経験価値と余剰と贈与(Gift)・・・骨髄バンクドナー経験から
私は利己的な人間だと強く実感したドナー経験から・・・
私は2005年に骨髄バンクにドナー登録し、2013年に、実際に骨髄を提供しました。その経験を以前のnote記事で「私(自分)は、利己的な人間なんだ、利己的な考え方をする人間なんだ」と、強く実感した経験となったことを書きました(※「私とは・・・骨髄バンクドナー経験から)。ただ、そう考えるようになって以降、ペイイットフォーワードという記事と、ある2冊の本との出会いで、さらにその経験を深堀りしたり、自分の生き方について深く考えるようになりました。具体的には、私の提供した骨髄液は、贈与(Gift)であり、余剰を帯びていること。ただ私の骨髄液はそもそも親からの贈与(Gift)であり、もらったものを人に分けるということは、人として非常に普通な行為であること。特に対象となる方が困っているのであればなおさらです。近所同士で、トイレットペーパーの貸し借りをするようなものです。ただ、対象の方に直接返せないところが違っていて、交換する関係にない状況から考えると、この経験によって私が得たのは「経験価値」であるが、そういった贈与(Gift)に帯びた「余剰」こそが経済の基本となる要素であることです。人が社会の中で生きていくために、非常に重要なことだと思いますので、このあたりを今回お話していきたいと思います。
ペイイットフォーワード『もらったものは返したいのが人間』
みなさんは、『ペイイットフォーワード』という記事をご存じでしょうか?(https://www.cnn.co.jp/fringe/35052724.html)2014年にフロリダ州のスターバックスで、2日間で750人が他人にコーヒーをおごったエピソードです。ドライブスルー型の店舗を訪れた60歳代くらいの女性客が、次の車に乗っていた客のコーヒー代を支払っていったのが始まりだったようです。次の車の人が、またその次の車の人におごって、さらにその人が次の車の人におごって・・・と続き、750人続いたという話です。ドライブスルーなので、おごってくれた方は支払いが終われば当然どこかに行ってしまう訳ですし、呼び止める術もないですし、そもそも通常であれば不意のことで、どんな車だったけ?というレベルだと思います。ただ、誰かに何の見返りもなくおごってもらって、人として何かお返しをしたいという気持ちから、次の車の方におごるという発想になり、結果750人続いたということです。私はこの話を聞いた時、自分だったら次の人におごることができたかな?もしかしたら、ラッキー!こんなことってあるんだね。って感じで終わってしまって、次の人におごろうという気持ちにならなかったりして?一番最初におごった人は何のお返しももらっていないじゃん!などと思ったりしてしまいます。
自分はやっぱり利己的な人間だ
このように世の中には、何の見返りも求めずに、災害があればボランティアに行く人もいれば、ドライブスルーで次の車にコーヒーをおごりたいと思う人もいる。そんな中私は、骨髄バンクのドナー経験を通して感じたことは、「私(自分)は、利己的な人間なんだ、利己的な考え方をする人間なんだ」と強く実感したこと。この差は何だろう?と考えました。もしかしたら、私は3兄弟の次男だったので、兄と妹の間で比較的いろいろ我慢しながら幼少期を過ごしていたからなのか?もしくは、大学を卒業してすぐできちゃった結婚して、さらにその翌年に次男も生まれ、24歳で2児の父となり、大黒柱としてお金をしっかり稼がなきゃと思ってずっと仕事してきたからなのか?またもしくは、印刷会社で営業をしていた時に少しでも利益を上げるために日々、数円レベルで見積もりと戦っていたからなのか?いつの間にか自分にとっての経済的な価値ばかりを求めるようになってしまっていたのかもしれない。その状態で、嫁さんの正義感による後押しだけで骨髄バンクに登録し、適合したけど断るのも何だし、人の役にたつなら・・・という感じで骨髄を提供して、、なおかつ分かりやすい見返りなんてものは当然ない行為なので、結果的に自分の「利己」に気づいた結末に至ったんだと思う。
自分の利己に気づいただけではない。経験価値と贈与と余剰という学び
