「天職はない」と私が思う理由
こんにちは。
米国大統領選挙に決着がつきましたね。
日本では「人間、引き際が大切」という美徳があります。たしかに不透明な部分が多い選挙ではありましたが、はたして現大統領は、どんな引き際を見せてくれるのでしょうか。
さて、今回のテーマは、いつものようにエグゼクティブ向け、というよりも、
「エグゼクティブから若手に伝えてほしい」と思っている内容をつづります。
■空々しく聞こえる言葉たち
まずは、エグゼクティブの方々にお願いがあります。
若手社員たちに対してけっして、「主体性を発揮しなさい」とは言わないでください。
理由ですが、
彼らの大半が、そんなことを言われなくてもわかっているからです。
それよりも、そんなエグゼクティブに問われるのは、
「主体性を発揮するってどういうことか、説明できますか?」
ということです。
「主体性を発揮するとは、こういうことだよ」
と、自らが行動によって示しつづけることです。
具体的に、明快に、伝わるように、心に響くように、伝えられないのであれば、
黙っていた方が御身のためです。
この「主体性」という言葉に代表されるように、職場には多くの
「意味も明確にわかっていないのに、人には伝えたくなる言葉」
がたくさん存在します。
・社員全員、一丸となって
・多様性を活かして
・創造性豊かに
などなど。
以前からこのコラムでは、
エグゼクティブにとって「言葉の吟味」をすることの重要さをお伝えしていますが、
よくある常套句や慣用句ばかりを若手社員に投げかけても、
どこか空々しく響いてしまうのは、
こちらが、「借り物の言葉」ばかりを使っていることが、彼らに見透かされているからです。
そうした中で、私からエグゼクティブの方にお願いしたいことは、
あるひとつの事実を社員の皆さんに伝えてみていただきたい、ということです。
■鍛えるべきは「職業観」
それは、「職業観を鍛えなさい」ということです。
主体性を発揮しろとか、強みを活かせとか、失敗を恐れるなとか、
こうした常套句よりも、
もっとひとりひとりの心の奥底に時間をかけてしみわたるような投げかけです。
職業観、というのはよく聞く言葉です。そしてこの言葉は、現代の造語で、もともとは「職業意識」という言葉から派生しているようです。
職業意識とは広辞苑によると、
「職業に従事する者が、自己の職業に対していだく特有の意識や考え方」と記されています。
では、職業観という言葉は、ここからどういう方向に派生したのか、ということですが、調べていくとおおむね「職業に対していだくイメージや、感じる価値」といった意味に集約されます。
つまり、職業観とは、
自分自身が自分の職業というものに対してどんな価値を感じ、どんなイメージを持つか、
という、あくまで主観的な職業への見方、と言えるでしょう。
もっとわかりやすく言えば、「自分の職業に対して自分なりの明確な主観を持つ」ということが必要です。
今あらためて、以下の質問について自分なりの答えを考えさせてみてください。
・自分の職業の価値とは、何だと思いますか?
・その価値を確かなものとするために、何ができますか?
答えが出るまでに、それなりの時間がかかる質問だと思います。
世の中には、数限りない職種が存在します。誰しも、縁あってその中の一つあるいは二つを選び、みずからの職業としています。
とはいえ、むろん、なかにはこう答える人もいるでしょう。
「自分で選んだのではない。会社によって配属されたから、今の職業に従事しているんだ」と。
たしかに、それも事実ではあると思います。
しかし、その考え方に固執するかぎり、上記の質問には答えを見出せず、確固たる職業観を持つことは難しいのではないでしょうか。なぜなら、職業観とはあくまで“主観”だからです。「職業を、人に押しつけられた」と考えていることは、「自分でない外部の意図に依存している」という態度を選んだということになります。
職業観が持てない、つまり職業に対して“依存体質”を持ったままだと、いつまでも「言われたことしかやらない」、あるいは「不平不満、批判ばかりもらす」という態度をとり続けることになります。
誰かに言われないと動けなくなってしまえば、変化を読み取る力を失います。変化に対して反応ができなくなり、会社や組織が大きく動く際に、かえってお荷物になってしまうことだってあります。
繰り返しますが、職業観とは、みずからが選ぶ主観で良いのです。
そしてその主観によって、自分の職業に誇りを持ち、自分自身に自信が持てる状態、いわゆる“自己効力感”を持つことができれば、尚良いのです。
そして、自分なりの職業観を彼らが持つための、最初にして最大の決め手を紹介します。
■天職は存在しない
それは、
「天職なんて存在しない」という事実を、
腹の底から納得することです。
まるで、若手の夢を打ち砕くような表現に聞こえるかもしれませんが、なぜ私がそう考えるに至ったかを説明します。
私は今でこそ会社を経営している身ですが、おおかたの読者の方と同じように、私も会社員だった時代がありました。
23歳で社会人となり、42才で起業するまで、じつに6回の転職を繰り返してきました。そんな私の転職理由といえばほぼ一貫したもので、「今よりもやりたい仕事が見つかったから」といったものです。
しかし、特に20才代の私について正直に白状すれば、
「今の仕事は自分に向いていない。もっと外に、自分らしさを発揮できる仕事があるはず」と、自分を信じ込ませていたように思います。
目の前の仕事は、本当に自分がなすべき仕事ではない。自分が人生をかけて取り組むべき仕事は、外の世界のどこかにある、と。
そして、いつも外部セミナーや勉強会など、探しては通い続けていましたし、特に20才代のときはそうした落ち着きのない動きが顕著だったように思います。
たしかに、転職を通してさまざまな職業を経験しましたし、そのおかげで今の自分が多種多様な業界についても構造の理解が素早くできる、という力を得たのを感じています。
しかし一方で...
