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【短編小説】母、逃げる


「サッちゃん。ちょっと」
 振り返ると、人混みの中にしのぶさんが立っていた。今日は祭りなんで神社の白い半被を着ている。
「あ。こんばんは」
 しのぶさんは、うちのお母さんの親戚だ。姪とかいってたっけ。この神社に嫁に入った。お母さんが出て行ってから、親戚同士はなんとなく疎遠になっていったけど、しのぶさんだけは、今も何かと私を気にかけてくれている。
「ちよっと、いいかな」
 しのぶさんがまた言う。側に立っている友達四人を見る。今日のお祭りは、皆んなで浴衣にしようと決めていた。十月の初めなんで、まだいけた。
「ごめん。ちょっと外れてもええ?」
 声をかけると、
「ええよぉ。適当にこの辺におるから」
 裕子ちゃんが、そう答えて、他のみんなは小さく手をふる。周りには露天がたくさん立っていて、皆んなの関心は既にそっちにあるらしい。早くもやっちゃんの目は、りんご飴に吸い寄せられている。
 じゃあ、また後でね、としのぶさんについて行く。人混みをぬって歩きながら、しのぶさんが何か言う。夜店の喧騒でよく聞こえない。ただ、"お母さん"という言葉だけが耳に残って、足がすくんだ。
「お母さん?」訊き返すと、
「そう。サッちゃんのお母さん」としのぶさんは笑っている。
「帰って来ちょるんよ」
 寒くもないのに、ゾワっと、足元から鳥肌が走った。
「うそ」
「ほんと」
 手にした団扇を落としそうになる。しっかり握り直して、しのぶさんにわからないように深呼吸した。ここで、取り乱す訳にはいかない。ずっと待ってたんだから。そうだ。この日を待ってたから。
「びっくりした?」
 頷く。
「サッちゃん、幾つだった? お母さん、いなくなったとき」
「十年前だから、五つ。くらいかな」
「覚えてる?」
 勿論覚えている、あの母の笑顔は。いや、でも、覚えているかな? 真っ先に浮かぶ顔は、箪笥の上にある写真の顔で、写真じゃない母の顔を思い出そうとしても、思い出せない。写真は、川沿いのイチョウの木の下でお母さんと撮った。それは覚えている。いや、本当に覚えているんだろうか。写真を見て、そんな記憶があったように思ってるだけかもしれない。
 声。声は。匂いは。手を引かれた思い出は。一緒に寝た布団の温もりは。覚えている。いいえ。覚えてない。どっちだ。わかんない。
「わかんない」
「そうか。わかんないか。そうだよね。五つじゃねえ」
 ちょっと落ち着いてきた。動揺は悟られてないと思う。
「サッちゃんに会いたいんだって」
 急だなあ、と思う。自分だけの都合じゃん。心に浮かぶ憎まれ口を頼もしく思う。そうだ、幸子、負けんな。て、何と争ってんだ、私。
「ね。会ってあげてくれないかな。せっかく会いに来てくれたんだし。家には、やっぱり行きづらいみたいでさ」
 歩を進める。しのぶさんも歩き出す。
「社務所前のテントで待ってもらってる」
 本殿を過ぎて、舞殿まで来た。この辺にはもう露天は並んでいない。後で神楽を舞台でやるから、地面をあけて、人が集まれるようにしてるんだろう。舞台正面を過ぎて左に曲がると社務所があって、その前には多分テントが張ってある。毎年、地域の爺さんたちが、そこで酒を飲んでいる。曲がるまで、あと五メートルはある。その間に気持ちを整えなきゃ。
 しのぶさんの顔を見上げる。私たちは並んで歩いていた。しのぶさんの表情には微塵も疑いの気持ちはない。ちょっとびっくりさせちゃったけど、母親と会えるのは嬉しいよね、そう確信してる感じだ。
「お人よしか」
 心の声が表に出た。
「えっ?何か言った?」
「いえ」
 五メートルなんてすぐだった。曲がると、社務所の玄関に女の人が立っているのが見えた。反射的に、チラッと後ろを向く。誰にも見られたくない。そう思っていたのに、数メートル後ろの人陰に、漫画馬鹿の男子を見つけた。山本。あいつ、つけてきやがった。
 山本とは、さっき神社の階段下で会った。井田と待ち合わせたとか言っておったが、井田は来ず、さっき私らの後から階段を登ってきた。なぜ、私をつける?まあ、私に惚れちょるあいつなら余計なことは皆んなに言わんじゃろうけど、グーパン確定じゃの。覚悟せいよ、山本。
 山本のことは一瞬で忘れて、前を見る。毎日写真で見る女が、ちょっとおばさんになって、化粧臭い顔して立っていた。

