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再起・『機動警察パトレイバー2 the Movie』

祝・4DX版上映!

 どんな状況にあっても、心動かされる作品に出会う喜びは忘れたくないものだ。そして幸いそれは、何回味わってもかまわない。

 昨年3月に初めて出会い、そしてその衝撃から一気に4000字余りの感想を書き殴るに至った作品「機動警察パトレイバー2 the Movie」。当該記事は私の数少ない投稿の中でも最も多くの反響をいただいた。この「劇パト2」が先月より4DXでの上映を行っており、私も当然のごとく足を運ぶこととなった。

 この作品についての私の所見は、そのほとんどを以下の記事で書き連ねたつもりだ。

 だが初見の興奮から時間も経ち、その後の日々の生活、社会情勢の変化、そして何より劇場において再びこの映画を見たことで、新たに気がついたことも多い。そこで今回は上の記事への補足という形で、今一度この作品について考えてみたいと思う。なお久しぶりの投稿なので、今回は長めの評論文というよりは気づいた点を時系列順に列挙していくような形でリハビリとさせていただきたい。


以下ネタバレ注意。



シミュレーションと現実

 オープニングとともに描写されるのは、野明と遊馬がレイバーの新たなインターフェイスについてのシミュレーション実験を行っているシーンだ。前作世界から3年の月日が経ち、レイバーの性能も大きく変化したようで、より高度な状況に対応すべく、人間の肉眼を超えた感知機能を搭載しているようだ。これについて遊馬は旧来のシステムを「慣れ」と称すが、両人とも新たな「目」の機能に気持ち悪さを感じている。

 劇場パンフレットでもCGやVRについて触れられているように、劇パト2では人間の肉眼とは切り離された仮想世界・シミュレーションが多用されている。それは映画作品自体の制作についてもそうであるし、劇中の人々の体験もまた同様である。野明や遊馬が「気持ち悪い」と断じた、実験におけるシミュレーション世界はもちろん、首都圏空爆の虚構や最終決戦へのルート、そして何より柘植が仕掛けた「戦争状態の演出」自体が一つのシミュレーションである。

 そしてシミュレーションは極めてリアルな想定であると同時に、あくまで人為的に想定された「まぼろし」である。野明や遊馬がシミュレーションに懐疑的であることは、やがて訪れる戦争状態の東京( "TOKYOウォーズ" )というまぼろしに対して二人が現実側の人間であることを示唆しているとも見れる。


野明の変化

 このシーンでもう一つ注目されるのは、今までのパトレイバー作品における野明と今作の野明が、特にその内面において大きく変化しているのが見て取れるところだ。実験の気分直しにと遊馬に連れられて野明はかつて自分が操っていたイングラムを見に行く。遊馬は乗ってみるかと促すが、野明は「うまく言えないけど、もういいの」と拒否する。

 これはパトレイバー既視聴者にとってはかなり衝撃的なシーンなのではなかろうか。とりわけ「野明推し」な私にはとてもショッキングな場面であった。何しろ野明はレイバーに乗るために警察官になったと言ってもいいようなもので、イングラムに「アルフォンス」と名前をつけて可愛がるほどのレイバー好きであった。その野明がイングラムに対しここまで冷めた態度をとるのはありえない

 だが、この変化は野明自身よく理解できていないようだ。「うまく言えないけど、もういいの」というセリフがそれを物語っている。このシーン以降、かつての第2小隊のメンバーの現在の様子がそれぞれ描写されていくが、概ねその振る舞いや性格に変化は見られない。それだけに、野明だけがここまで変わってしまっていることがますます際立って見える。

 これ以降野明がまともに登場するのは最終決戦のシーンだけである。一見前作主人公というような扱いであるが、そこでの野明はイングラムに搭乗したことも相まってか、かつての振る舞いを取り戻しているように見える。一度レイバーから距離を置いた野明が、やっぱり私にはこれが合っていると気づく、という単純明快な展開ととってもいいが、少々穿った見方をすれば、野明もまた一種の「まぼろし」に囚われていた一人であったのかもしれない。

