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ドストエフスキーのこと

 ロシアの大作家と言えば、トルストイとドストエフスキーである。偉大である。が、私はトルストイを読了したことがない。「戦争と平和」は上巻の半分くらいで挫折した。「アンナ・カレーニナ」は最初の床屋のとこで挫折した。ほんの十数ページである。私は戦争も不倫も興味なかったのである。
 ドストエフスキーは面白かった。「罪と罰」「カラマゾフの兄弟」「悪霊」「白痴」「虐げられし人々」は読んだ。「地下室の手記」は、嫌いな奴が先に読んで自慢したので、今だに読んでない。
 なぜドストエフスキーは読めるかと言うと、女々しいからである。なにしろ登場人物がよく喋る。こんなに喋ったら、明日は喉、からっからだろう、と突っ込めるくらいよく喋る。自分をわかって欲しいのである。そこが女々しい。日本のように沈黙を金とする文化はロシアにはない。もっとまとめてから喋れ、と思わず言いたくなる。が、その"自分をわかって欲しくてお喋りが止まりません"という女々しさが、実は私は好きなのである。その諦めの悪さが愛しい。"大審問官"など、神の問題をイワン(だっけ?)が語るのだが、まぁ、延々と語る。延々延々と語る。延々延々延々と語る。西欧の神様は難解だ。日本の神さんなんかは、教典がないから、手を叩いてお辞儀して終わりである。さばさばしてて誠に潔い。潔いが私には物足りない。女々しくて、小さいことに拘り、嫉妬深く、執念深く、すぐ損得勘定でものを考え、自己中で、意地汚く、諦めの悪い私としては、ドストエフスキーは身につまされる。自分の農地を分け与え、駅で凍死しちゃうような立派なトルストイと比べて、てんかんもちで賭博狂、小説書くのも金のため。おまけに後先考えずに社会主義サークルに入ってまって(しかも、空想社会主義!)、シベリアで殺されかけちゃうドストエフスキーに親近感が湧くのである。
 あと、関係ないかもだけど、ロシア小説がなぜ長いか考えてみた。当時の有産階級は、とにかく暇である。テレビもラジオもレコードも、勿論インターネットもない。働かないから毎日毎日暇で仕方ない。いかに時間を潰すか、定年後の金に苦労しない老後みたいなもんである。だから、長いひたすらくどい小説が好まれたのではなかろうか。違うか。

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