 十年前、女は男と逃げた。男はうちの電器屋の店員だった。二十歳くらいだったという。私はそいつのことをひとつも覚えてない。ただ、今、うちに二十歳前の店員がいて、大体の感じは分かる。その店員さんには申し訳ないが、私はなんとなくその店員に強く当たってしまう。
「サッちゃん。しばらく」
 いつのまにか、女の前まで歩いてて、いつのまにか女に声をかけられていた。
「大きゅうなったねえ」
 やばい。声が出ない。なんと言っていいか、わからない。
「サッちゃん、どうしたん。お母さんじゃよ」
 しのぶさんが横から声をかけてくる。
「お母ちゃん。こんにちは」
とりあえず、そう言った。
「あ、ああ。こんにちは」
 嬉しそうな声が返ってくる。なんか違う。なんか違うぞ。
「お父ちゃんには会いましたか」
 あ、声が固くなっている。でも、言いたかったこと。これから、言う。
「いや、会ってはおらんが、会わんといけん?」
「会ってやってください。これから、一緒に行きますか」
「いや、それは、その」
「会ってもらえませんか」
 困ったように、女はしのぶさんを見る。まさか、最初にそう言われるとは。予想外であったらしい。しのぶさんは取り繕おうとする。
「お父ちゃんところ行くにしても、なあ、せっかく親子で会えたんじゃから、ちょっとここで話しときよ。社務所、入ろうか」
「私は、ここでええです」
「サッちゃん、怒っとるの?」
「怒ってないです。お母ちゃんと会うたら、まず言おうと思うちょったことを言いよるまでです」
 女を、見た。ずっと困ったような顔でいる。
「もう離婚しちょるし。会うのは気が重いのう。何言われるか分からんし」
 お腹の下の方に、重い怒りの気持ちがわく。それを抑え抑えして、続けた。
「お父ちゃんは、そんな人ではありません」
「え?」
 女は驚いた顔をする。
「でも、会うてみんと分からんじゃろう」
「お父ちゃんは、理由もなく人を悪く言う人じゃありません。無闇に人を責めたり困らせたりする人じゃありません」
 説得する。絶対、する。
「そ、そうかあ?」
「そうです。父ちゃんは口下手で、面白みがなくて、真面目ばっかりの人です。仕事ばっかりして、要領が悪くて、愛想笑いもようせんような人です。私もどっか連れてってもらったり、親子で笑いあったり、そんなん今までないです」
「かわいそうに。苦労したんじゃなぁ」
 伝わらない。まるでトンチンカンだ。だけど、ここで怒っちゃいけない。冷静に。冷静に。
 しかし、どうなんだろう。この人をお父さんに会わせて、本当にいいのか。でもーー。
「たぶん、お父ちゃんは今でもお母ちゃんのことが好きです」
 決めるのは、お父さんだ。お父さんの中では、何もかも宙ぶらりんだ。それを毎日見てて、辛かった。どうなるにしても、お父さんに、区切りをつけて欲しかった。このまま、ずっと宙ぶらりんで、このまま生きてってほしくなかった。
 もう、もう頭を下げるしかない。それしか、私にはできない。お願いするしか。

