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世界は、生まれ変われるか。映画『怪物』が描く切実な「問い」について。

【『怪物』/是枝裕和監督】

『怪物』。とてもセンセーショナルな作品名であると思う。しかし僕は今作を観て、誰が「怪物」であるかを探そうとすると、この物語の本質を見誤るような気がしてならなかった。

そして、脚本開発の段階において、今作の脚本を務めた坂元裕二が付けた仮タイトルの一つが『なぜ』であったことを知った時、この物語についての解像度が一気に高まったような気がした。また、今作の音楽を担当した坂本龍一が、是枝裕和からのオファーを引き受ける際に、「この映画のいいところは、答えが出ないところだ。」と返答したことを知り、僕の中である確信が芽生えた。

その確信とは、今作は、答えについてではなく、問いについて描いている作品である、というものだった。つまり、第1幕、第2幕に次ぐ第3幕に至るまで巧妙に包み隠されていたように思えたある真実は、決して今作の答えやオチなどではなく、とても壮大で深淵な、そして切実な問いそのものであった、ということなのだと思う。

時に私たちは、無意識の内に、特定の誰かを「怪物」として断罪しようとしてしまう。また時には、誰の心にも「怪物」は潜んでいる、といった生ぬるい一般論をもってして、複雑に入り乱れた世界の構造を解き明かすことを諦めてしまう。社会的な生き物である私たちは、そうしたそれらしい答えを出すことによって、知らない間に見えない分断を深めてしまう存在であり、そして悲しきことに、特にこの数年間、そうした溝は全世界的に各所で深まり続けてしまっている。

そうした数々の答えによって分断された世界を再び結び直し得るもの。それこそが問いであるのだと僕は思う。深く問うこと、そして、自分自身に、世界に向けて、諦めずに問いかけ続けること。今作は、そうした問いの力によって、未来を少しでも明るく照らし出そうとしている作品であると思えた時、僕の中で、この物語に対する見方は大きく変わった。

振り返れば、今作の終盤で、ある登場人物が語った「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの。」という台詞は、この物語の中でほぼ唯一の、答えそのものに迫る言葉であったように思う。そして、この言葉から逆算する形で改めて今作のテーマについて考えた時に、この映画は、「幸せとは何か?」「誰しもが幸せを掴み取ることはできるのか?」について懸命に問いかけ続けている物語であると気付くことができた。

是枝と坂元は、それぞれの方法論を通して、現代社会における生きづらさや、既存の価値観と相容れない新たな「幸福論」を描き続けてきた作家である。より具体的に言えば、不条理で、不寛容な現代社会に対して、様々な登場人物たちの切実な生き様を描くことを通して、「幸せとは何か?」「(僕は)(私は)幸せを掴み取ることはできるのか?」と愚直に問いかけ続けてきた作家である。それぞれの近年の過去作を例として挙げれば、『万引き家族』や『ベイビー・ブローカー』も、そして、『大豆田とわ子と三人の元夫』や『初恋の悪魔』も、それぞれの形で新たな「幸福論」を懸命に打ち出すような作品であった。

先ほど、今作は、答えではなく問いについて描いている作品であると綴ったが、2人がこれまでの数々の作品の中で描いてきた問いには、いつだって、変わるべき世界に向けた願いや祈りが内包されていた。もちろんそれは、今作についても同じである。湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)が、いつかこの世界のどこかで、「幸せとは何か?」という問いに対する自分たちなりの答えを見つけられますように。そのように願い、祈っているのは、きっと是枝と坂元だけではなく多くの観客たちも同じはずで、その意味で、問いかけることは、真に目指すべきビジョンを示すことに近い行為なのかもしれない。そしてそれこそが表現者としての使命であることを、2人は誰よりも深く理解しているのだろう。

是枝は、坂元から受け取った脚本の台本の1ページ目に、「世界は、生まれ変われるか」という一行を印刷したという。その問いは、これまで社会的なテーマに次々と挑み続けてきた2人にとって、共通の、そして永遠のテーマであり、きっと今作は、そうした自問に対する2人なりの決意と覚悟の表れなのだろう。「世界は、生まれ変われるか」その切実な問いかけに、私たちが、そして世界が胸を張って堂々と答えることができるその日まで、表現者たちの闘いは続く。



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