貞観政要の帝王学(その二)
「日本の歴史に深い影響を与えた『貞観政要』」
日本でも、古来、『貞観政要』は帝王学の教科書として、歴代の天皇たちによって読まれ、鎌倉、室町、江戸の将軍家、幕閣たちによって学ばれて、時代、時代のリーダーたちに熱心に読み継がれてきた貴重な漢籍でした。
とくに、北条政子や徳川家康など、臣下に配布して、徹底的に学ばせるなどしたリーダーたちがいることを思えば、この『貞観政要』の影響力が絶大であったことを知ることができます。
日本では、平安時代中期ごろから、『貞観政要』が注目され始め、鎌倉時代になると、北条政子が菅原為長に『貞観政要』の和訳をさせたというところまで、その影響力を広げています。
おそらく、『貞観政要』をそのまま読むのは大変なので、そのように依頼したのだろうと思います。
なお、源頼朝の子・実朝は『貞観政要』を学んでいましたが、それは母の政子の影響によるものであると思われます。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で、金剛(北条泰時)が『貞観政要』を読んでいました。
ドラマのなかでは、まだ少年の金剛(北条泰時)が『貞観政要』を読んでいたわけですが、彼は、のちに『御成敗式目(貞永式目)』を制定するのですから、すでにこの頃から『貞観政要』などの学問に励んでいたのでしょうか。
唐2代の太宗は自ら専横を振るうことを恐れ、家臣の諌言、忠言に熱心に耳を傾けたと言われますが、この太宗の政治的姿勢を8世紀前半に呉兢は『貞観政要』として編纂し、その結果、為政者の最高のテキストとして広く読まれるようになったのです。
それは中国国内にとどまらず、朝鮮、日本にも伝わって参りました。
日本に伝わった『貞観政要』は書写されただけでなく、寛弘3年(1006)には大江匡衡が一条天皇に講義を行いました。
つまり、平安時代以降、『貞観政要』は帝王学の書として認識されていたのは疑いありません。高倉天皇も、同書の講義を受けていたことが知られています。
江戸時代になると、徳川家康は日本儒学の祖といわれる藤原惺窩を招き、『貞観政要』の講義を依頼しました。
家康は、『吾妻鏡』を座右に置くほどの学問好きで、大変な読書家でもありました。
家康は講義だけに飽き足らず、足利学校の閑室元佶(かんしつげんきつ)に依頼して、慶長5年(1600)2月に『貞観政要』の活字版を刊行させました。
これが伏見版と称されるもので、林羅山の旧蔵本が国立公文書館に所蔵されています。
家康は『貞観政要』を刊行することにより、これを広く普及させようとしたのでしょう。
帝王学として自分が学ぶだけでなく、部下たちにも読ませたのですから、帝王の心を知って、間違うことなく、正しく侍ってほしい、足りない所は率直に言ってくれ、と願ったのでしょうか。
「ビジネス・リーダーたちが学ぶ『貞観政要』」
現代では、政治の分野だけでなく、ビジネス・リーダーたちにも有益な思想を表現しているという評価が高まり、『貞観政要』は、ビジネス・リーダーたちにも愛読されています。
とくに、太宗を偉大ならしめた「諫言」に耳を傾けるという姿勢が、トップの経営者たち、実業家たちに欠けることが多いことから、成功するビジネス・リーダーの要諦を語ってくれていると称賛され、『貞観政要』は経営者の必読書のようになっています。
「徳川家康と『貞観政要』」
徳川政権が長く続いた背後には、家康の文治政治、すなわち、武力ではなく文治主義の平和指向で世を治める精神があったからこそ、長く徳川時代が存続したものと思われます。
その裏には、『貞観政要』に見る太宗の文治主義があり、諫言、忠言を容れる寛容性があったからと思われます。
一方的な独裁主義では、政治は長続きしません。当時、100万人を擁する江戸の街は、その繁栄を世界に冠たるものとして誇っていました。
ほとんど大きな戦争もなかった太平の世が江戸時代300年の風景でした。芸術、文化も大いに栄えました。「武」ではなく「文」の力が、語られているのが、太宗の『貞観政要』です。
即ち、今日流に言えば、言論の自由を、太宗は臣下たちに大いに容認し、思っていることを「諫言」としてどんどん言わせたのです。
そしてそれらを上手に取捨選択しました。有益な助言は遠慮なく取り入れました。太宗に人格的な問題があれば、それを率直に指摘する魏徴もいましたから、謙虚に魏徴の言葉を受け入れました。
家康は太宗の卓越した処世術(人格向上術)をことごとく吸収したと思われます。
大河ドラマ「どうする家康」に見る少々頼りない家康像の成否云々は措くとして、明らかに戦国時代の並み居る武将たちが乱立する時代にあって、家康は異色でした。
殺伐とした人殺しのための人殺しなどは家康の嫌悪するところでした。結局、信長、秀吉が倒れ、最後に家康が天下統一を成し遂げるのです。天運が家康に味方したのでしょう。
「現代に必要な『貞観政要』」
恐ろしいほどの変化に見舞われている現在の世界と日本、激変する世界の中で、変化するもの(可変)もあれば、変化しないもの(不変)もある、といった変化の諸相を見つめつつ、可変がおもに科学技術の進歩発展に集約されているのであるとすれば、不変はおもに人格などの人間性の部分に集約されていると見ることができます。
21世紀の現代でも、8世紀編纂の『貞観政要』が、人の心を打つのであるならば、それは、「人の心」という変わらない部分に現代人は共感しているからにほかなりません。
帝王学が、指導者の心の在り方を述べているのであるならば、政治は人なり、経営は人なり、と言い古された言葉が、全面的に否定されるものではないということです。
やはり、「人」というファクターは、大きいと見るべきです。
AIが人にとって代わる時代ということがまことしやかに言われる時代ですが、AIが取って代わることができない部分は、依然としてあると見た方がよいでしょう。人がカギを握る部分はなくなりません。
1300年以上の時代の隔たりを越えて、今日、多くの優れたトップリーダーたちに愛読される『貞観政要』という書物の価値を否定できないとすれば、その価値と言われる部分は、トップに立つ者の「人間性」というテーマです。
大きなことを成し遂げようとすれば、一人ではできないわけですから、優れた知性集団が必要です。そこのトップを務めるには、深い人間性と叡智性が問われる、すると必然的に「帝王学」の出番になるのです。
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