 昔から私は明子叔母さんのことを明子姉ちゃんと呼んだ。若くて綺麗だったからだ。私は彼女に懐いて、よく遊んでもらった。
 その明子姉ちゃんが幸子から父親に会ってくれと頼まれている。十年前、二人は夫婦だった。明子姉ちゃんが従業員の男の子を連れて駆け落ちして、その後、離婚届を送りつけた。まあ、明子姉ちゃんのやったことに弁明の余地はない。男の子とは直ぐに別れたという。
 その明子姉ちゃんに、幸子はお父さんと会ってくれ、と頼んでいる。頭まで下げて。
 なんでも、最近、お父さんが離婚のいきさつを喋ったそうな。

ーーそんなに若いもんがええなら、とっとと出てけ。

 直接のきっかけはその言葉か。従業員との浮気、バレてたいうことか。まあ、出て行くか。そうするしかないか。何となく知ってはいたが、幸子ちゃんの口から聞くと生々しい。
 だが、追い出した癖に、旦那は明子姉ちゃんのことをまだ待ってるらしい。まだ好きらしい。それがわかって、幸子は頭を下げているのだ。それって、どうなんだろう。
「どうか、戻ってきてください。それが無理なら、いっぺんお父さんに会ってください」
 そりゃ、明子姉ちゃんも困るじゃろ。現に、困りきった顔をしていた。親子は他人になれんが、夫婦は離婚すれば他人になれる。今更、会えとかよりを戻せとか無理筋じゃないか。
「会うのは、会うのはええけどな。戻るんは、勘弁な」明子姉ちゃんは言った。「もう好き勝手に生き過ぎたわ。じゃから、戻るんは勘弁。それでもええか」
 まあ、幸子を傷つけない、精一杯の答えだろう。しかし、本当に会うのか。会えるのか。たぶん中学生の幸子は、会ったその先のことは考えてない。戻ってきてくれ、とか簡単に言う。まさか私も、こんな展開になるとは思わなかった。
 私はあくまでも善意の第三者で、母子の対面のお膳立てだけして、中には入らないつもりでいた。互いに思うところはあるだろうが、会って、ああ懐かしい顔見たかった元気でしてる元気にしてね心配ないからじゃあね、でよかった。もしくは泣いて泣いてお互い謝って後ろ髪引かれるくらいで別れて、それぞれが再会をいい思い出にしてくれたら。て、思ってた私が甘かったんだろう。でも、まあ、これも仕方ないか。会わすことは間違いなかったろう。そう思いたい。だって親子なんだから。それこそ、私が入っていく余地はない。
 明子姉ちゃんは、頭下げている幸子の肩に手を置いた。明子姉ちゃん、腹をくくったか。
 その時、人混みが揺れた。
 喧嘩だ! 喧嘩だ!
 伊三郎とヨッちゃんがとうとうやりよるど!
 やっぱりか、ヨッちゃん頑張れ! 伊三郎も負けんなよお!
 たけりながら喧嘩の野次馬に走る若い衆と、その場から逃げようとする親子連れ。女の子たち。幸子と明子姉ちゃんも、あっと言う間に人混みに消えた。テントの中で、すっ転ばされて、ひっくり返った男の子がいた。幸子の通う中学校の制服を着ている。人混みが落ち着いてみると、幸子も明子姉ちゃんも煙のように消えていた。
 私は駆け寄って男の子の右腕を掴む。
「あんた、幸子知っちょる?」
「幸子? 電器屋のか」
「そうじゃ」
「お、おう。と、友達じゃ」
「なら、頼む。私はこの場を離れられん」
 自分は神社の人間だ。この後、娘の神楽舞もある。
「今、幸子とお母さんがおらんようなった。探してもらえる? 探して!」
「え、なんでわしが?」
「何でもええから、幸子を追って。追って!」
「追いついて、どうすんじゃ」
「そんなん知らん! とにかく追って!」

