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足りていないことは次への糧に|2024スプラウト福岡女子商業高校①

教えることが最大の学び。

大学生だからと言ってエクスキューズはしない。教壇に立っている以上,できる準備はやり切る。

どうもまだピンと来ていない学生もいる。実際にやってみないとわからないこともあるだろうし,指摘をされて気づくこともあるだろう。学びのペースは人それぞれで良いと思うが,教壇に立つ以上は「教えながら学ぶ」ことにチャレンジして欲しい。

2024年度になって高大連携アントレプレナーシップ教育プログラム『スプラウト』は,鹿児島,熊本2箇所,出雲と範囲を拡張させ,学生負担が増えていることは承知している。が,一方的に教える,PBLで得た実践を知識に抽象化するという学びが十分に機能していないと感じる中で,私自身が最も学びになると感じている方法=「学びながら教える,教えながら学ぶ」をこのゼミの中でやろうとしている。しかし,学生のみならず,周りの大人ですらその意味を理解できない人がいることは十分に理解している。が,これは研究であり,実験であり,新たな教育の場だと思ってチャレンジしている。

そういうもどかしさみたいなものをフツフツと感じつつ,2024年も9月になって今年も『スプラウト』発祥の地である福岡女子商業高校での授業を迎えた。

鹿児島中央から福岡に戻るの図。

この日は前夜に鹿児島で社会人向けの講演を行い,食事に舌鼓を打っており,同地に宿泊していた。そして,午前中からゼミのもう1つの重要な学びの柱である「創業体験プログラム」の事業計画発表会のために福岡へ戻る必要があった。午前7時前の新幹線で福岡に戻り,自宅へ寄ってから大学へ。

そして,9月13日(金)午後の『スプラウト』に向かった。

今年度は昨年までのChatGPTを用いた教育プログラムを取りやめ,女子商では1年生6クラスに向けてアントレプレナーシップを教える『スプラウト』と呼ぶプログラムを導入することになっている。ただし,ちょっとした(いや,プログラムを実施するには結構大きな)アクシデントがあるのと,わからないことをそのままにしておく,状況を十分に把握できていないから対応が遅れるといった事案が重なり,不安なスタートを切らざるを得なくなった。

結論から言えば,そういう不安を抱えつつも学生たちは十分に良くやったと考えている。しかし,クライアントからすれば,その要望にはまだまだ足りていないということだったのではないか。「教える」という行為に含まれる所作,配慮,構成が不十分だったというのは事実。その先言いたいことはあるけれども,とりあえずはこれくらいにしておく。

というわけで,2024年度第1回のスプラウトはどんな形で進んだのでしょうか。ご一読ください。また,これまでの女子商での取り組みはこちらのマガジンをご一読ください。

女子商での授業が始まった!

授業はこれまで同様に,秋から冬にかけて1ヶ月に1回ほどのペースでアントレプレナーシップを基軸に進めていく。ただし,今年はこれまでとは異なってマルシェとの接合を考えず,1年生に対して「商業高校の1年生がこれから商業課程,あるいはさまざまなプロジェクトを実施する際に,基本的な考え方となる知識を身に付ける」ことをゴールに授業を進めていく。果たして,「基本的な考え方となる知識」とはなんぞや。長い旅が始まる。

1組

これに向けて授業資料は2パターン作成された。ほとんど内容に大きな変化はないが,次のような違いがあった。

Aパターンは「事業機会の探索と認識」に重心を置き,起業家が事業を創り上げてきたプロセスをよく見ると,なかなか見つからない勝ちパターン=事業機会を探し出し,形式化し,戦略にするまでに繰り返し試行錯誤をしていることを強調する。そこで起業家が持つ粘り強さや一定の解答にたどり着くまでのプロセスに取り組むことの重要性を訴えようとしていた。

2組

これに対してBパターンは,昨年までの授業をベースに「Causation」と「Effectuation」を概念的に説明していく方法を選択している。同様に,事業機会の探索の話をするのだが,それを抽象化=理論ではこう説明するんだよという主旨だと言えよう。

いずれのパターンにしてもクラスリーダーたる学生たちが試行錯誤の上に創り上げた資料であり,それに対してどうこう言える立場ではない。学生たちはよく考え,難しい概念を伝え,いかにしてジブンゴトとして腑に落としてもらえるかに腐心していた。

