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コスメは語りはじめたVol.3「さようなら、美白」

美白からブライトニングの時代へ

マリコム(以下、コム):今回のテーマは「美白」です。美白という言葉には、定義や背景や解釈、そこから派生する問題など語り口が様々にありますね。美容界の「おばけ概念」のような言葉ですので、ひとつひとつ紐解いていければと思います。つやちゃんは美白と言うと、まず何を思いうかべますでしょうか?

つやちゃん(以下、つや):まず、エイジングケアと並ぶスキンケアの二大テーマだということですよね。なぜこの二つが二大テーマになっているかと言うと、季節性の肌悩みと直結しているから。どのブランドも、乾燥悩みが増すAWにはエイジングケアを、紫外線悩みが増すSSには美白の商材を投入してきます。ただ、おっしゃる通り美白というのはビッグワードでありおばけ概念でもあり、様々な価値観の対立を含むテーマでもあるので語るのにちょっと慎重になってしまいますね。できるだけ誤解が生じないよう、まずは大局的な視点での状況整理から入っていきましょうか。そもそも自分は2010年代半ばまでの美白概念が窮屈すぎて、以前はあまり積極的に語りたくないジャンルだったんです。ただ、ここ数年は美白というのがトレンドとしてやや退潮気味になってきている。皆が求める肌イメージがどんどん「白さ」から「明るさ」へシフトしていて、美白というよりも全顔の透明感やツヤというところに関心が移っていますね。つまり、以前の美白というのが「黒か白か」という非常に二項対立的で機能性重視な価値観だったところに、近年は「光」や「輝き」「明るさ」という新たな軸が投入されてようやく面白くなってきているという印象です。

コム:私もそのように思います。2000年には「美白の女王」として親しまれた鈴木その子が亡くなりましたが、この頃は「白くなればなるほど良い」といった考え方をした製品が多かった。たとえば酸化チタンを配合して、顔料で一時的に白く見せようとするスキンケアクリームなどもよく見かけました(今でも時々見かけますが…)。こうした考え方が、2010年代半ばから変わっていったというのは、おそらく2013年の白斑事件が直接的に関係しているでしょうね。カネボウが強力な有効成分を用いた結果、白くなる部分と白くならない部分がまだらになってしまう白斑症状が使用者の肌に出て、大規模な製品回収がおこなわれました。この事件の反省から、美白は白くなればいいという単一的な発想から、そもそも「白」が何から生まれているかといった各社独自の解釈に分かれていったように思います。

つや:そうですね、そういう意味では、美白は美の多様性が近年最も顕著に進んだジャンルだと思います。白斑事件に加え、2010年代末にはブラック・ライブズ・マター(以下BLM)によって人種差別というテーマにおいても美白という概念を見直すきっかけが生まれました。結果、業界としてもついに美白という呼称をやめて「ブライトニング」と呼ぶようになった。大きく、その2点の外的要因によって2010年代の美白コスメは価値観の変容を迫られるようになりました。ただ、BLMが背中を押す契機にはなったものの、2010年代の半ばから少しずつ「黒か白か」のような二者択一の価値観は崩れはじめていた印象です。2019年に約10年ぶりに国内で美白有効成分の認可が降りた際も、以前ほどの盛り上がりは見られなかった。そのあたりの変化は美容メディアにも現れていて、『美的』が2019年5月号で<透明感と艶で魅せる肌>という特集を組んでいます。これはとてつもない変化で、つまり<夏を迎え撃つ、徹底美白!>とかじゃなくなったということですね。そこには、白という色の原点に立ち返ったうえでの転換がある。色には彩度と明度があって、白は無彩色なので当然ながら明度しかない。この世にある全ての色の中で白が最も明度が高い、つまり明るい色なわけです。そう考えると、本来はいかに肌に明るさを生んでいくかというのが健全な発想のはず。でも、美白は長らく、なぜか明るさよりも色素を操作して白さを作っていくという手段に躍起になっていた。そんなの不自然に決まっているんです。だからこそ、シミを消したりする方法は美容医療にとって替わられつつありますね。それは正しくて、コスメは白さではなく明るさやツヤといった、コスメでしかできないヘルシーでアートな方向にいった方が良いに決まってるんですよ。

コム:同感です。ただ、先ほど鈴木その子が2000年に亡くなったと言いましたが、ちょうどその頃まで、90年代はガングロギャルの時代でもあったんですよね。「黒か白か」の二者択一で「黒」を選択することが流行るタイミングもあった。確かに現在の美白ないしブライトニングはヘルシーで、虚飾に走らず、理に適っています。けれども逆に言えばそこから逸脱しない。色素を操作する不自然さは大胆な逸脱たり得るとも思うんですよね。

つや:なるほど。つまり、色素を操作するくらいわけの分からないことをしているのであれば、もっとトンチキな方向性での美白の変奏があっても良かったかもしれないということか。人類は、そこまでの余裕を持ち得ていなかったのかもしれないですね(笑)。

白?黒?それとも異色肌?