 慌てて、社務所裏の坂道を駆け降りる。裏から降りるんなら、この道しかない。小走りに先を急ぐ人の群れがあって、なかなか進めん。ごめん、先いかして、と叫びながら、人混みをすり抜け、犬を蹴飛ばし、アベックの間に割り込み、人の何倍も速く走った。そしてようやく、坂を降りきったところで、幸子に追いついた。浴衣で、つっかけで、それでも懸命に走りよる。
「サッちゃん」
 並走して、声をかける。振り返った顔は青かった。
「山本! 母ちゃんが、母ちゃんが」
 焦っちょる。
「わかった、追いかける。もう走るのはやめい。もうお前じゃ追いつかん」
「じゃけど」
「わしに任せい!」
「多分、駅じゃ」
 幸子が走るのをやめる。
「了解じゃ、家で待っちょれ!」
 言い置いて、再び全力疾走する。まだ、わしならまだ間に合う。大人の癖に逃げるとか、信じられんわ! 
 山田川沿いに、道を駆け降りて、一丁目にさしかかる。ところで大通りを避けて路地に入る。駅行くんなら、こっちが近道じゃ。焼杉の汚い板塀が続く。十メートル駆けたところで、板塀に寄りかかって、息を整えている幸子の母ちゃんを見つけた。
 わしを見て、にっこり笑う。
「あら、昼間に会ったお兄ちゃん。よく会うね」

「じゃ、もう幸子は追いかけてこんのね」
「しんどい。おばさん脚力半端ねえど」
 膝に手を当てて、こっちも息を整える。こんなおばちゃん、呆れるわ。
「あんたが勝手に追いかけてきたんじゃろ。責任ないわ。あ。思い出した。そういえば、あたし中学校の時、3年間長距離走一位じゃったわ。凄いじゃろ」
 幸子が追ってこないことを知って、おばちゃんはすっかりリラックスしていた。
「おばちゃん。ええ大人のくせして、なんで逃げる?」
「なんじゃ、長距離走には食いつかんのか」
「興味ないわ。そうじゃなくて、なんで逃げるんか訊きよる」
「お兄ちゃんこそ、なんで追いかけてくる?」
「そりゃ、なんじゃろな。
おお、神社のお姉ちゃんに頼まれたけえ」
「なんでしのぶがお姉ちゃんで、あたしがおばちゃんじゃ」
「そんなん知らん。口から勝手にでた。拘るとこが違おうがぁ」
「ええから、逃がせよ」
「そりゃ、ならん。幸子の家、行こ」
「行くわけなかろうが」
 おばさんは歩き出す。ハンドバックを肩に背負って、鼻歌混じりだ。幸子は家で待てとか言わねばよかった。力ずくで連れてくか。いや、あの脚力からして、多分わしは返り討ちじゃ。じゃが、なんとか足止めせねば。
「駅、行くんか。電車はすぐに出んぞ」
「なら、隣町までタクシーに乗るわ」
「どうしても逃げるんか」
「あんたにゃ関係なかろうが」
 駅に行くことは、必然木村電器店に近づくことになる。駅前の通りの二本目の十字路を曲がった奥に電器店はあった。まだ、幸子は家についてない。わしはおばさんを追い抜いて、電器店に走った。おおよそわしのやることがわかったのであろう、おばさんが後ろからたける。
「もう走るのはやめいよー。あの人に言うてもなー、会いには来んよぉー」
 歌うようにわしに呼びかける。知るか。わしはわしのやるべきことをやるまでじゃ。

