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完読・感動『月曜日の抹茶カフェ』(青山美智子)

📚青山美智子さんとパウロ・コエーリョさん

読んでしまった、読み終えてしまった。

読後すぐの感想は、そういう寂寥感だった。本というのはどうしてもページで構成されている(あるいは短冊で構成されているのかもしれない…)ので、最後のページに記載されている「乱丁・落丁本はお取り替えいたします」の文字までをも読み終えたあとには「おしまい」がくる。子どもの頃に聴いた紙芝居の「おしまい、おしまい」が出る時のような「もっと聴かせてよ!」という胸のざわめき。しかしもう僕はきちんとした(と自分で思いこんでいる、あるいは社会的にそう認識されようとしている)オトナなのでそのざわめきをほどなくして抑え込み「読んじゃったのかぁ」としみじみ表紙・裏表紙・中表紙を眺める時間が続く。そこにほどこされた田中達也さんのアートを「読前」「読後」にみくらべてみると、物語に応じてキャラクターが動きまわったかのように色合いが違うように思えて、これもまた宝島社さんから出版される青山美智子さん作品の大きな魅力なのだと実感する。つくられているのは単なる小説ではなく、作品なのだ。

宝島社さんやポプラ社さんから出た青山美智子さんの小説を読んでいると、くらしの彩度があがったような気持ちになる。上に転載したように色んな作品を読ませていただいているけれど、どの作品を読んでいるときも生活のなかのあらゆるできごとの「意味あい」が大きく変わってくる。鳥が空を駆けるだけで吉兆に思えたり、ふと時計を見ると「2:22」だったのがとてつもない幸運の兆しに感じられたり、あるいは久々の友人からのメッセージに大きなときめきをおぼえたり。もう、気持ちはパウロ・コエーリョの『アルケミスト:夢を旅した少年』だ。何事も起こらぬ平板な日々が突如として極彩色になるのだから物語の力はすさまじい。

そうした意味で、青山美智子さんの本は「世界が灰色にみえる日」にさえ読むのをおすすめしたい一冊だ。僕自身これまでに数々の暗い日々を物語の力で乗り越えてきたけれど、今後青山さんの作品でそうした「くらしの夜」を乗り越える人が多く生まれることだろう。この記事のアイキャッチにした『月曜日の抹茶カフェ』と『木曜日にはココアを』が並ぶ写真は、こういう願いを込めて同作を私が運営に務めている椎葉村図書館「ぶん文Bun」の「クリエイティブ司書の推し棚」で紹介している様子である。
(『月曜日の抹茶カフェ』は私物なので付箋がたくさんついていて申し訳ないであります!)

📚青山美智子さんとフィッツジェラルド

・・・今日は「サクッと『月曜日の抹茶カフェ』の読後感を書くぞ」と意気込んでいたんだけれどね。おかしいな、前置きがまた長くなってしまっている。たぶん「サクッと書くぞ」という意気込みよりも「書くぞぉ!」というあふれ出る思いのほうが大きくなってしまって、壊れかけの天秤を完全に破壊しつくしてしまったのだろう。何もはかれない・・・。

こうして僕が青山美智子さんの作品レビューを書くというのには、もちろん勤務先の椎葉村図書館「ぶん文Bun」1周年記念イベントのオンライントークショー(↑YouTubeでご覧いただけます)にてご登壇いただいたという恩義をあげられようが、何よりもそれ以上に僕自信が青山作品のファンであるからだ。本当に、新しい読書のかたちをみせてくれる作家さんだと思う。

「新しい読書のかたち」などと、またアヤシイ言葉を用いてしまった。しかしこれは本心本義のことばであって決して怪しくなどない僕の本意である。先ほど僕は「青山美智子さんの小説を読んでいると、くらしの彩度があがったような気持ちになる」と書いたのだけれど、これは作品そのもののことも言い表している。もちろん『木曜日にはココアを』なんかは章の名前にカラー名称がついていていろどり豊かなのだけれど、単にそういう意味だけではなくて、僕が言いたいのは「文章に色がついている」という意味あいだ。