つや:今マリコムさんが指摘されていたように、黒か白かの話で言うと、長い目で見た際に日本人は両方の色への願望を行ったり来たりしてきた歴史があると思うんです。平安時代~江戸時代の成人女性にはお歯黒文化があったし、1960年代後半から1970年代前半にかけて小麦色の肌が人気だった時代もあった。おっしゃる通り、1990年代後半のガングロギャルはまさにその代表的な例ですね。加熱する美白戦争に対してのカウンターとして肌を焼いて黒くするという揺り戻しを起こした点で、非常に大胆な反動だったと思います。一方で、ガングロギャルは行きすぎた美白信仰への反抗でありつつも、そこには異性からのまなざしから逃避するという態度も多分にあったのでしょうね。そんな中で、浜崎あゆみが「appears」(1999年)で白あゆ黒あゆとしてその両方を行き来して見せたことはとても象徴的だった。例えば倖田來未もその後2009年に「Lady Go!」という曲で「日焼け?美白?流行りが気になりますが/日焼け?美白?シミなんて気にしてたら夏が終わる」と歌っている。黒肌を求めるというのは抑圧されてきた女性にとって自由を手にすることでもあり、美白史を考えるうえでは、そもそも女性が男性からどのようにまなざされてきたかという観点を見落としてはいけないですよね。

コム:女性が男性からまなざされてきたことは絵画史を見ても明らかですよね。お歯黒も、肌のことではないにしろ、上流階級の既婚女性に課されていた文化であることを考えると、やはり家長としての男性の視線を否定できません。こうした視線へのカウンターとしてのガングロや白あゆ黒あゆに派生するかはわかりませんが、昨今は肌をピンクや緑に塗る「異色肌ギャル」なる方々もいますよね。彼女たちの発言を見聞きする限りでは、肌の色を白ではない色に寄せようとすることは性的な視線から解放されることにも繋がっていそうです。「異色肌ギャル」はアニメやアバターなど二次元の影響もあってのことかと思いますが。ただ、一方では小麦色に焼けた肌で水着姿になるグラビアに性的な視線が注がれてきたこともまた事実かと。そもそも戦後日本の日焼けブームはおっしゃる通り1960年代のレジャーブームや1980年代のリゾートブームに端を発するもので、ここで言われる日焼けとは屋外における遊びの産物だった。奥の間に控える色白女性の貞淑さが家父長制を支えてきたなら、このときの日焼けを自由や解放と呼ぶことはできるのでしょうが、白くなるのをやめたからと言って、それが必ずしも白さにまつわる慣習を根こそぎ否定するわけではないんですよね。とはいえ時代的にはヒッピー文化との関連もじゅうぶん考えられるので、保守的な白さへのカウンターとしての日焼けもあったかもわかりませんが。それでも、とにかく、安易に二項対立させることは避けたいです。事態はもっと複雑なはずなので。まなざしを受ける肌が色彩のあわいにずっと揺らいできたとは言えるのでしょうが。そのまなざしだって、反復したり、輻輳したり、内面化されたりして、もとは誰の目ん玉だったか今やわかったもんじゃない。良くも悪くも、ですけれど。ところで男性側はどうかと言うと、最近はメンズコスメも増えてきましたよね。メンズのスキンケアでは美白は重視されるのでしょうか?

つや:美白に限らず、メンズスキンケアはどの悩み対応もまだまだ途上にある印象です。メンズはずっとオールインワンに頼ってきたツケがあるから。そこそこ進んでいるのは、せいぜい顕著な肌悩みとしてあがる皮脂や乾燥ケアくらいでしょうか。今後増えていくんでしょうね。マリコムさんの指摘の通り、女性は肌の色一つとっても安易な二項対立でこぼしてしまう繊細な事象が山ほどあるくらいに複雑さを抱えている中で、男性は呑気なものだと思いますよ。ちなみに「異色肌ギャル」のmiyakoさんは、過去にモテるファッションをしなくてはいけない、清楚でなければいけないといった抑圧があった旨を告白されています。その上で、カラフルな色にはアニメだけでなくSFの影響があるともおっしゃっていますね。つまりそれはコスプレとしての異色肌を楽しんでいるということで、サブカルチャーから来る価値観が新たな色を生んだというのが非常に日本的だとも思います。そもそも、人が最も白いと感じる色自体が実は無彩色の白ではない。やや青や紫に寄った白こそを人は白いと知覚していて、有彩色の中でも特に青を隣接させた時が最も白さを知覚するという研究結果もあります。真っ白こそが美しいという考え自体が幻想でしかないんです。その点、美白退潮後の最近のブライトニングのトレンドにおいてはパールやラメで明るさ・輝きを演出するテクニックも出てきていて、わくわくしますね。