3組

そうした授業内容もさることながら,今回は「いかに高校生と仲良くなれるか」にも気を使おうという話を事前にしていた。これから4ヶ月,1ヶ月に1回だけ会う高校生と大学生。一旦あるイメージがつけられてしまうとそれを覆すことはなかなか難しい。特に女子商はその名の通り「女子」が生徒なので男子学生にとっては厳しい環境だ。相手は思春期で感度が高いし,ちょっとしたことにポジティブにもネガティブにも反応してしまう。

4組

そうした中で男子学生がクラスリーダーになっている各クラスの様子を心配になって見に行ったが,不慣れなことに挑戦しながらも,一生懸命できることをやっていたように思う。直前までクラスごとに授業資料を作り変えるなど,それぞれで取り組みをしていたが,諸般の事情で資料を2パターンから選ぶようにし,授業準備に時間をかけることができたのもあるだろう。

100点満点かと言われればそうではないが,初めて30名程度の高校生の前に立って授業をしたということから考えれば,十分であったように思う。ただ,教壇に立つにはもっと学んでおかねばならないことが多々あるということがよく理解できたのではないか。これはあとの話にもつながってくるが,1を喋るためにどれだけ準備をしなければならないかということ。

5組

『スプラウト』は単に授業をするにはするのだが,単に喋ればOKではない。反転学習を導入し,高校生には全クラス共通の事前課題に取り組んでもらう。それを受けて授業ではアイスブレイクをし,事前学習の復習をし,それを踏まえたワークショップを行い,新たな知識をインプットして,再びワークショップをするという構成になっている。

すなわち,喋ることはもちろん,ファシリテーション,一方的な話力ではなくてコミュニケーションをする力,瞬時に高校生が抱える課題(理解ができない,授業についていけない)を読み取って適切に対応するなどの力が必要になる。

6組

実は繰り返し授業をやっていくと,このあたりの解像度,理解度の高さが授業の質(説明,ファシリテーション,時間管理などを含む総合的マネジメントのレベル)に大きく影響することになる。そして,この『スプラウト』はそうした力を身につけるものだと言える。「大学生が高校生に授業を通してビジネスやアントレプレナーシップを教える」という形を取りながら,実は大学生が最も学ぶプログラムになっている。

こんなことを大っぴらに言うと学校側に怒られるだろうけれども,私からすれば高校生の教育の主要プレイヤーは先生方であり,大学生が1回や2回授業したところで大きな変容をすることは期待できない。が,クラスに1人や2人かもしれないけど,これを通じて変容する可能性があるのであれば,それに賭けて頂きたい。賭けるだけの価値があると考えている。

だから時間をくださっていることもわかる。高校側,大学側,それぞれ教育というものに携わっている立場から見ればこのプログラムの意義が変わるだろうが,だから私は「共創的な学びを創る場なんだ」とお話している。実はここが伝わっていないのではないかという危惧があったり,なかったり。

かく言う私のつぶやきはどうでも良いのだが,「100点満点とは言えないけれども初回としてはよくやった」というのが私の学生に対する評価というところだろうか。いや,初めて教壇に立って伝えるべきことを伝えられるってすごいことなんだよ。

ふりかえり

ということで,ふりかえり的な文章はもう書いてしまったのだけれども,表題が「足りていないことは次への糧に」だから,そこについて少しだけ自分の見解を述べておく。

授業終了後,約1時間をかけてふりかえりを行う。これはもうゼミでは当たり前になっている。ちょっと長い気がするのだが,授業終了後に20分ほどクラスごとにふりかえりをし,各クラスリーダーにコメントを求めると1クラス5分はゆうに喋る。6クラスで30分。そして,最後10分ほど私と高校の先生が話して終わる。

学生は初めての授業でできなかったことを強調する。用意したことを喋れてたかどうか,アイスブレイクで高校生が反応してくれたかどうか,課題はやってきたかどうか。

しかし,高校側からすれば,今回の授業を高校生がどれだけ楽しみにし,そのために準備をし,名札をつけて待っていたのに声もかからなかったとか,部活動をやっていない生徒が多いから部活の例えはわかりにくいだとか,その現場にいるから知っている情報がある。そこにコミュニケーションが円滑に進んでいないという違和感を感じることがある。

あるいは,教壇に立つことを生業にしている人と,学びの場としてある種強制的に立っている人との見え方の齟齬のようなこともある。私からではなく,先生から「授業は1を調べて1を話すのではなく,授業資料を上回る知識のインプットがあって初めてできる」という指摘があった。これも大変ありがたい話で,そこまで期待されて教壇に立つ機会を頂いているのだということを理解できるとなおより良い授業ができるのではないかと思う。