「文章に色がついている」という表現を僕が目にしたのは、記憶が曖昧なのだが、F. S. フィッツジェラルドの論文を読んでいたときのことだった。英語に疎いのでその表現は忘れてしまったのだけれど、その論文では『華麗なるギャツビー』の文章全体を指して「文章に色がついている」との言及があった。

僕が考える「文章に色がついている」とは、あえて短直に示すならば「映像化しやすい」ということだ。それは一義的に言うと「読書が頭の中で映像化しやすい」ということであって、文面から情景が思い浮かびやすいということだ。これには文章そのものの流れだけでなく場面設定の精緻さと鮮やかさが効いてくると思うのだけれど、一般に小説というものは「文章がうまい」人が書いているものだが本当の意味で「読むと映画みたいな場面が生まれてくる」作品と出会うことができるというのは実に幸せなことだと思う。

そんなことを踏まえて考えれば「文章に色がついている」とは「映像化と相性がいい」という意味もはらんでくる。これが僕の考える「映像化しやすい」の二義的な要素であって、読めば読むほど情景が浮かんでくる青山さんの作品が映画化されたらな・・・という願いは尽きない。フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』があの名作映画になった(もちろんレッドフォードのほう)ように、きっと素晴らしいグランド・ホテル方式の映画が生まれることだろう。

青山美智子さんは、昨今の作家さんのなかでも非常にシネマティックで感動的な作品を創っておられると思う。

📚青山美智子さんと村上春樹さんと紫式部

ここまで正直にちまちまスクロールしてこられた読者諸兄は「いつになったら『月曜日の抹茶カフェ』のハナシをするんですか?」とお思いかもしれない。まぁ許してほしい。ほんの2,000字くらいのことではないか。あんまり今読み終えた作品のことばかり書くと興奮のあまりネタバレしそうで怖いのだ。それに、今まで書いてきたこと全てをふまえて作品を読んでいただけると、きっと「こういうことか~」と思っていただけると信じている。

ともかくネタバレを控える意味でも、また『木曜日にはココアを』を未読の方もいらっしゃるということを考慮するうえでも、以下の読後記録においては個々のキャラクターのエピソードやストーリー展開には極力ふれないようにしておきたい。先ほど僕は「文章に色がついている」というハナシをしたばかりだけれど、それよりも何よりも重要な青山さんの作品のグッドなところは「キャラクターが生きている」ということだ。この醍醐味はぜひ作品を手にとってご覧いただきたい。

ところで「キャラクターが意志をもち自ら動いてくれる」というような趣旨の文章を僕が読んだのは、村上春樹さんの『遠い太鼓』だったか『職業としての小説家』だったか、あるいは『みみずくは黄昏に飛びたつ』だったか(←本当に読んだ?)だったと思うのだけれど、なるほど村上春樹作品に多くの魅力的なキャラクターが登場するのはそういうわけである。

青山美智子さんのキャラクターたちもそうなのだろうと思う。これは僕が先生の作品を読んだり、先に紹介したオンライントークショーなどでお話をうかがうなかで拝察するのだけれど、多分青山作品のキャラクターたちは、フィクションとしての当初想定を超え出たところにまで自らの力で駆け抜けているのだと思う。小説を書くというとその初めから終わりまで作家の手によってキャラクターが書き込まれ、つくられたものとしてのキャラクターの人生が文字化されるという想像ができる。しかしながら青山さんは、そして魅力的なキャラクターを描く作家さんの多くは、おそらく当初の想定にないところまで自分で駆け抜けていったキャラクターというものの存在をお感じなのではないだろうか。

上のような想定をするとき、もはや「物語のなかで成長する登場人物」という言葉では全てを表現していると言い切れない。キャラクターは物語の中で小説の登場人物として描かれるままに動くだけでなく、もはや小説の範疇を超え出たところで自らの意志で動きまわっている・・・そんな現象がきっと起きているのだ。

