【夜が明けるまで話していたい】
昨夜。
ぼくは原宿の「SEE MORE GLASS」というステキなステキな喫茶店に行き、詩人である白井明大さんの新刊「希望はいつも当たり前の言葉で語られる」(草思社刊)、出版記念イベントにお邪魔してきた。装画を手がけられたカシワイさんとの対談形式のトークイベントであり、言葉についてゆっくりじっくり考える、贅沢な時間に浸ったのだ。
(勝手に貼っつけていいのかな。ダメだったら、ごめんなさい。)
希望かぁ。と。
希望ってなんだろうなぁ。と、対談を聞きながらも、頭の半分で考えていた。そういえば「希望」という言葉についてゆっくり考えたことなかったなぁ。
希望は、常に未来だ。うむ。
希望を、過去に見ることはない。ように思う。
また、なんとなーく、ぼんやりと、光のイメージ。
ぼくはひとつ思う。
「希望」が出現するとき、語る(もしくは受け取る)人の置かれた現状は、苦しい時だとか、辛い時なんじゃないか。だとしたら、「希望」が出現すること自体が、喜ばしいとは言えない状態なのではないか。「希望」って、ポジティブなようで、実はコワいワードかもしれない。
(白井さんは、「希望」を、わざとらしく美化していない。かと言ってニヒルでもいなく、言葉それ自体とまっすぐ向き合っているような印象を受けました。)
ぼくはひとつ疑問を抱く。
希望と抱き合わせの言葉は、絶望だろうか?
望みが絶えるってことなら、希望の原点には絶望がいるかもしれない。ただ、ぼくは、「飢餓感」を希望と抱き合わせてもいいのではないか、とも思う。
いま、満たされない感覚。その感覚と抱き合わせることができれば、ぼくは限りない幸福の最中の、あの極上の寂しさにも、「希望」を登場させられることができると思ったのだ。
まぁ、しかし、ただ、そう考えられれば、いい。考えられれば。。「希望」の重量は、重いようで軽いようで、やっぱり重いような気が、どうもする。だから、やっぱり、絶望なのかなぁ。。
いろんなことを考えさせられて、ぼくは本当に参加して良かったと思っている。
白井さんがこの本を作るきっかけとなったのは、白井さんが書いた新聞の連載から、なんだとか。「贈られた言葉たち」という、記憶に残る言葉についてのエッセイ(?)らしい。
記憶に残る言葉と聞いて、ぼくがこれまで、人と交換をしてきた数多の言葉の中で、確かに記憶として残っているものは、本当に数少ないことを思い出す。
言葉を収納しておくスペースって、どれだけ小さいのだろうか。
課金すれば広くなるとか、そういうことないのかな。まぁ、ないね。なくてもいいか。
ただ、その狭い狭いスペースの中で、ずっと居座り続ける言葉たちというのが、確かにいて、そいつらはぼくを、今でもガツンと突き動かす。誰に、どんな場面、どんな場所で、言われたのか、はっきりと思い出せる言葉たち。
これは、逆もしかりで、ぼくが誰かに言ったことで、相手をひどく傷つけてしまったものも、ぼくの中にしっかりと根を張っている。
昨夜のイベントの中で、「言葉の凶暴性とどう向き合うか」という話題があったけれど、ぼくは、そうやって残った言葉を、ずっと胸に抱えて生きていくことでしか、責任はとれないんじゃないかな、と思う。
なんだか、だいぶ散らかってきちゃった。
こうやって、Enterをいっぱい押すと、余白が増えて、画面キレイ。
そういうことではないですね。
イベントに行って、こうやって書けることや、恐らく言葉にならないものも、たくさん感じてきたと思います。
いろんな言葉を、不思議がってみるのは、楽しい。
それを、誰かと、ゆっくりゆっくり、話せたらもっと幸せだろう。
改めて、「絶望」についても、話していたい。
「希望」を敢えて語ることは、勇気だな、と思った。
誤解を恐れずに書くと、「希望」の中には、カッコよさとダサさが共存している。そこがいい。「希望」を語る人の、そこが好きだ。
ぼくは白井さんをはじめ、そういう人を応援したいし、近くにいたい。
読んでくれてありがとう。
※トップ画に稲垣純也さんの写真をお借りしました。ありがとうございます。