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私が1人称を「僕」から「私」に変えたわけ

最近の私のブログやTwitterを見ていると、もしかしたら「あれっ」と思った人は少なくはないと思う。

今までは主にブログで「ぼく」を使ってきたけど、最近では「わたし」を使うように。

もちろん、会話のときも、昔よりかは「自分」や「私」を使うことのほうが圧倒的に多くなった。

今回は、何で一人称が変化するようになったのか、それらの経緯を書いて行こうと思う。

超要約ハイスピードまとめ↓

「僕」という言葉から連想される自身のイメージよりも、「私」という言葉のほうが心地よく感じたため。また、多様な考え方に触れ、自身のバイアスや悩みを見直すことができたため。

そもそも、会話での1人称は小学生のときに大きく悩んだ

私が小学生のとき、1人称をどうするべきなのか悩んでいた。それはもう、”なぜ人は生きているのだろうか”を考えるレベルで悩んでいた。

自分を自分たらしめるものといえば、最も表しやすいのが「1人称」だからである。

しかしながら、当時は”個性的”よりも”全体に合わせる”というのが私の考えであり、あまり自分自身についての主張をしたがらない傾向にあった。

自分を表現する、ということが苦手であった。

そこに、である。”国語”とやらの授業では、文体に「僕」というのがよく出てくる。これは、最も親しみやすく、最も見慣れた単語であった。

読書感想文を書くときにも、先生に「僕」を使いなさいという指示があったことからして、そのようにするのは自然であった。

だからこそ、自分自身を表現するときには「僕」という1人称を使うことにしていた。


しかし、4年生くらいになった頃、とある女子からこう言われた。

女子A「へぇ~、<筆者あだ名>って『僕』って言うんだぁ」

特段、意味はなかったのかもしれない。すかさず私が、

「え、だめなん?」

的な感じで返すと、「特に意味はないよ」という感じで返されてしまった。

漠然とした感じではあったが、なんとなく”嫌”であった。

何か、間違っているのだろうか。「僕」にはその答えがわからなかった。

その日から、「僕」という1人称を口語で使うのは止めた。


では、何を使い始めたのかというと、そのまんま「自分」である。これは、"白米の白さ"くらいに、完全に無難である。

自分はこうだと思うな。

よし、これなら文句の言われようがない。相手からの体裁をめっぽう気にする私は、そう確信した。

その頃から、長い間、会話の中での1人称は「自分」と言うようになった。

ブログでは「僕」を使うことにした

しかしながら、数年前に始めたブログの中では、「僕」を使うことにしていた。

なぜならば、こうして書いているのは文章の中。口語ではなく、文体なので、こうしたほうが、多少箔が付くような気がしたからだ。

もちろん、文体で「自分」とつけると、まどろっこしい感じがするというのもあった。例えば、

僕がよく使っているのは、「ボイスモード」です。

自分がよく使っているのは、「ボイスモード」です。

「自分」という単語を使うと、少しだけ冗長な感じがして、不格好な感じがする。

会話中で使うのは「自分」だけど、こうして文章で書いているときは「僕」という風に使い分けていたのである。

なので、ブログやnoteの中では、続いて「僕」を使うことになったのだ。

もちろん、Twitterは会話に近い形で書いていたので、1度も「僕」は使っていない(多分)。


しかしながら、ブログの中で「僕」という1人称を使うことは、いくつかのためらいがあった。リアルでもそうだったのだから、当然影響があった。

「僕」への違和感

実のところ、「僕」という1人称を使うのは、初め(小学生の頃)から少しだけ恥ずかしかった。

理由は、次のようなものである。

例えば、

僕はこのアニメ面白いと思うよ。

ここから話者に対して感じ取れるのは、「若干幼い感じ」であったり「男性的」であったりする。

「僕」という1人称は、小説に度々出てくるものであって、「偉そう」であったり「格好つけている」ようなイメージになってしまうような気がしたのだ。

だが、10歳前後(小学生)で使い始めた当時は、他に方法が思いつかなかったので、使うことにしていた。

しかし、このモヤモヤは、先ほどの通りとある女子からの言葉で完全に吹っ切ることができた。当時は”嫌”な感じがしたものだが、こう書くと、あれはあれで良かったと感じている。


であれば、次に使い始めた「自分」で安泰……と考えるかもしれないが、そうでもなかった。

なぜならば、「自分」という1人称にすら、違和感を感じていたからだ。

先刻、文章中で使う際には、以下のように感じると書いた。

「自分」という単語を使うと、少しだけ冗長な感じがして、不格好な感じがする。

しかしながら、会話中で「自分はこうだと思う」などと使うのも冗長な感じがしてきてしまったのだ。

非常に、この自身が感じてしまった違和感というものは、面倒である。

それでも、”無難だ”というイメージが上回っていたので、なんとなくそのまま使うことにしていた。

「私」というのは、どうなんだろうか。

ところで、ふと思った。「私」というのはどうなんだろうか、と。

初めのほうに、

読書感想文を書くときにも、先生に「僕」を使いなさいという指示があったことからして、そのようにするのは自然であった。

と書いたが、これにはいくつかの修正点がある。

「感想文では『僕』や『私』を使います」 読書感想文を書くときには、先生からこう指示された。とある生徒が”どちらを使えばよいのか”を問うと、「男性であれば『僕』を使う、女性であれば『私』を使うのが一般的です」と答えたのだ。