一連の「青山作品群」において、この現象はもはや比喩でもなんでもない。ひとつの作品では保健室の先生だった人物の人生が、ほかの作品へと目を移せば図書室の凄腕司書に変わっている。まったく違うようでいて精緻に折り重なる「物語を飛び越えた」キャラクターの人生は複層的に折り重なり、青山作品群の厚みをどんどん増していっている。もちろん「書かれた」ものを読むことが小説であり、そのようにして僕たちは(たとえば)小町さゆりさんの人生を知ることになるのだけれど、こうして作品間を行き来しながら生きるキャラクターの存在は「まだ書かれていないキャラクターの人生」を想起させ、読者の数と同じだけ・・・あるいはそれ以上の世界線にわたり許容されうる物語の数々を惹起する。

かつて私の恩師が、このように一人のキャラクターが複数の作品に登場し連続した時系列・世界線を織りなす作品を書くとある作家さんのことを『源氏物語』の多層物語構造になぞらえて「現代の紫式部」と表現したことがある。そうすると青山美智子さんはまさに「現代のストーリテラー」すなわち「現代の紫式部」ということになるだろうか。

📚(やっとですよ)『月曜日の抹茶カフェ』を読んで

僕にはあなたの心が手に取るようにわかる。

見えている。机をはさみ向かい合った二人、気まずい沈黙、響く時計の針が指すのは午前二時三十分だ。「で、いつ『月曜日の抹茶カフェ』の感想を書くのよ?」とあなたは言う。八戸の氷柱みたいに冷ややかな目つき、冷徹な一言だ。そこには慈悲も何もない。かれこれ3,000字以上は待たされたんだもんな、しかたがない。

僕はうまい答えを考え出したいけれど、テーブルにこびりついた醤油の跡が気になって仕方がない。いったいナゼ醤油は飛び散るのか。いったいナゼ僕は端的に書こうと思ったことをすぐ書けないのか。「A4一枚に企画書をまとめなさいと仕事で言われたらできるのに、なんでnoteとなると冗長で長ったらしい文章になるのよ」といつも言われる。多分読者のほとんどの方がそう思っているのだろう、この記事を書きながらも残響なのか予感めいた響きなのかわからないけれど、そんな声が幾重にも重なって聞こえてくる。

へいへい、最後にまとめますよ。以下には『月曜日の抹茶カフェ』の各章についてネタバレを極力避けながら・・・物語の内部に入るというよりは、むしろそれを押し広げるようなかたちで僕の読後感を語っていきたいと思う。

ここからはクリスプに端的に、短くはっきりとまとめます。本当ですよ。あ、さては信じてないな本当だってば。嘘なんかつk

🍵1章:月曜日の抹茶カフェ

「なりゆきで行くことになったとか、知らなかったけどどういうわけか来ちゃったってほうが面白いでしょ」という言葉が印象的だった。ふと『月曜日の抹茶カフェ』の前作である『木曜日にはココアを』と出会った瞬間を思い出す。

僕は宮崎県・日向市のツタヤ書店さんを訪れた一人の客で、たまたま目にした「第一回宮崎本大賞受賞」のポップに目をとられ同作を手にしたのだった。もし宮崎本大賞がなければ、僕は青山美智子さんと出逢うことがなかったのかもしれない。その出逢いがなければ、自分がプロデュースした図書館の開館1周年記念イベントで青山美智子さんとオンライントークショーを開催するなんて光栄にあずかることもなかったかもしれない。すべては、縁なのだ。

そうして今、僕は宮崎本大賞の実行委員として新たな候補作を読んでいる。もうマジでめちゃくちゃ忙しいんすけど(←仕事を思い出した)、また新たな「縁」を自分の手が生みだすかもしれないと思うと、どんなに無色透明な日常も鮮やかにみえる気がする。

🍵2章:手紙を書くよ

名前を出してしまうのだけれど、僕はこの章の登場人物「ひろゆきさん」にとても強い同意の念を感じていて「わかるわかる、そういうの困るよね!」などと頷きながら「あとで家で妻にも読ませてみせちゃる!」くらいの気持ちで読み進めていた。しかし「手紙を書くよ」の章を読み終えてみると「今日のごはんはおかずプラスワンで作ろうかな・・・」などと、恥じ入る気持ちとやさしい気持ちがあふれ出てきた。うちは喧嘩したわけではないですけれど、日常を滞りなく過ごしている人にも大事な人と喧嘩してしまった人にも読んでもらいたい章である。

