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創作とほほ日記2

勿論、偉い作家さんが、何稿も自作を書き直すことは知っている。かの大江健三郎氏は4稿か5稿くらい書いて、書くたびに難解な文書になっていくらしい。恐ろしいことである。
そういう偉い作家さんのと、私のは根本違うのである。私の場合、究極の行き当たりばったりなのだ。極端なところ、主人公が歩き始めるまで、どこへ行くかわからない。誰と会うのかもわからない。酷いものである。

どうしてこうなのか。つらつら考えてみる。最初からそういう書き方だったのか。
ーーそうだった。
若い時は小説を書く仲間もいた。(今はいないが。)毎月小説の合評会があって、出された小説の良い点や悪い点を指摘し合う。はずなのだが、みんな悪口しか言わなかった。良いところも少しはあるから褒めればいいのに、みんな悪口しか言わない。勿論、私も悪口しか言わない。嫌になって、みんな書かなくなるはずである。

悪口は気持ちいいのである。高みに立って、僕は君よりわかってるんだよ、ふふん、てな気持ちになれる。今考えると、お恥ずかしい限りだ。
ま、そんなことはどうでもいい。要するに、その頃は、プロットほぼなしで書いていたということが言いたいのである。毎月出すんだから、2、30枚がせいぜいである。短いから、プロットは要らなかったのだ。細かい設定も要らなかった。
じゃ、それならスラスラ書けたかというと、それがぜんぜん書けない。何より困ったのが、題材である。いったい何を書けばいい?! 書くことがないのだ。とほほ。

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