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情報と映像について

情報と映像について


養老さんいわく、情報というのは、「かわらない」ということと、

        情報というのは、「変わる」という特徴をもっています。

 朝、家に、新聞が届きますね。新聞には、さまざまな内容が書いてあります。

新聞は、文字で伝えようとします。その新聞を、ものすごく保管状態の良い箱に

いれて、とっておきます。そうして、200年後、その、古くなり、茶色くなった

新聞を手に取ってみると、当たり前ですが、まったく同じ文字がかいてあり、

同じ内容が書いてあります。

 ピラミッドに刻まれた、ヒエログリフの古代文字は、何千年も前ですが、

古代の人たちの伝えたかったことを、その時と同じように、今でも読むことが

できます。その物体、物質が、消失しない限り、読むことができる。

情報を知ることができます。これが、情報が変わらないという特徴でした。

 さて、もう一つの特徴は、変わる、という事があります。

 朝、次の日に、新聞がまた、届きます。コーヒーをいれて、部屋を暖め、

新聞に目を通します。そうすると、これも当たり前ですが、前の日と、

内容のすべてが違います。毎日、同じ内容の新聞が仮に届いたとしたら、

そんなもんは、絶対に売れないし、嫌がらせ以外のなにものでもないかも

しれない。読者は、新鮮なニュースを求めています。ウェブ、ネットに

アクセスすると、それはさらに、如実にあらわれています。内容は、

同じアドレスにアクセスしたとしても、はるかに速いスピードで、

刷新されていきます。

 これが、情報が変わり続ける、変化し続ける、ということです。

しかし、このウェブの情報を、とてもいい紙に印刷し、最初の箱にいれて、

保管すると、また、200年変わらない、ということが起こるかもしれません。

アンティークな、めずらしい内容が、200年前の文字で書かれている紙、

ということで、未来人が、別の価値をみいだすかもしれませんね。

以上が、情報は「変わる」し、「変わらない」ということでした。


 さて、そのような変わらない性質を持っている情報ですが、私は、そのなかでも、

映像データ、音声データについて、専門に取り組んできました。映像は、本当に

便利です。大事なイベントはやっぱり記録しておくべきだし、記録しておけば、何度でも繰り返し見ることができます。

 昔、大学受験をするときに、予備校に通っていたのですが、予備校には、当時としては

早くから、映像を視聴できる、映像ブースというのがあって、復習や、繰り返し学習などができるようになっていました。繰り返し学習のことですが、山手線の車内には、真ん中の方に、デジタルサイネージ(電子的な映像広告)が、流れています。満員電車で揺られているときに、石原さとみさんのかわいらしい映像をながめながら帰るのが楽しみでした。

ちなみに、石原さんの映像がずーっと流れていたのは、新木場から、仕事から帰るときに使った、有楽町線で、ずーっとみていました。可愛すぎです。品のいい、器量のよさと、ほどよい個性(シン・ゴジラで表現されている、リアルアスカという、マニアにも響くような)が備わっていると思います。まあ、それはいいとして。

デジタルサイネージ、電子的な映像広告の効能ですが、これは、効能が本当にあります!

同じ広告が、繰り返し、繰り返し、あほみたいに何回も流れているので、それは、おぼえますわー。ほんまに。だから、私は言いたい。何でもいいんですけど、どうしても覚えたい、文字情報や、内容がある時、例えば、よく見るカレンダーとか、時計の隣とか、あるいは、おといれの便器の前とか、まあ、そういった所に、電子的な映像広告にあたるものを、飾っておけばいいんですよ。そうすれば、あほみたいに、何回もみることになります。

そうすると、例えば、僕だったら、石原さとみさんの綺麗なかおは、すぐにおもいだすことができます。簡単な映像は、本当に簡単に作ることができます。スタップ細胞はあります!私は、adobe premire という映像編集ソフトを業務レベルで、10年以上使ってきたので、おはしを使うように使うことができる、日常的な道具なんですけど、おすすめです。それは、そうなんですが、windowsなら、ムービーメーカーという初めから入っている映像編集ソフトがあるんですよ。それを使うという手もある。私は、写真を使った、フォトムービーを作る仕事を6年くらいしていました。結婚式の、プロフィールビデオ、という、結婚式の中座中に(中座というのは、結婚式に関わる用語で、嫁さんが、結婚式の乾杯という演出が終わった後に、一度、披露宴会場から出て、お着換えをします。最初に洋装の場合は、和装に、和装入場の場合は、ウェディングドレスにお着換えする場合もあるでしょう)和モダンというのは、モガ、モボ、なので、大正ロマンは素敵ですね❤

