国語探究研究会

3月22日、書写教育のあり方について再整理されたプレゼンを拝聴し、実際に現場でどのような国語の授業がなされているかについて実態をプレゼンしていただきました。

字を書くということはどういうことかについて深く考えることができました。

キーワードは中学校の指導事項にある「効果的に書く」かと感じました。
「効果的に書く」とは、伝えることと表現することと定義されています。そこには相手意識、書く目的が必ずついていると思いました。どのような効果を与えたいかも大事かなと。例えば「うれしくさせる」効果、怒らせる効果、悲しませる効果、楽しませる効果など。場面に応じた効果が設定されるのかなと思いました。
そのためには基礎的な技術、たとえば楷書の形を覚えているもしくはある程度正確に写せていることが大切です。型があって崩す。文字は伝わることも大事と思います。

字を書いて喜ばれるためには、相手を意識して書くことが必要になります。
字を書いて満足するのでよければ、自分で感じられればいいことになります。または自分の感性に共感してくれる人にわかってもらえればいい。

喜ばれる字は、評価からでるかもしれない。満足する字は自分だけでいい。
芸術には二つの側面があることに気づきました。
書道は書写に留まらない領域で他者には評価不能です。

私は自分の字があまり好きではありません。喜ばれる字でなくても、自分の字を自分では好きになっていてもよかったのになと思います。
今回のお話を聞き、討論を拝聴する中で、評価、正解主義が自分の字に自信を持てなくなる要素なのだと思いました。やはりダメなんだろうなと思いました。

評価から離れた活動になればいいなぁと思います。

次の小学校6年生の授業の実践報告を聞かせていただきました。

指導書にある内容を忠実にやっていらっしゃる授業だなぁと感じました。
主体的な学びと言うよりは教師が用意した解答を児童が探るという授業。伺うと、職場の先輩先生が善意もあってよい授業の方法として教えて下さった内容を実践されているようでした。
同時に子どもたちの意見も欲しがっているため、私には発表中、苦しそうに見えました。

指導書は、求められている授業に追いつけいないなぁと感じます。それも無理もないことで、主体的、個別最適な学びは一律の指導方法で全国どこでも授業ができる指導書ベースの方法では通じません。
教師の教材設定の意図はある程度あってもいいですが、その枠にはめて終わるような授業はもはや求められていません。その意味では、指導計画や指導案も古い概念なのでしょう。今までやって来た概念から離れるのは怖いし勇気がいりますが、思い切って否定しないと次に進めないように思います。

しかし、委員会に言われないように、指導書の文言や学習指導要領の項目を引いて、シラバスを作るのが現場の実態です。それが、文部科学省や学習指導要領の設計者の意図とは離れているのを実際に話を聞いて知ってしまうと、設計者の思いと自分なりに伝言ゲームの結果を一生懸命現場に浸透させようとしている方と現場で生徒と向き合いながら違和感を感じている人の行き違いが見えてきて苦しいです。みんな善意であり一生懸命やっているることがなお悲しいです。そしてそれに入試と評価が拍車をかけています。
どれも今までの教育界で大切にされてきたこと。でもちょっとおかしいと気づき始めてきたことだと思います。
現場では、できないことをやろうとするために無理が出るか、適当に流しています。そしてそれが大真面目に入試で資料として使われます。
こんな失礼なことはないなと思っていますが、制度が変わらない以上、やるしかありません。

なんでも評価する制度を、どうか、気付いてやめていただきたい。

様々な考えがあふれてやまない、刺激的な話題提供をいただき、大感謝です。

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