ここから、私はなんとなく、「僕」というのを選択したのだ。

私は、「女子」がかなり苦手であった。小学生の頃に、気の強い女子ばかりが周りにいて、言われっぱなしであった。意外かもしれないが、それが辛すぎて、一目散にトイレへ逃げ込んだこともある。

(ということは、周りは男子ばかりしかいなかった。)

「私」には、”女子っぽさ”があるという時点で、その選択肢を破棄していた。

だから、あえて使うことができなかった。あるいは、いざ使ってみると、(当時)猛烈な違和感を覚えたからだろう。

ニュース、映画、どこを見渡しても、「私」を使っているところを見たことがなかった。何よりも、自身が「私」を使うことに”当時の私”が慣れていなかった。

英語って、うらやましい……

中学生になってからは、英語科目を教わるようになっていた。が、衝撃を受けた。

Hi, I'm Mike Brown. I'm a new student.
I'm Yuki, Sayama Yuki.

こんな感じの文章が出てきたのである。

英語って……全部「I」で行けるん!?

ええっ……何この言語、便利すぎないか。

「He」とか「She」とか2人称はそんな感じだけど、1人称は「 I 」で統一されている。

(1人称、男女関係なく「 I 」なのかよ。うらましいわなんか。ええなぁ。)


進んでいくと、当然 英文→日本語訳 を教わるわけだが、そこで再び立ち止まることとなった。

English → 「 I'm a student. 」
日本語訳 → 「私は学生です。」

あれ。ここには「私」という訳になっている。

というよりか、男女関係なく、「私」という1人称になっている。



1年経っても、5年経っても……ほぼすべての訳が「私」になっていた。


………………もしかして、日本語における男女関係なく使える1人称って、「私」?


いや、そうなのか……?

本当に、「私」って1人称は、男女意識せず(されず)に使えるんか?

これも、当時の私にはよくわからなかった。


……なので、まだ使うことをためらっていた。

誰が作ったのかわからないルールに、まだ囚われていた。


帰り道の転機

しかし、かく言う私にも、文体が変わるきっかけになる出来事があった。

それは、とある本との出会いである。

オードリー・タン著『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』

正確には、本を手にしたというより、Audibleから聴いたというのが正しいが。

つまり、何日間か帰り際にずっと聴いていたのだ。

そこで、この本の著者がどのような人で、どのような仕事をしていて、どのように現代・デジタルの問題を解決していったのかが書かれていた。

できると信じたから、やってみせる。他人にできないと押し付けられる理由はない。終始このような姿勢で問題に挑み続けていた。

――彼女にはバイアスがなかった。


もちろん、この本の著者の1人称も(翻訳ではあったが)「私」であった。似たような悩みをもっていたため、そこに親近感もあった。


この本を聴き終わったあと、自分が知っていた世界がどれほど小さいものであったかを知った。

私は、私らしくしていていいのだと。そんな勇気をもらったのだ。


そうして何ヶ月かしたあと、1人称に「私」を使い始めるようになったのである。

アニメ「文豪ストレイドッグス」の太宰さんも「私」を使っていた。それも、多少の影響がある。


バイアスという恐ろしい消火剤

しかしながら、「男性であれば『僕』を使う、女性であれば『私』を使うのが"一般的"です」などというものは、本来馬鹿げた話なのだ。

誰も決めていないのに、自動的に決まってしまう。

確かに、そういった傾向があるのかもしれない。しかし、傾向があるからして、反する方を選べないと思い込んでしまったことはおかしかった。

自分自身に染み込ませる必要はなかったのだと。

こういうことに気がつけた。


元はと言えば、本来 日本語に「性別関係なく使える1人称がない」というのが問題……

――というより、そういう思い込みが広く認知されているのが問題なのである。昔の私を含めて。

(今では、「私」は男女どちらにも偏らずに使える。)


こうして振り返ると、当時の私は様々なコンテンツに触れていなかった。つまり、多様な世界を知らなかった。

ゲームをすることがあっても、特撮やアニメ、バラエティ番組というものに関しては、見ることがほとんどなかった。


しかし、今はそうでもない。例えば、Netflixで世界を飛び回ることも、ひと味違った体験も、他意見を知る事なんかもできる。アメリカの文化すら垣間見ることができる。

本屋に行かなければ手に入らなかった本も、配送してもらう、電子書籍をダウンロードして読む、Audibleなどで読んでもらう。手軽に世界中の人の考えへとつながることができる。

いい時代になったものだ。

自分の世界がいかにちっぽけで、無知なものだったのかを思い知らされる。

――こんなにも世界は広いのだと。


偏見を見直す時代なのではないか

その人固有の強いバイアスが問題となった社会問題が、その本にいくつか書かれていた。読んでいるうちに、周りには一定の割合で偏見が存在するのだと知ることができた。

今日こんにちにいたるまで、「男性は働くもの」「女性は家事」「長男だから強くあれ」「女だから仕事には向いていない」など、誰が作ったのかわからない様々なバイアスがある。

性別を理由に、押し付けられることが何かと多い。


近年、特に思うのが「個人が社会全体を装って、個人に押し付けたり攻撃したりしてよいのだろうか」ということである。

本来こういったものは、当事者たる本人が道筋を決めることであって、他人によって決められるべきではない。

それらに毒されて自分自身の道を狭めてしまうなんて、とてももったいないことなのである。


どうか、これをふらっと立ち読んだあなたも、可能性を狭めてしまわないように。

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