ちなみにこの章で出てくる「古本屋」は、何か新たなエピソードを生むニオイがむいむいする素敵な雰囲気を携えたワードであった・・・。

🍵3章:春先のツバメ

ある意味では僕もこの章の主役キャラクターと同じように、事業を動かしそれを宣伝している。その立場として読んでいくと、今一度根幹となる「仕事の軸」・・・いやもっと深いエモーショナルな何かを見つめなおさなければならないような気がした。

ちなみに私が勤務して運営・広報コントロールを行っている椎葉村交流拠点施設Katerieの情緒的基軸は「新しいって、懐かしい」というコンセプトワードにまとまるようブランディング開始当初から概念整理を行っていて、この意義をもう一度噛み締める機会をもらったような気がする。

しごとって、きもちいい。

🍵4章:天窓から降る雨

ザ・日常、というような場面の章なのだけれど、まさにこの作品の帯コピーである「人は知らず知らずのうちに、誰かの背中を押している。あなたも、きっと―――」を顕すかのような章だった。

この章では助けられている人が、他の章では誰かを知らず知らずのうちに支えている。まさにそれこそが、人生そのものなのかもしれない。

🍵5章:拍子木を鳴らして

この章を読んでいるときのメモに「エピソードずるすぎる」「☆現時点No.1」とある。もう涙でぐじゃぐじゃになりながら書いた字はあらゆる方向に歪んでいた。

「拍子木」からわかるとおり、色彩豊かな物語に声や音までもが鮮やかに聞こえてくるような要素が強く入っているエピソードで、しかもそこに宮沢賢治というエモエモ・エッセンスも加わって、トドメとしては「孫と祖母」という、ドラえもん映画『おばあちゃんの思い出』以来小宮山が感涙し続けてきた最強の要素も加わったものだから、私は獣のように泣いた。以上、この語彙の欠損と文体の乱れこそが、感動の証である。

🍵6章:夏越の祓

まさに「あの人からこの人へ、この人からあの人へ」と連なる縁の様子が5章との連続で語られていて、僕は引き続き獣のように嗚咽した。5章は孫目線、6章は祖母目線だったというわけだ・・・。

京都の風情が感じられるいくつものことばやデバイスが心地よく、関東近郊や東京が主な舞台だった青山作品群に新たな色彩が加わった気がしている。

🍵7章:おじさんと短冊

「ついに青山作品群の猫が喋った!」と歓喜した。『猫のお告げは樹の下で』の猫が喋りそうで喋らなかったのだけれど、本章ではいたずらっぽい美猫が存分に喋ってくれている。

そんな猫さん(「名前はたくさんある」)が言う「本ってきっと、この短冊の集まりなんだわ。夢とか、欲しいもんとか。そういうニンゲンのあこがれが、いっぱい詰まって綴じられているのね」という台詞の発想が楽しく美しい。青山美智子さんの作品にはこういう視点の転換された物事の美しい見方が映える瞬間があって、それもまた僕たちのくらしの彩度をあげてくれているのだと思う。

🍵8章:抜け巻探し

僕の名前を知っている方は、この章が僕にとってのベストにならざるをえないということがわかるだろう。

青山美智子さんの作品に「小宮山さん」が出ている!!!!!!!!!!

もうこれだけで歓喜の余り卒倒しそうなうえに、この小宮山さん…詳しくは本作品で確認してほしいのだけれど、かなりの太宰治好き(あるいは単に古本好き?)らしい。ここで小宮山は二度のメタフォリカルな失神を経験することになる。カンムリョウである。

ちなみにこの章の「抜け巻探し」というテーマも、図書館を運営し「セレンディピティを生む場所」を最大限に意識する棚づくりをしている身としては本当に感慨深い。本をめぐる偶然性と必然性の止揚が生む圧倒的なロマン・・・。それをまた、糺の森の古本まつりという小宮山憧れのシチュエーションで描かれてしまうのだからもう感動の動悸で「救心」が必要だ。