「手間」としてのブライトニング

コム:なるほど、やや青や紫に寄った白とは「透明感」のことですね。確かに言葉としては美白よりも透明感のほうがメジャーになった気がしますし、実際、最近では透明感を演出するパープル/ブルー系のコントロールカラー下地を各メーカーがこぞって発売しています。炎症や酒さなどによる赤みを消すのに効果的なグリーン系の下地も、暖色から遠ざかろうとする意味では同様の傾向にあるのでしょう。あるいは、印象派の点描画から色彩の混色に透明感のヒントを得てリリースしたPOLAディエム・クルールの多色ファンデーションやコンシーラーがバズったりと、色彩に対しての感度が近年底上げされているような気がします。パールやラメで明るさ・輝きをもたらすテクニックだって、最近は本当にすごいですよね。今でこそドラッグストアでもハイライト(光を演出するパウダー)が山のように売られていますが、10年前はこんな商品数ではなかった。以前はアメリカのHourglassやイギリスのIllamasquaのハイライトを溺愛していたコスメ通たちが、最近ではTHREE やセザンヌなどのドメスティックや、CLIOなどの韓国コスメも幅広く愛用しています。旧時代の美白と異なり、ブライトニングは単一の色やアプローチによって実践されるものではないということですよね。メイクに限らず、スキンケアにおいても、たとえば資生堂が訴求する「ツヤ」がポジティブな印象を生むことが科学的に検証されているようです。この研究が面白いのは、ツヤとテカリを区別して評価しているところですが…(笑)。先述した透明感を演出するパープル下地だって、肌色や使い方によっては、青白く不健康なイメージを生んでしまう。微細な調整を要求される世界ですね。

つや:でも、よくよく考えたら昨今のブライトニング~ツヤ肌の文脈で「多少のシミやくすみはツヤ感で目立たなくできるんだ」という認識が生まれたのは非常に画期的ですよね。ツヤ感で飛ばせるよねってところが豪快で、いまいちよく分からなくて面白くないですか?(笑)。朝メイクする前にちゃんと美容液を塗ることでツヤ感が出る、みたいなハウツーがありますが、一見全然関係ないと思われるケアがブライトニングにつながるというのがすごい。ただそこで興味深いのは、ツヤがムラになるとテカリになってしまうので、「均一に美容液を塗る」という丁寧な技術がブライトニングを作ることになるという点。基本的にスキンケアはどのジャンルにおいても細やかで丁寧なお手入れが求められるものですが、ブライトニングにおいても丁寧さを要するという点で同様ですね。ツヤって結局は水分と油分でできていて肌の上で動くものなので、ツヤをキープするにはこまめなメイク直しが必要になる。やっぱり手間が大事なんですよね。

コム:確かに、言われてみれば、ツヤでアラを飛ばそうって発想は豪快ですね(笑)。でも心当たりはあるかも。ピーリング(※薬剤で肌の古い角質を剥がす施術)をしたり、高濃度ヒアルロン酸の美容液を塗ったりすると、肌の凸凹が整えられてツヤっとして、そうなるとシミも目立たなくなる気がするんですよね。表皮や角層は積み重なってできているからこそ凸凹を生みますが、これを均一的にならしてある状態を保とうとすることは、本当にこまめな手間を必要とするんですよね。一朝一夕にはブライトニングは手に入れられないってことだ。

つや:そして、まさに過去の美白においても、努力こそが白肌を作るというような言説が長きに渡り受け継がれてきました。そもそも白というものが「元々初めから存在している色」のように思われがちですが、染織史家の吉岡幸雄は、世の中には意図的に作っていく白の方が多いという指摘をされています(岩波書店『失われた色を求めて』)。例えば絹糸というと白を思い浮かべるけど、元々は蛾の吐く糸は茶色や緑色だし、蚕は本来黄色い糸を吐いていた。つまり、交配と改良を重ねて白い糸を人類が意図的に作ってきたわけですよね。やはり白は作り出すものであり、手間がかかるもの、技術を要するものなんだと思います。ブライトニングやツヤもそういったスキンケアの面倒くささを継承している点でやはりアーティスティックだし、だからこそ面白いんだと感じますね。もちろん、忙しい日常においてはその手間に煩わされることも多いですけど。