写真を、編集画面に、放り込んでいって、写真と写真の間に、トランジション(場面転換の演出効果)をかけていけば、いいんではないか。最初に、黒みをいれます。黒味というのは、黒いカラーマットのことで、それは、黒の静止画、黒のモノトーン、黒一色のjpgをphotoshopで作ります。windowsでデフォルト(最初から)入っているペイントで塗りつぶし、をしても作ることができます。jpgをつくることをおすすめします。jpg

というのは、不可逆圧縮方式の画像のことで、a=aではなく、aは、a'になる、ということになるんですが、それほど気にすることはありません。それではなく、可逆圧縮方式のbmpとpngを使うのもてですが(とくにpngをつかうのは現代的でしょう)私はjpgが好きなので、利便性も高いですし、おすすめします。学生時代の恋のはなしですが、当時、とても好きだった女の子がいます。本当に好きだったので、思い出すと、ときめきます。jpg堂というホームページを、彼女が作っていました。絵画を作ったいくつかの絵画連作をホームページで公開していました。そこで使っていた、画像データがjpegだったから、jpg堂だったのでしょう。2000年くらいのはなしなので、もはや22年立っていますが、いまだに利便性が高く、古びることもなく、今でも、使われている、ファイルフォーマットです。

黒味はじまりで、タイトルを表示させ、ディゾルブ、ゆっくりとしたディゾルブのあとに、本編である、フォトムービーがはじまるという構成、本編を流し終わった後、また優雅なディゾルブして、黒落ち。白落ち、白始まりでディゾルブ、本編、ディゾルブ、黒落ち、

でもいいでしょう。映像制作は、このみの世界です。演出が好きかきらいか、この絵は好きか、きらいか、この音楽はすきなのか?映像と音楽は接着剤でバインドされているので、

この音楽はすきなのか?は重要だとおもいませんか?

 この場合、指揮者はあなたです。

写真が例えば、5枚あるとしましょう。ディゾルブは接着剤にあたります。そう、写真と写真を優雅に接着させるのです。ディゾルブは、実は奥が深いです。2001年宇宙の旅、ジョンカーウエイ監督の佳作、マイブルーベリーナイトは、本当に美しいディゾルブで、

見たものを陶酔させます。金髪美人(ナタリーポートマン)とブルーベリーパイ食べたいな。

 写真(静止画)を接着(ディゾルブ)、そうして、写真それからディゾルブ(接着)という構成にすれば、あら不思議、8秒くらいの映像ができあがりますね?サイレントですが。サイレントといえば、バスターキートンやチャップリンをイメージするんですけど、

あれは、トーキーですかね?トーキーも総天然色映画も、当時は、凄かったんでしょうℳね。今でいったら、VRや、ホログラムやフォトグラメトリーにあたるんでしょうかね。

ホログラフィックフォトグラメトリーなんて、トレンドになりそうかな。


 映像を自分で作って、例えば、トイレに置いて、好きなだけ、自分で自分に刷り込む。親鳥にひながついていくように。悪い言い方をすると、自己洗脳する、ということですね。

常に同じ映像を見ていると、自然に覚えてしまうので、便利に活用してみてください。

 予備校のはなしのつづきをします。その当時、素敵な英語の(瀬下先生といった)

先生の授業を聞けたりして、楽しかった覚えがあります。

 優れた教師の授業の映像をどんどん溜めていって、映像化し、アーカイブ(書庫)して、日本国民全てに、共有できたら、どんなにいいだろう、と思ったのですが、いかがでしょうか。映像的な万能現象、バベルの塔、巨大構造体を創出することが、私の夢でした。

けれども、現代の状況を冷静にみると、どうやら、それに近づいているようです。安心しました。少しの出費で万象をてにいれることができるような状態が、ある意味、現代なのかもしれない。

 聞き心地の良い授業は、ある意味、落語家の話芸のようなところがあって、名人芸の用になっていますね。

 最近、本当に楽しいのが、youtubeなんですけど、youtubeというのは、そもそも、

「あなたが放送局」という意味で、個人が放送局を構築することができる技術です。他にも、Linelive や、ツイキャス(ツイッターキャスティング)などもありますが、とにかく、小規模の個人や、ユニットが、それぞれの人が興味をもっていることや、詳しいことを、発信していっていますね。

