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第二回 後編『両方になる』アリ・スミス/訳 木原 善彦(新潮クレスト・ブックス)

 まず初めに、この本は傑作でした。大変面白かったです。それをお伝えした上で、後編の内容を記そうと思います。でないと、面白くない本と勘違いされてはいけませんので。
 そう書くのはなぜかというと、非常に説明のむつかしい本だったからです。むつかしいというと、難解で読みにくいと思われがちですが、そんな事はありません。文体は比較的平易ですし、ユーモアもありサラサラと読もうと思えばできます。ではなぜ説明がむつかしいのかというと、「仕掛け」が多い本だからです。非常に構造的な内容で、且つ物語は円環を描いており、はじめと終わりが曖昧だからです。まず基本的な構造から書かないと、この本の面白さに辿り着けないので、少し説明します。
 物語は二部構成となります。一つは現代に生きる16歳のジョージという少女の物語が「三人称」で、もう一つは15世紀に生きた実在する画家フランチェスコ・デル・コッサの物語が「一人称」で語られます。しかもこの二つのパートは同じ「一部」となっており「二部」は存在しないのです。そもそも、この本には二種類の版があります。初めに現代のパートがくるものと、15世紀のパートがはじめにくるもの。どちらを先に読んでも内容は繋がる仕組みになっています。私の手元にある本は、現代パートがはじめにくる本でした。もしこれを読んでいる方で本書を手にする機会があれば、15世紀パートがはじめにくる本にあたるかもしれません。
 『両方になる』というタイトルどおり、本それ自体もまた、現代もしくは過去からはじまる「両方」があるというわけです。そして物語も常に二つの対になる概念、例えば生と死、男性と女性、現在と過去などが、丹念に且つきわめて技巧的に並行して書かれていきます。それもサラッと何気なく。まず現代パートでは主に亡くなった母親との時間が、生前とその死後とで境界なく語られていきます。例えば、

 「今は去年の五月。場所はイタリア。一家はレンタカーで空港に戻る途中だ。」

 というように過去が「今」として語られ、その「今」とは母親が生きていた過去のことになるというわけです。そんな風にして時間が自在に行き来し、思い出もまた今として語られるように、15世紀のパートでは画家である「私」は死後に煉獄から「私」の過去と、そして現代のジョージを、時間を超えて観察する存在となります。何故ジョージを観察する存在になるのか、という事に関しては現代パートでその画家と絵についての話があるというだけではなく、ジョージの友人Hという存在が深く関係していると思われます。詳しい物語については是非読んでみて下さい。

 ここでふと、この説明しがたい物語を説明するのに、あるフォーク歌手の歌詞の事が思い出されたので脱線しますが書いてみたいと思います。それは友部正人氏の『あいてるドアから失礼しますよ』という曲の歌詞で、それについて劇作家の宮沢章夫氏が書いていたものです。

 「この詩では『ぼく』という人物が通りを歩いていると、ある家のドアが開いているのに気がつき、なかに入ったのだと読んでいた。だが、そうではなく、すでに部屋のなかにいて、『失礼しますよ』と部屋を辞したとも読める。」

 まさに本作がこのような内容だと思ったのは、過去であったり現代であったり、女性であったり男性であったり、また語り手の存在と不在など、視点や解釈の定まらないそのことに、「どちらであってもいい」という自由さを感じたからでした。本稿では物語の詳細なエピソードや内容には触れられませんでしたが、この小説の、そのわかりにくさこそが本作を読む愉楽であり、わかりやすい事、更にいうなら白黒をはっきりとさせようとする事に抗い(時に正しさは争いをも生むと感じられる昨今の社会や世界の情勢も鑑みれば)、ありきたりな結論から遠ざかり、立ち止まって考え、想像すること、物語の(人生の)曖昧さをもってして、ある時間の何気ない一瞬の美しさにこそ、幸福と呼べるようなものを見出すことができるのではないかと思える、稀有な読書体験に大いに刺激されたのでした。『両方になる』おすすめです。

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