 やっぱり電車で行くことにする。駅舎で時刻表を見たら、あと30分もすれば来る。よう考えてみたらタクシーなんぞ、なんであたしがいらん金を払わねばならん。何を言われても、電車に乗ったら勝ちじゃ。切符も買ったしの。しかし、まあ、別れた旦那に会え、とは恐れ入った。浮気して逃げた母親なぞ、憎みこそすれ、魂胆なしで喜んで会うなどやっぱりありえんか。しかし所詮、中学生じゃ。考えが浅い。ああ、いかん、錆びたわ。ずっと自分勝手に生きてきたんで、人の心がわからんようになっとる。駅のこの木のベンチの座り心地の悪いの。尻が痛いわ。
 元々、幸子に会おう思うてここに来たのではない。飲み代付けにして、そのまま転勤しくさった腐れ外道の借金取り立てに、近くまで来ただけだった。腐れ外道の方は、まさか家まで来るとは思わんかったらしいが、しっかり詰めて、交通費まで出させた。借金も迷惑料じゃちうて二割積み増しで請求した。最初渋りおったが、会社行くか、それとも出るとこ出るかと、ちょいと凄んだら、苦もなく全額払うた。まこと、みみっちい男じゃった。じゃから幸子はついでじゃった。あまりに素直に払うたんで、時間が余った。で、よせばいいのに里心がわいて、ここまで足を伸ばしてしもうたちうことじゃ。そう、最初から、ここに来なんだと思えばええ。あたしは東京の外れのスナックの雇われホステス。あの人は地方のさびれた電器屋のオヤジ。娘は、世間をまだ何もわからんおぼこ娘。ああ、兄貴もおったか。しのぶの話じゃと、今、大学生とか。まあ、それぞれ皆んな、よろしゅうおやり。そうやって生きてきたんじゃろ。それなら、そのまま生きりゃええ。あたしは消えるわ。
 駅舎の周りは墨色に暮れていた。もう二度と、この駅には降りんじゃろうな。さいなら。元気でな。
 駅舎の時計を見上げる。7時35分。また、何気に外を見る。
 そこに人影があった。
「やっぱり、会わんと逃げるんか。薄情もんじゃの!」
 あら、さっきのお兄ちゃん。一人で駅舎にやってきたんか。後ろを透かして見る。やっぱりさっきの中学生の僕ひとり。僕ちゃんだけか。ほっとくと、ズンズン近寄ってくる。
「おばちゃん。今、ちょろっと期待したな」
 意外なことを言う。
「なにが?」
「幸子ちゃんか、旦那さんか、来ると思うちょったろ」
 ぎくりとさせるクソガキだ。ま、まぁ、ちょっとは期待したかも知れんが。
「まあね」
 あれ? 我ながら素直なのに驚く。なら、何で逃げたって話だ。
 中学生は、私の座ってるベンチの向かいに腰を下ろした。
「電器屋に行った。旦那さんに、いきさつを話した。幸子はまだ帰っておらなんだ。旦那さんはここに来るのを渋りおる」
 そうならせいせいした。しかし、この坊主。そんなことを言うためにここまで来たのか。
「ご苦労さんじゃったの。あたしは悪い女じゃけえ、このまま電車に乗っておらんようなるわ。電器屋のオヤジと幸子ちゃんには駅にはおらなんだと言うて。したら、あんたの顔も立つじゃろう。おおかたタクシーに乗ったんじゃろとか言うとき」
 鞄をまさぐって煙草をだす。二、三服吸っても、坊主は帰らん。
「なにか。まだ用か」
 時計を見上げる。7時40分。あと、20分で電車は来る。
「おばちゃん。もいっぺん訊いてええか」
「なんじゃ面倒くさい。兄ちゃんに関係なかろう。こっちの問題じゃ」
 足を組んで、もう一服する。坊主は帰らない。イラつくやつ。
「幸子もオヤジも来んのに、なんでお前がなんぼでもここにおる?」
「わしは、神社の若奥さんに頼まれた」
 今度は若奥さんときたか。
「なんて」
「追いかけてって」
「追いかけて、どうせいちゅうたんか」
「それは知らん。とにかく追いかけろちて言われた」
「しのぶもたいがいじゃの。坊主も気の毒じゃったの。じゃから、もうええから家に帰れ」
「帰らん。わしは、わしの、せねばならんことを、する」
「せねばならんこと? 何、言いよるんか。あほか」

 電器屋に駆け込んだ。シャッターを下ろしてた親父さんの横に転がり込んで、下から見上げる。
「なんじゃ、お前」
 驚いた困惑顔で、親父さんはわしを見下ろす。
「サ、サッちゃん、の同級生の山、本言います」
 ゼーゼーしながら、やっと言う。
「なんか。店は終いじゃぞ。蛍光灯でも切れたんか」
「な、なんが蛍光灯じゃー!この一大事に!」
 大声になった。わしの勢いに驚いた親父さんが一歩下がる。
「なんじゃ、お前」
「幸子の母ちゃんが、今、来ちょる」
 えっ、と親父さんは、ニ歩下がった。
「お前、ええ加減なこと」
「ええかげんじゃないぞ。さっき氏神さんで幸子と会うた。間違いない。側にわしもおった」
「そうか」
 目が泳いどる。
「したら喧嘩がはじまっての」
「そうか」
「どさくさに紛れて、母ちゃんが、逃げた」
「そうか」
「今、駅に向かいよる」
「そうか」
「もー、ええ加減にせえよ!クソ親父! なんで赤の他人のわしが、こんなに走らねばならんのじゃ! たいがいにせえ!」
「そうか」