 映像にしても、音声にしても、収録してしまうと、普遍性を持ってしまいます。どんな発言をしたか、証拠になってしまう。なにげなく道端ではなすのとは、わけが違う。ということは、ある程度、内容や発言に責任を持つ必要がありますよね。

 youtubeを見ていると、実は。でたらめなことを発信していることがいかに多いか。それは、世間って実はでたらめなことが結構たくさんあるかも?ということにもなるんだけど。本や書籍の内容も、結構でたらめな内容のものも多いですが。実際、フェイクなことも多いような状態にあるのではないでしょうか。

 映像というのは

、30フレームの写真を、1秒の間に、紙で作るパラパラマンガのように、少しずつ進めていくことによって、動いて見える仕組みです。フレームというのは、アニメーションでいうと、コマのことで、毎秒30コマのアニメーションとも言う事ができます。優秀なディレクター(監督)である、押井守さんは、映像はすべて、アニメーションである、と言っていたことがあります。実写映像に、一コマ一コマ、人力で、絵をつくるように、

緻密にレタッチ、手を加えることによって、アニメーションを作るように、制御してしまえる可能性を追及していた時代がありました。実写映像をアニメーション寄りでとらえるというか。

 アニメーション監督の新海誠さんは、写真を元に、とてつもない緻密さで、見たこともないような絵を目標にして、幻視して、絵をつくりあげ、視聴する人に、これまでみたこともないような映像世界を体験させることに成功させました。革新的でした。

 映像というのは、メカニズムとしては、パラパラマンガや、少しずつ違う絵をを円の上に描いて、回転させると、動いているように見える、「おどろき盤」とかわらないと思うのですが、それが、どんどん発展していきつつあるようです。

 すべての映像は、そのような意味で、幻影であり、イリュージョンであるので、魔法的な、感覚知覚の錯覚のようなものですが、しかし、十分に楽しむことのできるもの。

 辛い、あるいは、辛いかもしれない現実を、ひととき、忘れることのできる魅惑的な映画を見た後の満足感。

 ただし、いくら楽しいからといって、映像世界のファンタジーの箱庭の中にだけいる訳にはいきません。植物や、青空や、山や、濁流のある河を見ることによって、バランスを取るようにした方がよいと思うんですよね。

 それ以外にも、古い神社やお寺、大きな色の綺麗な建築物を眺めながら、歩くとか。

そういったことで、物理世界は、実際何であるか、ということに、自我と実存をグラウンディングして置く、地に足をつけて、呼吸を意識的にするなどといったことも、必要なのでしょう。とはいえ、多幸感があるなら、それはそれで、いいのかもしれないけどね。ニーチェのディオニオス的に。解放されている欲望が、開放系であるということ。閉じない、末端が解放させているという意識。

 ビジュアライズ(視覚化)されたものがもたらす、快楽に、じゃぶじゃぶと溺れるという感じ。リミッターを外して、はめをはずして、限界を突破する。エヴァンゲリオンのマリが言っている、裏モード、ビースト、は、多分に開放系で、ディオニオス的なのではないかと思います。それは、どこに行くかわかんない、少し自覚的に暴走させる感覚意識体ということ。

 映像は、見るということも、ショットする、映像を撮るという行為も、映像自体を作ることも、どの体験も、楽しい、という事です。映像というものは、映像芸術を創造していくということは、美しいラピスラズリの結晶構造体を創出するようなもの。

 結晶体を、眼前に、出現させる、というようなこと。そのようにも思えてきます。

 例えば、お台場で綺麗なお姉さんが、素敵な服を着て、しゃべった事が、寝っ転がって、どら焼きを食べている、片田舎の4畳半の畳の部屋に届いてしまうという不思議さ。

 また、それとは逆の流れで、そのようなド田舎の4畳半のカメムシのいるような、うすぼんやりした部屋で、熱を込めて美味しいドーナッツについて話したおじさんのパッションを記録した映像が、インターネットのセントラルサーバーにアップされて、さっき、赤い薔薇に水をあげていた、初老の感じのいいドイツのおじさんが、椅子に座ってyoutubeを見て、「japaneseのドーナッツに対する感受性は素晴らしいな、そうか、そうしたら、今年のシュトーレンに振るシナモンは、すこし多めにするか…」

と言って、アツアツのダージリンをすする、ということがあり得ますよね。

 21世紀も四半世紀過ぎようとしている。

そうだ、僕たちは、未来に生きていると思いませんか?


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