 アニメ評論家の藤津亮太氏が劇パト2について述べた記事がYahoo!ニュースに掲載され注目を集めているが、この中で氏は柘植を「『具体性を欠いた現実主義者』、つまり理想主義者」と評価している。戦後日本の平和を欺瞞としながらもその清算をするのではなく、戦争という概念を提示するだけの柘植は、現実主義者というよりは理想主義者に見えるということだ。この論は柘植に対峙する後藤隊長のより現実主義的な行動や、先の記事で私が述べた荒川の曖昧な立ち位置を踏まえれば、とても共感できるものだ。

 この「現実主義的理想主義」が野明のまぼろしにも当てはまるのではないだろうか。野明の囚われていたまぼろしは、「現実的であろう」とする「理想主義」と言える。野明は「私、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない」と語り、理想を避けて現実の道を歩もうとする。しかし彼女の中に何か具体的な行動方針や思想の転向があったわけではなく、まさに「うまく言えない」曖昧なまぼろしが彼女を包もうとしていたのである。

 そんな野明をまぼろしから解き放ったのは、圧倒的な現実、つまりレイバー戦闘であった。最終決戦での野明はとても活き活きとしていて、かつての彼女を彷彿とさせるものだ。この映画では様々な兵器が活動し、攻撃を行うシーンは多いが、二つの異なる勢力に属する存在同士が実際に交戦するシーンは、実は冒頭のPKO部隊と最終決戦の二つだけなのである。これほどまでに戦争というものを扱った作品であるにもかかわらずだ。それは、実際の戦闘というものがあまりにも大きすぎる「現実」であるからに他ならない。柘植の創り出した "TOKYOウォーズ" はあくまで虚構・理想であり、そこに実際の戦闘という現実が入り込む余地はないのである。後藤隊長の言葉を借りれば、「この街はね、リアルな戦争には狭すぎる」。

 あまりにも大きな「現実」を体験した柘植と野明。それを受けた両者がどのように自らを進めていったかについては述べるまでもないが、いわばラスボスである柘植に対比する存在として野明を置いてくれたことは、一パトレイバーファンとしてはとても嬉しいことだ。いつだって、ラスボスに正面切って対峙するのは「主人公」なのだから。


通信の「切断」

 今回は劇パト2初見の友人を誘ったのだが、彼から「戦争を演出する手段として通信の破壊、情報の遮断を採用したところが面白かった」という感想を貰った。確かに、戦争という状況を考えたときにまず通信切断を思い浮かべる人はなかなかいないだろう。爆撃などの破壊活動や負傷者の発生などの方がよっぽどインパクトがあるし、危機感も強い。にもかかわらず柘植が、ひいては押井監督が情報の遮断を選んだのはなぜだろうか。

 先の記事で述べたように、"TOKYOウォーズ" においては疑心暗鬼の状況を作り出すことが求められた。籠城する駐屯部隊やそれに対処すべく都心に配置された兵士と重火器。排除される警察力。米軍の存在。それらは東京を不信の渦に陥れるには十分すぎる材料となった。

 劇場パンフレットには、押井監督と脚本の伊藤和典氏が〈いかに効率よく東京を壊滅させるか〉について謀議を交わしたとある。疑心暗鬼の醸成されきった東京をいかに効率よく、そしてあくまでも現実を排除した蜃気楼の街のままに留めながら戦争状態を演出するかとなったとき、その答えは一つに定まったのである。

 情報・メディアの発達は近現代の人間社会において特筆すべき進歩である。かつて自分の生まれ育った村の中での情報だけで一生を終えていた人類が、今や指一つ動かすだけで世界中の様々な出来事を一瞬にして知ることができる。荒川は現代に生きる人々を次のように評している。

「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。何一つしない神様だ」

 「メディア論」を提唱した文学者マーシャル・マクルーハンは、「メディアはメッセージである」という有名な一節を遺した。それは一般に情報を伝達する媒体に過ぎないとされたメディアそれそのものに、人間社会を変えてしまうほどの力があることを示している。そしてメディアとは人間の身体の拡張であり、当然、素体から拡張された結果としての衰退・切断も伴うというのだ。

 身体の拡張と聞いて思い出すのが、オープニングで野明と遊馬の行ったシミュレーション実験だ。そこで遊馬が口にした「背中や腹の下に目が付いてるみたい」という評は、身体の拡張という観念を端的に表している。肉眼では捉えきれないものを見る、それはまさしく人間の身体機能の拡張に他ならない。