その後私は、2冊の本とであって、このドナー経験という経験価値から、もっと多くのことを考え、自分の生き方まで考え直すようになりました。まず1冊目は「父が娘に語る経済の話(ヤニス・バルファキス=著)」です。お金で価値がつく商品は市場価値がつき、『交換価値』を反映したもの。一方で売り物ではない場合(例えば、夕日を眺めることや仲間や家族と笑い合うことなど)は『経験価値』として語られています。私は『経験価値』という価値観を学ぶことで、私のドナー経験に対する捉え方は大きく変わりました。当然、骨髄でお金のやりとりをするはずがないので、これは明らかに『経験価値』とクリアに定義づけできます。ではその経験価値が、自分にどのような影響を与えていて、どのような価値をもっているか?それが次の問いです。そこで登場するのが2冊目「世界は贈与でできている(近内悠太=著)」です。この本では、お金で買えないものを『贈与(Gift=贈り物)』と呼んでいます。そして『贈与』には、商品価値からはみ出す何かがあると無意識に感じており、商品価値や市場価値には回収できない『余剰』を帯びていると述べられています。例えば、腕時計を親しい人から誕生日プレゼントでもらったとして、腕時計という物自体は誰でもお金を支払えば買える商品ですが、それを「贈り物」としてもらったことにより状況が一変する。つまり、落として壊したり、無くした時に、その親しい人のことや気持ち、プレゼントしてくれた経緯など関連するあらゆることを思い出して、「なぜ壊れないように大事に扱えなかったのか?」「なぜもっと無くさないように気を付けなかったのか?」という後悔が生まれると思います。その商品自体ではなく、その物が『贈り物(贈与)』だった場合にそういう『余剰』を帯びているということであり、その『余剰』が単なる商品だった腕時計に、唯一無二性を与えるということです。私のドナーのケースで考えると、私の骨髄液は『贈り物(贈与)』であり、移植を受けた患者さん側からすると、それはきっときっと、いろんな思い『余剰』を感じられているだろうし、患者さん側からも私がどこの誰かも全く分からないことは、その余剰を自分の想像次第でどんなものにも変えられるでしょうし、というか命が救われるかどうかの局面で病気と闘っている中、どんなことを考えていたんだろう?と想像するだけで、何とも言えない辛さや、私としてはできることはやったにも関わらず、助かっていなかったら私の骨髄が力不足だったのか?など、複雑な気持ちになったりもします。また、この本で語られている重要なもう一つのポイントとして、「贈与はもらうだけでなく、贈る側(差出人)になることの方が時として喜びが大きい」ということです。恋愛の場面で、好きな人にプレゼントを渡そうとしたけど、それを受け取ってもらえないという悲劇が起こることがあります。贈与の受取の拒否。つまり、関係性の否定で「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」という宣言になるということです。『贈与』は『余剰』を帯びているために、もし受け取ってくれたら、「この前もらったお礼に・・・」と、好きな人からお返しがあるかもしれないですね。そうすると、「再度そのお礼に・・・」と贈与し合う関係ができて、つながりをもつことができます。その『余剰』を帯びている分、受取を拒否された時の衝撃も、(単なる物としての話ではなく)心にまで及ぶような大きいインパクトがあるということですね。
経験価値こそが、本当に自分に必要なものだったのかもしれない
これを私のドナーのケースに置き換えると、私はドナーの経験を通して、どこのどういう方かは分からないですし連絡をとることもできませんが(もっと言うとご存命かもわかりませんが)移植を受けられた患者さんと、かけがえのない唯一無二の深い関係で結ばれていると感じます。今は、これこそが、私の『経験価値』だと感じています。また少し不思議なことに、1冊目のヤニスさんの本では、『余剰』こそが経済の基本となる要素であると述べられています。これは1万2000年前に人類が農作物の生産を始めたという文脈で『余剰』を語られているので、『贈与』に帯びている『余剰』とは違った捉え方になるとは思いますが、『余剰』がビジネスの成功の鍵になるケースは、2冊目の近内さんも語られています。おそらく、人が自分そのものや、自分の価値を考える時、『経済的な価値(交換価値)』だけでなく『経験価値』、そして『贈与は余剰を帯びていること』は切っても切り離せない関係にあるんだと思います。今、私は、私自身のドナーの経験から考えさせてくれることは、移植を受けられた患者さんとずっとつながっているという『経験価値』がある以上、これからも存在し続けて、私の考え方や生き方を、深く学び、育ててくれていると感じています。