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【徹底考察】 『Mank マンク』が唱えた「映画の魔法」とは何だったのか?

【『Mank マンク』/デヴィッド・フィンチャー監督】

『セブン』(1995)、『ファイト・クラブ』(1999)、『ソーシャル・ネットワーク』(2010)、『ゴーン・ガール』(2014)。

数々の鮮烈な作品によって、僕たちの映画観を不可逆的にアップデートし続けてきた名匠 デヴィッド・フィンチャー監督。彼の6年ぶりの新作映画となる『Mank マンク』は、まさに、全世界の映画ファンが心から待ち望んでいた一作である。

しかし今回の新作は、極めてハイコンテクストな作品であり、観客に一定の(かつ、かなり高度な)リテラシーを求める。順を追って解説していきたい。



●『Mank』が描くテーマは何か?

今作のテーマは、オーソン・ウェルズ監督の映画『市民ケーン(原題:Citizen Kane)』(1941)である。その年のアカデミー賞脚本賞に輝き(逆に言えば、全編において革新的な演出や撮影技法が冴えわたっているにもかかわらず、脚本賞以外の賞を受賞することはなかった)、その後の映画界に絶大な影響を与え続けている歴史的傑作だ。そして今回の『Mank』の主人公が、『市民ケーン』のクレジットに共同脚本として名を残している脚本家 ハーマン・J・マンキウィッツ(通称:マンク)である。(なお、主演を務めるのは、名優 ゲイリー・オールドマン)今作は一言で表してしまえば、マンクが『市民ケーン』(初稿執筆時の仮タイトルは『アメリカ人(American)』)の脚本執筆、および、アカデミー賞脚本賞受賞に至るまでの物語なのだ。

『市民ケーン』は、現在においてもクラシックとして愛され続けている名作であることは間違いないが、その製作背景や1930年代のアメリカの社会情勢(1929年の世界恐慌を起因として広がった貧富の差など)、また、脚本家 マンク自身のパーソナリティーについて、つまり、『Mank』を鑑賞する上での基礎知識について、予め幅広く有している人は決して多くはないだろう。

非・商業的でエッジーなこの企画(しかも、モノクロ映画)は、たとえフィンチャー作品であったとしても、とても大手メジャースタジオ向けのものであるとは言い難い。現行の映画界において絶対的なポジションを確立したNetflixとタッグを組んだからこそ、初めてこの野心的な企画が成立したのだと考えられる。ちなみに、フィンチャー監督とNetflixのタッグが実現したのは、『ハウス・オブ・カード 野望の階段』『マインドハンター』『ラブ、デス&ロボット』に続いて4度目。『Mank』は、両者の長きにわたるタッグの一つの美しい結実であるといえる。

なお、『Mank』の脚本としてクレジットされているのは、2003年に他界したフィンチャー監督の実父であるジャック・フィンチャーだ。その意味で、この作品はフィンチャー監督にとって、まさに悲願の企画であったのだ。


● 古典的名作『市民ケーン』とは?

今作を鑑賞するにあたっては、事前に『市民ケーン』を観ておくことを強く推奨するが、未鑑賞の場合であっても、以下のポイントは予め押さえておくべきであると思う。

♦︎新聞王として名を轟かせたケーンが、権力を求め、やがて孤立していく物語である。
♦︎ケーンが死の直前に残した言葉"バラのつぼみ(Rosebud)"を巡って、過去を回想(フラッシュバック)する構成となっている。
♦︎"バラのつぼみ"とは、ケーンが幼少期の頃に遊んでいたソリに記されていた言葉である。
♦︎そのことが明らかになるラストシーンは、人生を懸けて富と名声を追い求めたケーンは、幼少期に両親のもとを離れて以降、結局は真実の愛を得ることはなく、ずっと深い孤独を抱いていたことを示唆している。
♦︎ケーンは、実在した新聞王 ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしている。(政界進出を目論むが、愛人とのスキャンダルによって失脚する、など、ケーンとの共通点は多数)
♦︎今でこそ歴史的傑作と評される『市民ケーン』だが、その年のアカデミー賞において、脚本賞以外の賞を受賞することはなかった。それは、自身がモデルとなっていることを知り激怒したハーストが、スタジオに圧力をかけて上映妨害した(かつ、自らが運営する新聞を通して批判記事を流した)から、とされている。


●フィンチャー作品と『市民ケーン』の共通点とは?

では、フィンチャー監督にとって、映画『市民ケーン』は、いかなる意義を持つテーマであったのだろうか。これまでの彼のフィルモグラフィーを振り返ると、いくつかの作品に、同作との共通点、および、同作から影響を受けたと思われる点を見い出すことができる。

『ソーシャルネットワーク』(2010)は、その物語構成において、まさに現代版『市民ケーン』と呼ぶべき作品であった。「ある人物を起点として幕を開けたムーブメントが加速/現象化していき、最後には、制御不能な混沌へと向かう」という展開をとってみれば、『ファイト・クラブ』(1999)にも通じているといえる。

また、「ある人物が残した謎を巡る」物語という意味では、『ゴーン・ゴール』(2014)の前半部分とも重なる。

『市民ケーン』が、その後の映画界に絶大な影響を与えた作品であることは前提としても、このように、同作とフィンチャー作品との繋がりを挙げていけばキリがない。その意味で、彼が『市民ケーン』の製作過程を描く『Mank』を手掛けることは、まさに一つの必然であったのだと思える。


●今作が唱えた「映画の魔法」とは?