森見登美彦さんの『夜は短し歩けよ乙女』に憧れた大学生時代が走馬灯のようによみがえる。糺の森の代わりに僕は神保町の古本屋街を歩いていたのだけれど、そこで探す憧れの黒髪の乙女、運命のランデブー、奇跡的邂逅、約束された出逢い、宿命的破綻、おしまい・・・。はっ、いつの間にか自分自身の感傷が大きな口を開けて現在を呑みこもうとしている・・・。とにかく僕は、この章に出てくる大学生の青年に「ひろゆきさん」に感じた以上のシンパシーを感じたのであった。

🍵9章:デルタの松の樹の下で

8章で僕がシンパシーを感じた青年にいきなり訪れた不幸に絶望したけれど、それもまた縁であると学ぶ青年の強さに感服した。君は僕より強いよ、青年。僕は似たような境遇になったときなかなか立ち直れなかったよ、青年。

それにしてもこの章に出てくる音塚ブン氏はかなり気になるキャラクターである。どう考えても本作から飛び出して、自分自身の成長を遂げていきそうなこの不可思議なキャラクターに大期待している。イメージとしては『バクマン』で主人公のおじさんにあたる漫画家「川口たろう」みたいな、売れないけれど信念の太い人が思い浮かぶ。あぁ、彼も鮎川茂吉や黒祖ロイドみたいに成功するといいのだけれど・・・。

🍵10章:カンガルーが待ってる

本作の主題である「縁」が最もよく顕れたセリフが出てくるこの章、誰の者かは明かさずに引用致したい。

「俺は思うんだけど、望み通り想定したままのことを手に入れたとしても、それだけじゃ夢が叶ったとは言えないんだよ。そうなふうに、どんどん自分の予想を超えた展開になって、それをちゃんとモノにしていくっていうのが、本当に夢を実現するってことなんじゃないかな」

青山美智子『月曜日の抹茶カフェ』(宝島社、2021.9)、p.178.

「青山作品群」という言葉を本記事で用いたけれど、この引用文みたいな「縁の連鎖」が物語を超えて広がっていく様をみていると、ひとつの「青山ワールド」なる世界が生まれそうな気がする。それはJ.R.Rトールキンが中つ国を生みだしたように、ひとつの拡大しゆく世界なのだ。

そろそろ、青山作品群に出てくる登場人物やその素性、持ち物なんかをまとめた年表やリストが必要になってきそうだ。これをみんなでつくるワークショップなんてやったら、とても楽しいと思うな。

🍵11章:まぼろしのカマキリ

「親とはこういうものであらねばならない」「子どもはこうふるまってしかるべき」などなど、世に横行しがちな苦しい観念を取り払ってくれるような章だった。誰にとっても「あらかじめ決められた姿」などありはしないのだ。

ちなみに「カマキリといえば」というイメージで「卵を産んだメスは交配相手のオスを食べてしまう」なんてものがあるが、実は「うまく逃げる」オスもいるらしい。カマキリのオスにだって、遺伝子通りに食われるなんてごめんだよ!という気骨あるオトコが存在するのだ。

🍵12章:吉日

これまでの1章~12章は睦月~師走と一年の年表仕立てになっていた。そうして、1月に始まった物語は無事に12月で収束する。

・・・こう言ってしまうとなんだか予定調和みたいだけれど、それを感じさせないのが青山作品群の凄いところだと思う。要するに、物語は生きているのだ。

小説に関していえば一度目の読みと二度目の読みはなにかが違う、なんてことがまことしやかに囁かれているが、これは本当のことだ。一つには、読み手が幾分かの時間や出来事を経て成長しているからという理由がある。そしてもう一つには、これが大事なことだけれど、きっとキャラクターも物語を超え出て成長しているのだ。

印刷された文字という動かしようのない物質で出来た「本」だけれど、二度三度と読み返すと「あれ、こんな人いたっけ?」という人物が出てきたり、「前よりかっこいいこと言ってる気がするな」という気にさせられることがある。そしてこれは、きっと「気にさせられる」ではなく、実際に起こっている現象なのだ。そこにはもしかすると『月曜日の抹茶カフェ』のある章で語られたみたいな記憶のあいまいさが関わってくるのかもしれない。もしそうだとしたら、そのおかげで毎度素敵な物語を楽しめるなんて大感謝だ。曖昧な記憶こそナラティブを最大限に楽しませてくれるエッセンス!なんてことが言えるのかもしれない。