 ではもう少し視野を広くして考えてみよう。何も人間の視覚に留まらず、人間が本来知り得ぬ物事を知る、これを身体の拡張としたとき、メディア・通信というものはこれにぴったり合致する。自分が本来知り得ぬ情報を造作もなく手に入れる、まさに神様にでもなったような気分だろう。

 だがマクルーハンは、拡張の当然の帰結としてやがて「切断」が訪れると予言した。自らの住む現実を忘れ、通信という脆弱な網にその身を委ねた東京の住人たち。情報の遮断が彼らに何をもたらしたかは言うまでもない。

 これを書いている途中で、私は序盤の太田のシーンを思い出した。あくまでもマニュアル射撃に拘る太田に、生徒はFCS(Fire Control System:射撃統制システム)を使えばいいのではと質問する。しかし太田はFCSが故障し、さらに僚機も行動不能であったらどうするんだ、とこれを一蹴する。射撃精度を補助するFCSや援護をしてくれる僚機も言うなれば搭乗者の身体を拡張したものであり、それを利用している以上当然その故障、つまり切断を考慮しておかねばならないということだ。太田さんもたまには良いことを言う(本人にここまでの算段があったかは定かではないが)。

 本作公開当時の1993年は、湾岸戦争によってテレビというメディアを通してリアルタイムに戦争の様子が一般市民に広く伝えられた時代であった。しかし、人々は戦争を実際に目撃した気になっていたが、それは依然としてスクリーンを通してしか見ることのできぬものであり、かえって戦争というものをブラウン管の中に押し込めてしまった。身体の拡張としてのメディアというまぼろしを通してしか戦争を知らず、それでいて平和や「最悪の事態」などというものを論議する人々に対し、柘植はその拡張を切断し、素の身体を通して伝わるリアルな戦争という状態をぶつけたのだ。もっとも、その柘植の行為そのものもまた一つのまぼろしに過ぎなかったのだから皮肉である。


柘植は神なのか ― 飛行船と信号弾

 最後にもう一つ触れておきたいこと、それはこの物語における柘植という男の存在意義である。柘植が劇中で聖書の一節を用いていることは先の記事でも述べた。念のためもう一度引用しておこう。

我地に平和を与えんために来たと思うなかれ
我汝らに告ぐ
然らずむしろ争いなり
今からのち
一家に5人あらば
3人は2人に2人は3人に分かれて争わん
父は子に、子は父に
母は娘に、娘は母に……

   ──ルカによる福音書 第十二章五十一節

 この文句は物語の最終盤で全文が語られ、また柘植の仕掛けた通信妨害の解除コードとなっていた。私は当初この「我(=イエス)」とは柘植のことを指しているのではないかと考えていた。先の記事でも述べたように、 柘植は自らが"TOKYOウォーズ"によって平和のみならず戦争や変革をもたらす存在であることを暗示するためにこの一節を用いたのではないか、と。しかしいくら理想主義者であるとはいえ、柘植が自身を神の子に比定するのは少々おこがましいのではないかという考えもあり、私の中で判断に迷う点であった。だが今回作品を見直したことで、新たな気づきがあった。

 一つは柘植の用いた黄色い飛行船だ。横浜ベイブリッジ爆破のシーンをはじめ、物語を通して何度か登場していた飛行船であったが、終盤には3機が東京上空に現れ、撃墜された1機は無毒ながら大量の着色ガスを発生させて人々を恐怖に陥れた。このことから考えれば、事件当初から一貫して観測者として東京の街を眺めながら、最後は決起し、ガスという攻撃的手段も持ち合わせていた飛行船はまさしく柘植そのものである。

 この飛行船には「Ultima Ratio(:最後の手段、戦力)」という語が記されているとともに、3機が一組となっている点が特徴的だ。「3」という数字は三位一体に代表される神聖なものであると同時に、システムにおいて重大な問題が発生しても処理を継続させるために正・副・予備の構成を取るフォールト・トレラント・システムに代表されるような安定性、絶対性を持つものである。後者については、劇パト2より後の放映ではあるが、「新世紀エヴァンゲリオン」に登場するスーパーコンピュータ・マギがよく知られている。つまりこの飛行船を神に比定し、その墜落をもって神が地上に降り立つという解釈ができるのではないかと考えた。また結果として2機の飛行船が未だ上空を飛行している場面を映した本作最後のシーンは、脅威が未だ残っていること、あるいはこの事件を通して示された未来への課題が未だ残っていることを暗示していると見ることができるだろう。