ここからは、今作『Mank』に秘められた多層的なメッセージについて考察していきたい。

劇中で、ある人物が『市民ケーン』の初稿を指して、「時系列がバラバラ」「会話劇ばかりが続き、あまりにも台詞が多すぎる」とクレームを告げるシーンがあるが、これらの特徴は、そのまま今作『Mank』にも通じている。現在(1940年)と過去(1930年〜1937年)を、回想シーンを挟みながら何度も往来する構成となっており、かつ、登場人物が非常に多いため、少しでも気を抜くと、本筋の理解が追いつかなくなってしまう。

しかし全編を俯瞰して観ると、今作を通して描かれている真のテーマは、極めてシンプルなものであることが分かる。それはつまり、「映画とは何か?」「なぜ人は映画を作るのか?」という原初的な問いかけだ。

改めて言うまでもなく、映画は、カメラを通して現実を映し出す(切り出す)ことで成り立つメディアであり、身も蓋もないことを言ってしまえば、所詮、作り物(フィクション)である。たとえ、その作品がドキュメンタリーを謳ったものであったとしても、製作者の視点が介在する限り、そこには一定の作為が含まれてしまう。

しかし今作において、「暗闇の中で観たものを、観客は真実であると思い込んでしまう」という台詞があるように、映画には、観客(および、世論)の認識変容/行動変容を促す力がある。事実、劇中においても、そしてこの現実社会においても、映画がプロパガンダとして利用されるケースは少なくない。「良識ある有権者が、この映像に騙されるはずがないよな?」という悲痛な台詞は、映画が為政者たちによって悪用されてきた史実を踏まえると、ひどく胸を打つ。(そしてこの問題提起は、悲しいことに、ネット上に無数のフェイクニュースが横行する2020年においても通じているといえる。)

映画は、作り物であり、時に社会的に悪用されてしまう可能性さえある。それでは、映画の存在意義とは何なのか? なぜ、歴代のクリエイターたちは、人生を懸けて映画を作り続けてきたのか?

今作の中で、マンクは一つの回答を示している。

たとえ単なる作り物であっても、たとえ世の中を混沌に陥らせてしまう可能性があっても、この世界には、人生を懸けて語るべき「物語」で溢れている。そして、そこに込められたメッセージに触れ、心を動かされた観客一人ひとりが変わっていけば、いつか世界は良い方向へと変わっていく。それこそが、「映画の魔法」であると今作は訴える。

『市民ケーン』では、権力を追い求めた結果、結局は心からの幸福を掴み取ることができなかった孤独な人生が描かれるが、『Mank』は、まさに対照的である。自身の脚本家人生を全て懸けて、巨大な権力に対して一世一代の大勝負に挑むマンク。そのストレートに燃える王道の展開に、思わず胸が熱くなる。いくつもの逆境を越えながら、自身の「最高傑作」を世に送り出そうとする映画クリエイターとしての生き様に、心を奮い立たされる人は、きっと多いはずだ。

今作『Mank』の主人公 マンクが、確固たる信念をもって映画製作に挑む姿に、フィンチャー監督自身の姿を重ねて観ることもできる。その意味で今作は、フィンチャー作品の中でも、最もエモーショナルな一本なのかもしれない。



●フィンチャーが仕掛けた「メタ構造」の仕掛けとは?

と、ここまで書いておきながら、最後に結論を覆してしまう形にはなるが、この感動的な「物語」それ自体が、やはり結局はフィクションであることを忘れてはならない。

今作においては、場面が移り変わるタイミングで、スクリーンの右上に、フィルム撮影された映画に特有の「チェンジマーク」が映し出される。もちろん、デジタル撮影においては「チェンジマーク」など発生しようもないので、これはフィンチャー監督が意図的に仕掛けた演出であることが分かる。その意図を察するに、観客に「今、私たちが観ているのは、『映画』である」ことを再認識させるためのものなのだろう。(ちなみに、今作の終盤には、「ここからが第三幕の山場だ」といった意味の台詞があるが、あれは、今作『Mank』の脚本構成についてのメタ的な自己言及であったのだ。)

こうした演出によって、僕たち観客は、常に映画製作(および、映画鑑賞)という行為のメタ的な構造と向き合うことになる。事実、『Mank』は、史実をベースにしているとはいえ、あくまでも現実と虚構が入り混じったフィクションなのだ。史実を調べると、終盤におけるマンクとオーソンのクレジット表記を巡る対立シーンなど、この「物語」を過度にドラマティックに演出するために、いくつかの脚色が織り交ぜられていることが分かるだろう。(もちろん、これは今作に限った話ではなく、ほとんどの「伝記映画」にも同じことがいえる。)

『ファイト・クラブ』では、登場人物がスクリーンを超えて、直接的に観客に台詞を放つ演出もあったが、今作含め、やはりフィンチャー作品を鑑賞する上では、一切油断することなどできないのだ。観客に、常に批評的な鑑賞姿勢を要請するという意味で、『Mank』のハードルは、過去作を大きく上回っているともいえるだろう。

「映画の魔法」を信じるか、信じないか。結局、その答えは誰にも分からないけれど、この『Mank』を世に送り出したフィンチャー監督、および、Netflixを、僕は絶対的に信頼している。




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