教頭先生の教育マトリックス。

変化を加速度的に進め,それに期待して入学してきた高校生。しかも,1年生となれば,今の女子商での学びの環境がそれであり,学生は過去自分が経験してきた(コロナだったという不運はあるものの)高校生活とのズレにうまく適応する必要があるだろう。あるいは,そうしたものを取り外して,ありのままの自分をさらけ出しつつ,十分な準備をして授業に臨むことができるようになれば,それは一歩も二歩も自分で自分を成長させることができたと言えるのではないか。

得手不得手があるのは承知しているが,今年度になってゼミ中心期である3年次生に何かしらの形で授業をしてもらうようにしている効果はこれから出るだろう。単に授業をするだけ,話せばいいだけと考えるか,ここで授業を繰り返し行うという経験を通じて何かが獲得できるかはそれなりの差になって現れるだろう。もしそうだとすれば,それが何かということも経験しなければわからないわけで,単に得手不得手,苦手,得意じゃないという捉え方をしないようにうまく心を整えて欲しいところ。

10年前,初めて「書くP」に出会ったときの衝撃,その意味を理解したときのFacebookへの書き込みを追記として,今日の投稿は終わりにしておく。

追記:僕がなぜ『スプラウト』にこれだけ力を入れているのか。

書くPの最大のポイントは,あえて大学生を中心に置いて考えてみると,大学生が中学生が書く作文「志」を見えるようにする手助けをしつつ,実は大学生自身が「自分自身が何者か」を知ることができるということなのだろう。たった数年の歳の差とは言え,大学生が自分の感覚や価値観とは全く異なり,十分に成熟していない中学生と触れ合うことを通じて,自分の考え・価値観を問い直すということなのだろう。コミュニケーションや価値観のぶつかり合いを通じて,大学生と中学生の双方に「自分が何者であるのか」を気づかせることなのだろう。

だから,大学生が中学生に作文の書き方を「教える」のではない。もう少しいうと,いわゆる「導管メタファー」が言う「情報を有形のモノとして捉え、情報の送り手と受け手の間にパイプのような流通経路があり、そのパイプにポンと情報を投げ込めばそのまま受け手に内容が伝わるというコミュニケーション」ではいけないのだ。一方向ではいけない。大学生は自分が何者であるかを中学生とのコミュニケーションを通じて気づき,中学生は自分が何者であるかをグループワークを通じて気づく。

つまり,大学生は自分の言葉を十分に理解してくれない中学生に困惑をしながら,この現時点では大学生自身が「気づき」を得る過程にあるということだ。「中学生はこういうものだから,こういう風に接すればOK」というステレオタイプな価値観ではダメで,大学生1人が複数あるいは1人の中学生と接することで否が応でも「素の自分」が「素の中学生」に晒されることになる。そこで大学生自身が「今の自分」に気づくのだ。

そして,「自分に気づく」ことこそが「イノベーション」であるということ。今までの自分が持っていた既成概念を中学生とのコミュニケーションを通じて打破し,大学生は「新しい自分を作り上げる」ことになる。イベントを作る,街を作るという「目にみえる行為」ばかりに囚われてはいけない。自分たちが何をしているのかという本当のことは,見えていることの大分奥にある。しかも,それは自分自身の行動の中にある。書くPの真髄は,大学生の力を使って中学生が「志を立てる」という形を借りながら,実は大学生も中学生も「新しい自分を作り上げる」ことなのだろう。ようやくストンと落ちた。これはすごいプログラムだ…。

これまで複数回の書くPを通じてすでにそういう自分に気づいている学生もいれば,まだ自分が何をしているのか見えていない学生もいるだろう。でも焦る必要はない。今,この時点でプログラムを進めながら,あなた自身で「新しい自分」を作り上げているのだから。問題はそのことにいつ気づくかだ。自分がどこにいるのかに気づければ,きっと中学生を導けるはずに違いない。大学生は分かっているだろうが,モノゴトが進まないことを中学生に原因を求めてはならない。自分自身の中にヒントがあるってことに早く気づいて欲しい…。

2013年2月16日のFacebookノートに書いた記事の一部より。

今日あったとあることで少しばかり踏ん切りがついた。こんなところで負けてられるか。やり切って,燃え尽きて,自分の生きて行きた証を残して去る。悔いなき人生を送ろう。

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