 余談ではあるが、飛行船に有毒(の可能性がある)ガスを忍ばせるという手法は、70年代に制作された『街と飛行船』という演劇作品を連想させる。この作品に登場する飛行船は、一見伝染病から人々を救う存在とみなされながら実際には街の人々を死に絶えさせる死の象徴であった。劇パト2公開当時、まだ地下鉄サリン事件は起こってはいなかったが、大都市における毒ガス散布の脅威については、それ以前から文学作品の場で検討されてきたようだ。

 さて話を戻そう。ではもう一つ私が気づいた点、それは柘植に対して南雲隊長がこの一節を口にしているシーンに映る信号弾だ。彼女が一節を唱えている間、彼女の打ち上げた赤い信号弾は空からゆっくりと落ちていく。このシーンを改めて見た時、この信号弾、つまり南雲隊長はじめ特車2課の面々によって "TOKYOウォーズ" が終局したこの瞬間こそが「我」なのではないかと私は考えついたのである。となれば、彼らの勝ち取ったこの結末ですら、平和をもたらすのではなく、さらなる争いを生み出すきっかけになるということだ。そしてそのリスクの象徴として、やはりラストシーンで2機の飛行船が映し出されるのである。事実これほどまでにダメージを受けた東京に日常を取り戻すのは容易ではなく、この先の日本や世界の情勢に影響を及ぼすことも必至である。また特車2課の面々も何らかの処分は免れぬであろう。柘植の言葉を借りれば、「気付いた時にはいつも遅すぎるのさ」。

 私はむしろこの解釈の方が、柘植を神により近い存在と位置づけることになると考える。この場合の神とは、宗教的な存在ではなく、自然や災害といった本来の神の意義に近いものである。"TOKYOウォーズ" は手段ではなく目的そのものであった。その目的を完遂し状況を完成させた段階で、柘植はもはやただ東京を混乱させただけの存在、つまり災害に等しいものとみなすことができるのではないだろうか。歴史上、人間社会は大災害の度に進歩してきた。此度の "TOKYOウォーズ" という災害もまた、人類史を更新するには十分すぎるきっかけになっただろう。

最後に

 改めて劇パト2を見た上での補足とするつもりが、先の記事よりも長文となってしまった。それほどまでにこの作品は見る者を圧倒し、また思考させる。語りたいことはまだまだあるが、最後に4DXでの上映についての感想を述べて終わろうと思う。

 4DX版での劇パト2と聞いて、最初はあまり気は惹かれなかった。バトルシーンが少ないことはもちろん、極めて難解な内容を扱う本作で4DXのようなアトラクション要素はあまり向いていないのではと思ったのだ。だが結局のところ4DXであろうがなかろうが、この映画は一度見ただけでは理解が追い付かないというのが初見の友人と出した答えであった。

 もっとも、4DXによる恩恵もいくつか見受けられた。特にその長所が一番表れていたのは飛行船のガスのシーンだろう。墜落した飛行船からガスが噴き出すと客席にもスモッグが撒かれ、なおかつそれにはざらめのような少し甘い香りが付けられていた。これにはガスが無害であったことへの安堵を感じさせられたが、同時にガスが無毒だからってそう甘くはないぞと言われているような気にもなった。

 雪のシーンでは実際にスクリーンの前に雪を模した何らかの物質が振り落とされていたが、あれは映像の中の雪の描写に負けてしまっていた。またガスの他に爆発による煙や濃い霧のシーンでもやはりスモッグが撒かれたが、こちらは偶々白を基調とした色使いがされている場面が多かったので、スモッグが逆に影を作ってしまっていたことが惜しい点だった。

 とはいえ、リアルな戦争というテーマを扱ったこの作品において、よりリアルな劇場体験を観客に与える4DXを使ったことは意味のある試みであっただろう。劇中ほどではないにせよ、観客もまた4DXを通じて身体を拡張し、まぼろしの "TOKYOウォーズ" を体験したに他ならないのだから。

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