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とてもわかりにくい話:フェミニスト人狼ゲーム

世間とは、わかりやすい話と、わかりにくい話、そしてちっともわからない話の渦で構成されている。社会を動かすのが手前の二者であるにもかかわらず、不毛な話にのめり込む人は後を立たない。

わかりやすい話は、人間の直感に響くものだ、誰だって血の付いたナイフをもった狂人に追い回されることは、トラウマ以外の何者では無く、対応策も登場しやすい。例えば、正義の剣士が現れて、バサッと悪党を成敗してくれれば良いのだ。

わかりにくい話は、高度な専門家の説明が必要だ。しかしながら、高度な専門家が、必ずしも説明の専門家でないことを、わたしたちは、コロナ渦や昨今の戦争で何度も見せつけられたことだろう。

最後に、本日のテーマである、ちっともわからない話について。

あるグループの中では当然の話であり、別のグループでは当然のように失笑されるお話が、ここにはあった。

この「ツイフェミ」VS「表現の自由」界隈にさして興味の無かったわたしは、何が起こっているのか理解するのに大変なる労力を払った。そして、残されたのは天にも積み上がる徒労感だ。

この青識亜論氏は、「表現の自由」派の論客として知られている。フェミニスト一派の矛盾を、軽やかに指摘して表現の自由を訴える活動家だ。

事の発端は、彼のアカウントがTwitterより突然凍結されたことだ。フェミニズムに反する、というリベラルな西海岸のムラの掟を破っている以上、アカウントの凍結は当然見込まれていただろう。

元アカウント凍結に際し、彼は、以前より用意していたという別のアカウントを利用し、この界隈に呼びかけはじめた。しかし、話がじつににわかりにくいことに、このアカウントは彼自身がフェミニスト陣営を偽装し、偽フェミニストとして活動するために利用していたアカウントであり、その事実が暴露されてしまったことに起因する。

当然ながら、リベラル界隈は怒り心頭である。著名なリベラル派のコメントを以下に列挙する。

しかしながら、なりすましアカウントが悪であるといえるだろうか?

適当に引っ張ってきた炎上させれそうな絵を貼り付け、煽ってみるなど、アニメ・漫画を中心とした「表現の自由」を至上の価値とする人々から見れば、まさしく許しがたいマッチポンプであるが、ツイフェミという壊れたスピーカーを目の当たりにしていて、表現の自由に無関心なわたしには、壊れたスピーカーがもう一台増えていただけに過ぎない。

ツイフェミアカウントの作り方は、極めて簡単だ。偉そうな大学のそっち系フェミの先生をフォローし、何度かRTし、誰かにレスバトルをけしかける。

A「×がだめな理由、それがわからないあたり、だめさがにじみでているんだよな、あえてなにかは言わないけれど」
B「マンスプ、ミソジニー、女たたきガァァアァ」
C A もしくはBのリツイート(ハフポスト式再帰言及)

ツイフェミの書き込みは、かいつまんで見るところ、このAもしくはBで構成されているため、さして知能の無い人間でも容易にまねることができる。なぜかスピーチで使われると説得力が生じる小泉進次郎トートロジー構文のほうが、はるかに頭脳を要求することは明瞭だろう。

きわどい漫画やアニメが片っ端からBANされようが、正直なところどうでもよいと考えている、意識の底辺たるわたしには、彼の攻撃は極めて巧妙に見えるのだ。なんせ、フェミ界隈はもはや、ツイフェミアカウントが、自分たちのシンパか、スパイかが判別できなくなったのだ。

実のところ、ツイフェミの行動論理は、理論ではなく仲間意識や連帯と言ったムラの論理に根ざしているため、「異物」が唱えた発言を持ち上げてしまうこと自体が、極めて不愉快な結末を迎える。発言の内容ではなく、誰が発言したのかという点について、日本の伝統的な大企業も顔負けの保守性を発揮することで、集団としての戦闘力を維持していたのだ。

「あいつは青識かもしれない」

それは、極めて容易に投げかけられる懸念であり、正しさだけで繋がっている人々への、ポロニウム入りのお茶なのだ。その意味において、この青識氏の取った行動は、聡明かつ、的確な物だったと言える。当然、彼は「ついでに燃やそうとした絵を描いた作家」には謝罪しても、戦術として誤っているとは考えていない。

”いかがでしたか?” 
表現の自由の大切さ、おわかりいただけましたか?

わかるわけが無いだろう。青識氏のとった行動は、人間の理解力をあまりにも愚弄しているのだ。関係代名詞が6つ以上並んだ文章は理解できない、などと言われるが、同じレベルで理解に多大なエネルギーが必要で、そして残されるのは単なる徒労感だ。参考までに、以下の文章を一読いただきたい

7月に独立を宣言したムベラカンポ州では、政府軍と独立派の衝突が激しさを増していた、隣国のニンゴ共和国の支援を受けているとされるンガラヌル司令官は、住民に徹底抗戦を呼びかけたが、政府派の少数民族のヌーズル族が州都アゴゥルマ市では多数を占めていたため、激しい抵抗が見られた。
「独立後の中央アフリカ全史」より 
第23巻 冷戦後の悲劇 民名書房

このニュースを見たときに、「まあ、大変ね、かわいそうね」と思うことはあっても、どちらかの陣営に肩入れする人は少ないであろう。なんせどちらが何を目指しているのか、相当な前提知識が無ければ理解することができず、多くの人間は地球の裏側の話になんぞ興味は無いのだ。

アニメや漫画が、もはや我が国における文化のメインストリームに近づいているとはいえ、必ずしもそのファンが表現の自由派でもなく、それだけに基づいて投票先を選ぶような人は、そんなに多くは無いと理解している、表現の自由派の政治家は、もちろんこのような行動に否定的だ。

今や、ツイフェミが現代に生きる「ジェンダー当たり屋」であることは、もはや白日の下に、完全なまでに示された。しかしながら、それは歌舞伎町にぼったくりがいます、という程度の情報でしかなく、ほとんどの人々にとって自明な、どうでも良い話である。それを理解した方が、きっと彼らの活動に資するだろう。

どんな人間にも、守るべき最後の一線が存在する

かつては、今では信じられないような笑いのネタがあったという。精神障害や知的障害を持った人を、ものまねで揶揄することで笑いを取る、そのようなコメディアンがいたのだ。青識氏は、その禁断の領域に踏み出してしまったのではなかろうか。

ツイフェミ、に類される人々のアカウントには、プロフィールを確認する限り、なんらかの障害などに起因する生きにくさを訴える人に満ちており、彼ら・彼女ら・theyたちが生きる上で数多くの困難を感じていることもまた、社会が受け止めるべき事実なのだろう。

故に、本記事では、彼らの発言の引用を控えることにした。なんらかの困難を抱えた人たちを、揶揄することは望ましくないという私の信念から。

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