「走らせて、悪かったの」
 親父さんはわしを椅子に座らせて水をくれた。生き返る。うまい水じゃ。
「電車は何時に出るのか」
 親父さんは柱時計を見て、今からなら8時かの、と言う。針は7時30分を指していた。ここからなら駅まで急げは5分かかるまい。
「駅にはいかんよ」
 わしの言いたいことが分かったように親父さんが言う。
「もう離婚しちょるけえの。子供の幸子にゃあ分かるまいが、もう他人じゃからの。まあ、幸子が会えたんなら、それはええことじゃった」
「ええわけなかろうが。こんな別れ方で」
「まあな。じゃがそれでも、生きておる母親と話せたのは、よかった」
「そんなもん」
「来てもろうて悪いが、何度でも言うが、俺は駅には行かれんよ」
「なんでじゃ。親父さんが"出てけ"ちて言うたからか」
 親父さんの表情が固まる。
「そうじゃ。あれを追い出したのは俺じゃ」
「しのごの言うな。わしは先に駅に行く。タクシーに乗られたら終いじゃからな。親父さん、頼むど。後から来てな。頼んだ。あと30分じゃ。30分しかないからの!」
 言うにや及ぶ。またわしは駆け出した。走れ山本。まだ、まだ時はある。

「あと15分じゃ。もう諦めえよ」
 おばちゃんが言う。駅舎から外を透かして見るが、駅前の定食屋の明かりが灯っているだけだ。いつもは全く気にならんが、時計の音がやけに耳につく。待合室にはわしら以外は誰もおらん。駅員室にも、誰も見えん。奥に引っ込んじょるんじゃろう。
「のう、おばちゃん、訊きたいことがあるんじゃが」
「なんか」
「なして、逃げたん?」
「またか」
 こっちは見ずに、ハンドバックの紐をくちゆくちゆいじっている。
「ああ、乱暴に扱うたから、ここ破れたわ」
「おばちゃん。聞いちょる? なんで逃げたちて訊いちょるんじゃ」
「直るかの。気にいっちょたんじゃけどなぁ」
「おばちゃん!」
「あ、ああ。なんて?」
「じゃから、な、ん、で、に、げ、た、か」
 ようやく諦めたか、紐から手を離す。
「あたしも我慢しちょったんよ。ギリギリまで。ちゅうか、危うく幸子の口車に乗りそうになった。見ちょったろ。したら、喧嘩じゃ。あれで目が覚めた。危ない危ない」
 聞き耳たてて隠れちよったことがバレちょる。やっぱり幸子の母ちゃんじゃ、油断ならん。
「あの子は別にあたしを恋しいわけじゃない」
 また、何を言い出すやら。そんなわけあるか、と口にしようとした時、おばちゃんが続けて言った。
「本当かどうかわからんが、お父ちゃんがあたしにまだ気があるんで、会わそうとしてるだけじゃ。会え会え言うて頭まで下げて、全部お父ちゃんのためじゃろう。そんなん乗れんわ。だいたい出てけ言うたのは、あの人じゃ」
「幸子は別におばちゃんのこと憎んどらんど。確かじゃ。直接聞いたんじゃから」
「へえ、お兄ちゃん、幸子と仲がええんじゃな」
 ニヤニヤして、こっちの顔を覗き込む。
「そんなんとち」
「ちがわんじゃろ。顔に出ておるわ」
 ハハと笑っておばちゃんが続ける。
「憎むもない。恋しいもない。あたしがおらんようになったのは、幸子が四つか五つのころじゃ。あたしの記憶なんぞあるもんか。あの子にはあたしがおらん生活が普通じゃろ。そんな知りもせんやつを憎んだり好きになったりできるか」
「そんな。母ちゃんがおらんで、いろいろ困ったことがあったやも知れん」
「そりゃあるじゃろ。母ちゃんが居ればなあ、いうて思うたこともあろうが、その母ちゃんはあたしじゃない。そこはすまんと思うが、幸子が勝手に作った母ちゃんに当てはめられても迷惑じゃ」
「じゃから逃げたんか」
「そうじゃ。悪いじゃろ。兄ちゃんも気をつけえよ。変な女なぞたんとおるわ。幸子じゃって、一皮剥けば」
「おばちゃん!」
「ああ、悪い悪い。幸子は違うたわ。多分の」
 これはダメじゃ。そう思うた時、駅員室から駅員が出てきて改札に立った。10分前じゃ。
 よっこいせ、とおばちゃんは立ち上がり、改札に向かう。振り返らず手を振って、
「さいなら。兄ちゃんも、お元気で」
と言った。