陽射しと白肌が生む違和感、不気味さ

コム:美白の話なのにここまで紫外線対策に一切触れてこなかったのを不自然に感じていたのですが(笑)、ここでようやく触れることができます。つまり、努力こそが白肌を作るという話題において、美容好きが真っ先に想起するアイテムが日焼け止めです。最近では美容医療の普及と同時に皮膚科医のYouTuberが人気を博しているわけですが、その啓蒙の甲斐もあってか「美白をしたければ毎日室内にいても日焼け止めは必須」という考え方が浸透しています。さらに、毎日塗っていてもマスクや皮脂等で落ちてしまうことを鑑みて、日中メイクの上からいかに日焼け止めを塗り直すかという難題に美容好きは悩まされています。結果的には遮光カーテン・UVアームカバーやUVパーカ・日傘などを併用することでどうにかその難題をうまくすり抜けようとしているわけですが、他方で、なんだか日光が必要以上に悪者として扱われているような気もするんですよね。美白オタクを名乗るとあるYouTuberは、動画の最初に必ず「この世で一番大嫌いなものは日光」という決まり文句を言います。また、紫外線対策ゆえの日光不足にビタミンDのサプリ接種を推奨する医者もいます。確かにシミは作りたくない。ひたむきな努力によってこその精緻な美でもあるでしょう。しかし…違和感が伝わりますでしょうか。

つや:ちなみに、マリコムさんがそこで「確かにシミは作りたくない」と言うのは、美白を求めているからなのか美肌を求めているからなのかどちらなんですか?

コム:これまでの話題にも出たように、今や美白は白くなることと言うよりは美肌になることを指していると思うので、両方、もしくは美肌を求めています。率直に言って、大きな色ムラをこさえたくないですね。ただ、上に書いた「シミは作りたくない」というのは、「紫外線を気にする人々がシミを作りたくない気持ちであることは私もわかるよ」という理解を意味しています。

つや:そういうことですね。自分は透明感に異常なほど執着する欲望に対して一定の理解と共感を抱きつつも、マリコムさんの言う通り若干の不安も感じるんです。それは、大きく二つの理由があると思う。一つは、やはりエイジング――具体的には糖化によって透明感は失われていくから、という当たり前の事実です。前回エイジングケアについて話した対談でも出た通り、加齢は必ず訪れるものであって、それに百パーセント抗っていこうというのは発想として未熟であるとマリコムさんも言っていたと思います。中でも、ソフィア・コッポラの映画『ヴァージン・スーサイズ』から最近のNewJeansのMVに至るまで、いつの時代もある「陽射しと若い女性の白い肌を露骨に同居させる」というシチュエーションが実は私はちょっとだけ苦手なんです。どちらもクリエイティブとしてはとても素晴らしいと思いますけど、日光と真っ白な肌は本来共存し得ないわけで、それは若さの特権であり、突き詰めるとファンタジーです。そこに若干のエグさを感じてしまって。もう一点は、恐らく白という言葉の持つ両極端の意味にあるのかもしれません。白は縁起の良い色である一方で、死を彷彿とさせる不吉な色でもありますよね。何か、自分の中にそういった不安の源となるようなイメージがあるのかもしれない。

コム:まさに、100%抗うことの不可能性を前にして、寛容を発揮せず、かえってまだギリギリまで100%に近づきたがっているところに不気味さのようなものを感じているのかもしれません。自然を克服することへのあからさまな欲望に尻込みしてしまう。あとは、謎の太陽信仰が自分のなかにあるのかもしれません。日本と違ってアメリカでは屋外に布団や洗濯物を干す文化が無い……といったトリビアを耳にすると、信じられない!みたいな気持ちになります(笑)。自然を克服したい欲求と自然への信仰心とで対立が生じているのでしょうか。陽射しと若い女性の白い肌の同居というファンタジーも、欲望と信仰心を行きつ戻りつした結果に生まれた異形のような気がします。あるいは、両者の根っこは同じであるような気もしないでもないですが。

つや:やっぱり最初に言った通り、白は最も明度が高い色であって、だからこそ明るさ=ブライトニングのアプローチが大事なんだっていう話に戻りますね。そして、明るさとは光によって作られる。かのレオナルド・ダ・ヴィンチも「白は光だと言ってもよい。光がなければ色は存在しない」という言葉を残しています。ブライトニングという価値観が生まれた今、陽射しの価値も少し見直されるべきなのかもしれないです。と、議論が一周したところで今回はこのあたりにしておきましょうか。二回に渡りエイジングケアと美白というスキンケアの本丸をじっくり話したことでちょっと疲れちゃいましたね?(笑)。次回は、春らしく気分を変えてメイクにいきましょうか。実は、メイクの回は以前からぜひ一緒に議論したい方がいらっしゃるという話をしていました。次回は特別ゲストをお呼びしての、三人での鼎談という形で実施しましょう!

コム:初めてのゲストですね。楽しみです!

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