・・・僕はきれいな・・・あまりにもきれいな大団円をむかえる1年間の物語を読み終えて、この記事の冒頭で述べたように『月曜日の抹茶カフェ』の表紙・裏表紙・中表紙をしんみりと眺める。そしてそこにほどこされたミニチュア・アートが読前と違って見えてくることに気づいたとき「あぁ、キャラクターが成長したんだな」と思ったのだ。物語とは、往々にしてそういう力をはらんでいるに違いない。

📚青山美智子さんと太宰治

何よりも嬉しかった「小宮山さん」の登場。

僕は太宰好きの小宮山さんを想像しながら、どうして作品中の小宮山さんは太宰治のことが好きなんだろうと考えてみる。もしかすると僕が太宰治を好きで、墓参りまでしていたということを青山さんがご存知で、それをエピソードに加えてくださったのかもしれない。いや、もしかすると小宮山という名前なんてただの偶然で、この小宮山さんは元千葉ロッテマリーンズ・現早稲田大学野球部監督の小宮山悟さんから着想した「小宮山さん」なのかもしれない。青山美智子さんという一人の作家さんの作品に出てきた自分と同じ名前の人物を見据えながら、僕は太宰治好きな小宮山さんの古本屋にぜひ行ってみたいものだと思う。

ところで僕が一番好きな太宰治の文章は、短編「葉」に出てくる。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

太宰治「葉」

別に僕は今死のうと思ってなどいないし、心もうららかに晴れ渡っているけれど、この「夏に着る着物」みたいな存在を僕は愛おしく思う。それを着ようと楽しみにすることで、死ぬのを夏まで延長したりできるほどのものなのだ。それを生きる足がかりにするという心意気も愛おしいし、こうした文章を編み出してしまう不安定な太宰もまた愛おしい。

誤解と混同を恐れずに言えば、青山美智子さんの作品もこの「夏に着る着物」のような力を持っていると思う。この記事の冒頭で僕は『月曜日の抹茶カフェ』と『木曜日にはココアを』を「『世界が灰色にみえる日』にさえ読むのをおすすめしたい」と語ったのだけれど、青山先生の物語にはそういう「曇りを晴れに変えてしまう」力があるのだ。苦しいときや心が晴れない時も、青山作品群にふれて「縁」のパワーをもらえば元気がでる。「明日はいいことがある」「もう一回やってみよう」「これは成功の下準備だ」・・・そんな風に思わせてくれる力が、青山美智子さんの物語に流れているのだ。

僕も、太宰が夏に着る着物を楽しみに生きたように、次の青山美智子さんの作品が出ることを期待して生きていこう・・・ってこの記事を書いているときに新刊情報が出ましたやん!

すごい!はやい!!「夏に着る着物」、思ったより来るのはやい!!いやはや、元気が出るタイミングが多いのはとてもいいことです。『赤と青とエスキース』、たのしみですね!

「エスキース」とはフランス語で絵画とか下絵を指すようですが・・・。なんだか今までとは異なる雰囲気の作品感が伝わってくるような気がします。これで、11月10日までは生きられそうです・・・。

*****

さて、実は9月の締め切り原稿(1万字程度)が全然終わらず(まだ書き出してもいない)気持ちが切れそうになっていたのですが、こうして『月曜日の抹茶カフェ』のレビューを書いていたらあっという間に1万字を超えたので俄然やる気が出てきました!

僕の原稿と青山美智子さんの作品とは全然関係ないようですが、きっとどこかで繋がっているのでしょう。これもまた「縁」ということで、9月締めきりの原稿、10月の試験、11月のビッグ・イベント(8/30生まれの新生児育児が最優先☆)と盛りだくさんな小宮山自身の日常を乗り越えていきたいと思います。

すごい!まさにグッドの連鎖、ナイスうずまき!

これぞ、青山作品群の力ということでしょう。

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