「嘘でもええんじゃ」
 声がした、幸子の。幸子が来ちょる。
 浴衣は着崩れて、足は泥だらけじゃ。つっかけで走って、さぞしんどかったろう。肩で息しよる。うちわは捨てずに手に持っておった。身体中が茹だっておるから、捨てられんかったんじゃろう。
「嘘でもええから、父ちゃんに会うて」
「いやじゃ。幸子、あたしのことは忘れいよ」
 おばちゃんは足を止めて、こっちを向いていた。
「お母ちゃん。何のために帰ってきたんじゃ。私やらお父ちゃんやら傷つけるためか」
 うーん、と考える風情でおばちゃんは天井を見る。わしも見る。汚い天井じゃ。
「まあ、それは悪かったの。まさかお前が父ちゃんと会えとか言い出すとは思わんかった。ちょっと親子ごっこがしたかったんかもな。仕事がうまくいって時間が余ったんで、魔が刺した」
「なら、最後まで"ごっこ"せえよ。人の心乱しといて、責任取れよ」
 言われて、おばちゃんはニヤニヤする。なんだか嬉しそうじゃ。
「幸子。言うのお。さすがあたしの子じゃ」とわしを見る。「兄ちゃん。こいつ、なかなかのじゃじゃ馬じゃぞ。気いつけい」
 な、なんでわしに振る。
「父ちゃんと会え!」
「嫌じゃ」
 間も無く電車が参ります、とアナウンスが流れる。
 時計を見る。3分前じゃ。
「お客さん。乗るんなら、早よして」
と駅員が言う。
 幸子とおばちゃんが揃って駅員を見て、
「うるさいわ!」
と声を荒げた。

「もう、こうなったらしゃあないから言うがの。悪いが、あたし、あんたのお父ちゃん嫌いなんじゃ。好きにも理屈はなかろうが、嫌いも理由なんてありゃあせん。嫌いな男を好きなふりできるか。お前のお父ちゃんにも失礼じゃ」
「結婚したんじゃろ。私とお兄ちゃん、産んだんじゃろ」
「産んだわ。苦労しての。特にお前は大難産じゃ。ただで生まれたと思うな」
 あれ、なんか声が。
「産んだだけで、偉そうにすんな、馬鹿」
 あれれ、幸子も。二人とも、二人とも涙声じゃ。
「ああ、大馬鹿じゃ。十年もほったらかしにしといて、娘の顔が一目見たいちゅう大馬鹿もんじゃ」
「二度と来んな。お母ちゃんがおらんでも、立派な大人になっちゃらあ」
「せいぜい頑張り。じゃあの。二度と来んわ」
 言って、改札に駆け込んだ。切符を切ってもらうと同時に、ホームに電車が入る。おばちゃんは、こっちを振り返らなかった。電車に乗り込むと、向こう側の席に腰を下ろして見えなくなった。
「二度と来んな! 絶対来んなよ! お母ちゃんの馬鹿タレがあ!」
 たまげるような大声で幸子がたけった。駅員が目を丸くして幸子を見よる。
 電車がいごく。それがホームからおらんようになるまで、幸子もいごかんで立っておった。
           了

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