当時、「たったひとつの仕事すらモノにできない」自分に、劣等感のような感情を抱くようにもなっていました。
年齢だけはそれなりに重ねているのですが、ひとつの仕事に対してじっくりと腰を据えて向き合う、ということから遠ざかってきたためか、あるときふと、「自分には職業観というものがない」とういうことに気づいたのです。
それは、30才代ももう半ばに差しかかろうとしていたときのことでした。心の底から焦りました。
■職業観への悟り
そしてついに、職業観というものについて“悟り”のような感覚を得たとき、転職をすることをやめました。
その悟りとは、「天職などなかった」ということです。繰り返し“天職”を求めて“転職”を重ねてきてたどり着いたのは、そうした元も子もない事実です。
天職など探したって存在しない。これが私の悟りです。
しかし同時に、ほんの一握りの人たちは実際、「これが自分の天職だ」と断言できるような、生き生きとした働き方をしているのも事実です。
そんな彼らと当時の私には、どんな決定的な違いがあるというのでしょうか。
それは、
「今のこの仕事こそが天職である」と
自分を思い込ませることができるか
という違いです。
つまり、どんな仕事であれ、今与えられているこの仕事こそ自分の天職だと、みずからを確信させられるほどの強い意志があるのではないか、と思うに至りました。
外に天職を求めているうちは、天職は見つからないのです。
じつは天職とは、今目の前にあるこの仕事なのだと、私は自分に言い聞かせるようになっていきました。
そして、その感覚がしだいに自分にしっくりくるようになると、面白いことが起き始めました。
まず、自分の仕事そのものに感謝の念が湧いてくるようになりました。
うまくいってもいかなくても、この天職を通して自分に起きるさまざまなことが新鮮に感じられ、自分が天職を通して成長させてもらっている、なにより、天職に巡り合えているという、えも言われぬ感謝の念が湧くのです。
そして、変化はまだまだありました。
やはり、仕事自体を楽しく感じ始めます。天職だと思っていると、この仕事の色んな側面に好奇心が湧いたり、ちょっとした課題に気づいたりするようになりました。
つまり、そこかしこに自分なりに手を施す余地が生まれ、創意工夫の芽が見つかる、という状態です。
さらに良い変化は起きました。職場での人間関係が、劇的に良くなったのです。
これは今の私にとっても、かけがえのない財産となりました。それまで反目していた上司、いらだちを覚えていた部下、こうした職場仲間と、仕事をもっと楽しむため腹を割って話すことに、抵抗を感じなくなったのです。
こうして、私はようやく自分なりに職業観を持つことができるようになりました。
今の仕事こそ天職。職業観を鍛えるために私がやったのは
たったひとつのこと。
仕事に対する見方を変えた、それだけです。
お金も時間も、人の助けもいらないのです。今、この瞬間に、できることです。
もちろん、仕事に対する多少の不平不満は誰だって持っているでしょう。ただ言えるのは、職業も人生も、「自分が今何を見ているのか」によってすべてが決まる、ということです。
「つまらない仕事だ」と見るのか、それを飲み込んで「素晴らしい天職だ」と見るのか。
たったそれだけのことで、後にやってくるリターンは、天地ほどの差があるでしょう。
今回は長いコラムになってしまいしたが、
では具体的に、私が提唱している、仕事を天職にかえるための取り組みは、機会を変えてお伝えできれば幸いです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)
人間は互いにだまされ合っているのでなければ、
社会生活を持続していく事は出来ない。
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