りんごあめ
「りんごあめ」
彼女はそう言った。
「りんごあめ?」
僕はそう聞き返す。
「そう、りんごあめ」
「りんごあめでないと駄目なんです」
「それが伝統だから」
彼女はうつむき加減に話した。
「それが伝統というのは面白い」
僕らはバーカウンターに座って、ランチを食べていた。
横並びに座り、各々のランチプレートと対峙していた。
お互いに話しながら少し相手の横顔を間接視野で見る。
僕らはそんな距離感だった。
僕はガパオライスを食べていた。
挽き肉と目玉焼きが乗った白いご飯をスプーンですくっていた。
彼女はササミ肉を蒸したものを黄色いソースにつけて、白いライスと一緒に食べている。
たまに添えられたきゅうりを食べて、口の中と食べるリズムを整えていた。
不思議なことに、彼女からは食べる音が全くしなかった。
でも食べている。無音で食べる空気が僕にまとわりついてくる。
「毎年、新入生は学園祭でりんごあめを売るんです。それが伝統なんです」
大学で何してたのか?という話題の中で、彼女の通っていた大学の学園祭の話が出たのだ。
なぜか、「りんごあめ」という言葉が僕の頭から離れなかった。
目の前を通り過ぎた白いスカートが、頭にずっと焼き付いて離れないみたいに。
「なぜ、りんごあめが伝統になったの?他にもいくらでも売るものがあるのに」
「それは分かりません。初めからそうなっていたから」
「りんごあめはよく売れた?」
「普通ですね。
私の大学は子供たちがたくさん来るので、子供が買っていきます。
学園祭でりんごあめを売るなんて珍しいですから」
りんごあめは1908年にアメリカで誕生した。
西海岸のベテラン菓子職人がクリスマスのために発明した。
そんな記憶が、僕の中で蘇ってくる。
「学園祭の3日目に雨が降ったんです」
彼女が唐突に話し始めた。
「お客さんはまばらだったけど、その日りんごあめ作り担当だった私は、雨の中りんごあめを作っていました。
でも、とても湿気が強くて、アメがべたついてなかなか固まらなくて、りんごあめは綺麗な形にならなかったんです。
そのとき、べたべたして一向に固まらないりんごあめに一匹の虫が止まったんです。
蚊のような、蚊より少し大きいぐらいの羽のはえた虫です。
私はその虫を見て見ぬふりをしました。
手で取ることもせず、その虫のことを横目で見ながら、りんごあめを作り続けたんです」
僕はコーヒーに目をやりながら、話を聴いていた。
彼女は話続ける。
「少しして、虫の方に目をやると、虫はどこかに行っていました。
でも、虫が止まっていたりんごあめが少し変なことになっていたんです」
「変なこと?」
僕はコーヒーから彼女の方に目を配る。
彼女はこちらを見ずに、そのまま続ける。
「本来赤いはずのリンゴが緑色になっていたんです。
ただの緑色ではありません。光沢のある緑色です。
宝石のように光沢のある緑色の塊になっていました」
彼女はコーヒーを手に取り、少しすする。
僕はそれを見ている。彼女のコーヒーがとても神聖なものに見えた。
「まだ蜜は固まっていませんでした。
蜜を水で洗い流すと、中から丸い緑の光の塊が出てきました。
それはもうあの赤くか弱いりんごではありませんでした。
強く意志の持った緑の宝石でした」
「その緑の石はどうしたの?」
僕は思わず彼女の話をさえぎった。
彼女はこちらに顔を向ける。
「その石は持って帰りました。
私以外、誰もその緑の石を見ていなかったので、そっと鞄にしまいました。
今でも家にあります。大切にしまっています」
僕も彼女も同時にコーヒーをすする。
「いつか、見せてほしいな。僕も見てみたい」
「ええ、いつか。その時が来たら」
僕も彼女も、今はまだ知らない。
その緑の石の秘密を。
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