。
ドイツチームがサッカーで日本チームに負けたので、コメンテーターが日本人(アジア人全般)を見下すジョークを放ち、それが日本人の目にとまり、抗議を受けてYouTubeなどの動画を消させた、のだという。
実に結構な運動である、と考えた皆様、すこし落ち着いていただきたい。
これが、もし中国の番組が、日本人を馬鹿にしたコメントを出したとするとどうだろうか?あるいは中東の国、また、アフリカであればどうだろう。
以下のような結果になるはずだ。そう、我々が「差別された」として怒りだすのは、差別なんてしない「はず」の反差別民族様たる西ヨーロッパ人と、アメリカ人がわれわれを馬鹿にしたときであって、それ以外のケースでは、さしたる問題とはならないのだ。
つまり、上位にして価値観を創造する事が可能な存在から、冒涜を受けたが故に、わたしたちは怒り狂うこととなる。
これは、既視感のあるコンセプトでは無かろうか。
かつて、ドイツの哲学者、アドルフ・ヒトラーは、その主著「わが闘争」で人類を以下のように分類した。
文化創造種(要するにオレ達、アーリア人、全ての文化の源)
文化支持種(チンチャンチョン、西洋文明を取り込むことでのみ進歩可能な連中)
文化破壊種(要するにオレ達の敵、ユダヤ人とか)
そう、多様性を統一し、遙かなる寛容を手にするためには、私たちは文化を支持する種族であり、その分をわきまえる必要があると言うことだ。そして、「オレ達の敵」は時代と共に移ろいだ。当世風に言えば、それらは反知性主義を掲げ、伝統的な価値観を墨守し、そして進歩へ冷笑に満ちた薄ら笑いを浮かべる、奴ら以外の何物でも無い。
このような多様性を重視する価値観を、ドイツの哲学者のアドルフ氏に敬意を表して「シン・ナチス」と名付けたい。あるいは「ネオナチ」と呼ぶと、もっとわかりやすいだろう。多様性、万歳、Heil Diversity!
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