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社会人失格

恥の多い社会人生活を送ってきました。

 "社会人"という定義さえ曖昧な言葉。その言葉の内側に潜む隠れた圧力をとても気持ち悪く感じる。

 自分は経済的にも、環境的にも恵まれた学生時代をおくってきたと自認している。受験や部活など一般的な挫折や努力はしてきたが、圧倒的な理不尽の被害者になる機会はたしかに少なかった。それは偏に両親の愛情のおかげだったのだと、今頃になってようやっと気付くのだが。

 大学を卒業し大手建設会社に入社すると、これまでとは比べ物にならない理不尽が雪崩のように襲い掛かってきた。見知らぬ土地でプライベートのない寂れたタコ部屋に詰め込まれ、連日の長時間労働に休日出勤。半年も経たずに、ストレス起因と思われる椎間板ヘルニアによる入院。だいたい1年ごとに引っ越しを伴う転勤、新天地でも暴力やパワハラ、相も変らぬ長時間労働。限界がきた私はひっそりと会社からとんだ。給料は同世代の中では頭抜けていたし、若くして大きな現場の責任を任される機会も多くやりがいのある環境ではあったが、それどころではなかった。

 毎朝4時にトイレで吐き、ぼーっとした頭で現場の下請けの輩に怒鳴り散らされ、事務所に戻ると仕事の山と上司からの圧力、やっと家に着くのはいつも日付を跨いだ後。倦怠感と憂鬱、どこに向けていいか分からない怒りに挟まれて潰され続ける日々だった。

 心療内科に駆け込んだ日、会社から去る決意はできていたし、会社に対しても多大な迷惑をかけたので選択肢はないと思い込んでいた。大量に抱えていた仕事を投げて、会社用の携帯の電源を切り、FAXで診断書を送り付けた。しかしそれから2年経った今でも私は会社に居る。

 休職という形になったあと、突発的に退職するのも勿体ないとぼんやりと考え、正気を取り戻すのに3ヵ月今後を考えるのに1ヵ月を要し、会社と話し合うことに決めた。面談を繰り返した後、部署移動することを条件に復職する道を選んだ。

 それからは、会社としておかしいことありえないことに対し「No」を言えるようになった。偉い人であろうと、どれだけ続いてきた風習だろうと、利益や個人評価に直結しようと。めちゃくちゃに働いて壊れたことを"いい経験だった”なんてことは絶対に言わないが"会社は守ってくれない"こと"会社と雇用者は対等であるべき”ことを身をもって実感した。

 私達を苦しめるもののひとつが巷にとびかう”社会人”という言葉だと考える。ニュアンス的に学生を卒業した正社員に対して使われている。とても気持ち悪い、子供だってニートだって専業主婦だって立派に社会のなかに組み込まれているし、社会活動をしてると思うのだが。正確な定義もなくふわっとしている言葉だからこそ、広く暗く圧し掛かってくる。世間や権力側が求める都合の良い理想像といった印象をこの言葉には抱かせる。そんなくだらないものの為に自分の人生の大切な時間を費やして叶えてやる筋合いは全くない。

 会社に利益をもたらせるように、自分に与えられた役割を考え工夫し遂行する、そして報酬を受け取る。それ以上でも以下でもないと考えるようになって逆に会社ともうまく付き合えるようになり、結果として居場所も見つけることができた。自分の時間も増え、読書したり色んなことを考えたりできる余裕もできた。収入は少し減ったが、確実に生活は豊かになった。

 春、今年も多くの人が新しく会社に所属することになる。社会人になる!なんて変な気負いはせずに、これまでの人生の延長だと思って気楽に自分を大切に、腐敗した現代日本をしたたかに生き抜いて欲しい。それと社会人なんて変な言葉は早急に廃れてほしい。

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