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眠れる森の三十代

「30を越えたあたりから、全然眠れなくなったよね」
初めてそう耳にしたのは、母親と親戚の会話だったように記憶している。
登校ギリギリまで眠っていたい子どもだった私は、その言葉にしびれるような羨ましさを覚えた。
当時の私は、横に猫のぬくもりを感じれば寝て、宿題に飽きては寝て、いい感じの日なたがあればそこに座布団を引きずっていって寝ていた。

そんな私でも、30歳になれば眠れなくなるのだろうか。
それならば早く、一刻も早く、30歳になりたい。
そうやって自分の30歳の誕生日を、心の隅で指折り数えて生きてきた。

もう私の傍らに猫はいない。明日までにやらないといけない宿題もないし、床に寝そべることも夏しかしない。
けれど、寝てしまう。文フリ本番や友だちと朝から遊ぶなどの特別な日だけは目覚ましの音と同時に飛び起きることができるのに、平日にはなかなか布団から出ることができずにぐずぐずしてしまう。「寝る子は育つ」とはいうものの、私はとっくに「子」ではない。このまま育てば、セコイアとかバオバブ的な成長を遂げてしまいそうな不安すらある。
寝坊で遅刻をしたことはないのが救いだが、「朝焼けを見ながらコーヒーを飲む」とか「家族が起きてくる前に執筆」とか、そういうかっこいい朝活にまるで縁がないのが悔しい。

そういう素敵な早起きをしている人が自分の周りにいるから、羨ましさはいっそう募る。
羽ばたくチームの私以外のメンバー、鶫さん、KaoRuさん、とき子さんの三人がまさに早起きの人だ。
ちなみにaeuさんが早起きチャレンジを試みてたまにしくじっているのを見ると、仲間意識を感じてちょっとホッと頬を緩めてしまう。

わかっているのだ。
夢のなか以上に、現実がおもしろいことは。
早く起きれば、それだけ自由に使える時間が増えることも。
その時間にやりたいことだって、いっぱいあるのだ。
本を読んだり、文章を書いたり、勉強をしたり。弁当のおかずの種類も増やせるかもしれない。

寝る前には「明日こそ早起きして有意義に時間を使おう」と固く心に誓うくせに、いざ目覚ましを聞くと「ちっ、目覚まし早くかけすぎたな。あと10分ごろごろしよう……」と粘ってしまうのはなぜなのだろう。昨日の私と今日の私は別人なのだろうか。

せめて夫が早起きの人であれば、私もつられて起きられるかもしれないのにと他力本願な願いすら抱いてしまうけれど、夫も眠り姫のごとく簡単には目覚めないタイプである。
毎朝家を出る前にそっと夫に触れると、彼は目を閉じたまま、縦横無尽に爆発した癖っ毛を揺らして私の手に頬ずりをする。
すぐに再びすこやかな寝息を立て始める彼の頭を撫でて、私はひっそりと家を出る。

今月から新しく働き始めた職場は、8時45分から朝礼が始まる。
前職は10時出社だったから、あのころよりも一時間以上早く家を出なくてはならない。
いま私は、理想の朝活タイムの5時50分に一度目のアラームを聞き、ゆっくり朝ごはんが食べられるタイムの6時20分に二度目のアラームを聞き、さすがに起きろタイムこと6時50分のアラームとともにしぶしぶ起きだしてコーヒーをがぶ飲みして身支度をしている。

スペイン語を勉強していたころ、日本語では一言「起きる」で片付いてしまう動詞がわざわざ「despertarse(デスペルタールセ:目覚める)」と「levantarse(レバンタールセ:起きる)」に分けられていることを不思議に思っていたのだけれど、最近スペイン語の正しさを実感している。目覚めることと、身体を起こすことは別物なのだ。

いまはまだ新入職員としての緊張感のおかげで目覚ましとともに「despertarse」と「levantarse」をほぼ同時におこなえているものの、この緊張感は仕事に慣れるにしたがって薄れていってしまうだろう。その日の到来が、すでに恐ろしい。

そんな私は、来月末に30歳に突入する。
母や親戚の言葉通りであれば、まもなく私は眠れる森から眠れぬ森へと移行するはずである。
願わくば職場に慣れるのと同時期に、睡眠時間をそれほど必要としない身体に切り替わってくれたらいいのだけれど。

「30にさえなれば、早起きができるようになる」遠い未来のおまじないのようだった言葉が、いつの間にか現実に近づいている。
いざ30を目前にしてみると、この言葉をそう無邪気には信じられなくなってきた。
まだ誕生日を迎えていない友だちのなかに、すでに日の出とともに起床して趣味に勤しんでいる強者が何人かいるからである。
「早起きなんて無理無理、10時間くらい寝たい」と公言する、年上の友人を何人か知っているからでもある。
薄々わかってはいたけれど、結局は個人差。
せめて遺伝性にしてほしい。
ああ、答え合わせの来月がもう、すぐそこまできている。

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