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平家もう一つの宝刀・抜丸とは

2022年8月26日、Twitterトレンドに「抜丸」が突如現れた。これはPC ブラウザ&スマホゲーム「刀剣乱舞」において登場する刀剣男士として抜丸の実装が発表されたためである。

以前の小烏丸考察記事で紹介した、「禿(かむろ、かぶろ)」という台詞。対を成す立ち姿、同じ目の下の刺青。色違いとも思われる衣装。共通項が多い彼は、もう一つの平家の宝刀であった。
筆者もところどころに彼の逸話を確認していたので、8月29日夕方の実装予定に先駆けて、彼の来歴を紹介してみよう。

記述があるのは「源平盛衰記」

さて、平家の宝刀・抜丸の記述が見られるのは「平家物語」の異本とされている、「源平盛衰記」である。この本の三八三「唐革小烏抜丸の事」という段で伊勢平氏や平家に伝わっていた、3つの宝についてまとめて紹介がされている。

ちなみに、唐革というのは鎧のことで「仏が作った鎧」だとされ虎毛・虎革が利用されていたことからその名前が付けられている。元は天皇家の手元に置いていたが、伊勢平氏の祖である高望王たかもちおうの代に渡り、そこからずっと伝わっていたという話が残る。

よって、この部分で紹介されている3つのうち1つは鎧、2つは刀で、歴代の家長が所持することとなる。この中でも伝来の流れから、最も若いであろう宝が抜丸だ。

猟師が持っていた伊勢ゆかりの刀

唐革と小烏丸が天皇ゆかりなのに対して、ちょっと異色なのが抜丸の生まれである。なんと伊勢国鈴鹿山(現在の三重県にある鈴鹿山脈周辺)にいた貧しい猟師が伊勢神宮に詣でた後、お告げでこの刀を授かったとある。
この刀を持ち歩くと不思議なことに、獲物を必ず仕留められたというもので、これはアマテラスの恩恵だと猟師は昼夜ずっと持ち歩いたようだ。

当初の名前は「木枯」

さて、その後さらに不思議なことが起こる。ある日猟師が大物を仕留めようと山の中で一夜を過ごした。この時抜丸を大木に立てかけてその横で猟師が眠ったのだが、翌朝目覚めると元々は青葉を盛りに揺らしていた周辺の木が古木のように枯れている。これはこの刀の仕業ではないか、ということで「木枯」と名付けられた。

枯れ木のイメージ

この話を聞きつけた、当時伊勢守の平忠盛たいらのただもりがこの刀に目を付けるということになるが、その話は後述しよう。

”こがらす”と”こがらし”による混同

ここで読者は違和感を感じたのではないだろうか。そう。小烏丸と木枯の名前があまりにそっくりなのである。この点は昔も同じ状態だったらしく、来歴や伝説の一部が混在している箇所も多い。後述の重盛と維盛に渡った話も恐らく混同した可能性が高いと筆者は考える。
物語の成立過程からすると、当初から言及されていた小烏丸に対して、木枯・抜丸の逸話はその後に展開されている状況は間違いないだろう。

また、比較した時に伊勢神宮の使いの大烏が授けた小烏丸伊勢神宮に詣でて授かった木枯・抜丸という共通点も見える。
これは伊勢平氏の拠点が伊勢神宮と目と鼻の先であったことが関係している感じは否めない。

清盛の父・忠盛の代から宝刀「抜丸」に

さて、不思議な力を持つ刀に目をつけた忠盛。この刀を見て欲しくなり栗眞庄くりまのしょう(現在の三重県鈴鹿市鼓ヶ浦周辺の荘園)の年貢三千石に替えて召し上げた。
貧しかった猟師は一気に富を得たということになる。

さて、この刀を手に入れて満足の忠盛は京都六波羅にある池殿(屋敷)で昼寝をしていた。すると急に池から大蛇が出現し忠盛を飲み込もうとしたが、勝手にこの刀が抜けて転がったりした。その刀の音で目覚めた忠盛が刀を大蛇に向けたところ、恐れて池の底に戻った。
(他にも大蛇を追って行ったなどの表現も残る)
このことから「抜丸」と名付けて大切にしたとされている。

兄弟喧嘩の火種に?

忠盛はその後、自分の五男・頼盛よりもりにこの抜丸を伝える。頼盛は平治の乱でこの刀を振るい、勝利を収めたという。

しかしながら、忠盛はなぜ長男の清盛ではなく、あえて五男の頼盛に伝えたのだろうか
このことを「源平盛衰記」では、清盛自身いずれの刀も自分が受け取ると思っていたため、兄弟の仲がしばらく悪く、確執があったように記載されている。その後「世が立ち直れば、六代(平高清。清盛のひ孫)に伝えるように」と頼盛は言い含められている。

これはあくまで抜丸は忠盛からの宝であること、清盛と頼盛の母が異なっていることに起因するのではないかと考えられる。
というのも抜丸の名の由来になった大蛇の出来事が起こったのは「池殿」である。この池殿は建物のことだけでなく、そこに暮らしていた忠盛の正妻・池禅尼や池大納言と呼ばれた頼盛自身を指す言葉だからだ。
池禅尼は清盛の実の母ではない(清盛が誰の子かは諸説ある)。彼女の子は家盛と頼盛の2人であるが、家盛は20代ごろに病で亡くなっている。
確かに頼盛は平家の長ではない。しかしながら、忠盛自身が入手した刀であり、池殿での出来事を踏まえると、当然「正室の子に伝来する」のが妥当になってくる。

余談だが、若くして亡くなった家盛に幼い源頼朝が似ていたことから、池禅尼は頼朝の助命嘆願を行ったとされている。また、異母兄弟であった清盛・頼盛の微妙な関係性がその後の一生を左右したかもしれない。

源氏側に渡った宝刀

抜丸の元主人頼盛から、どのように渡っていったかは諸説ある。中には清盛の長男・重盛を経て、その子維盛に伝わったとするものもある。だから「源平盛衰記」などでは維盛の出家話の間に3つの宝の話が記載されているのだろう。維盛はその後この抜丸を家臣に預けていて、難を逃れていたとする。

さて、書いていて何盛なのかわからなくなってきた。簡易的な家系図を記述するとこのような形になる。太字が抜丸の所有者説のある人物だ。

忠盛ーー清盛ー重盛維盛、資盛ほか
  |  └ー宗盛ー清宗、能宗ほか
  └ー頼盛ー保盛、為盛、光盛ほか

頼盛に子がおらず、甥っ子となる重盛とその子維盛に伝来するのならわかるのだが、実際には頼盛にも多々子どもがいる。
しかも、清盛兄弟において、頼盛は唯一壇ノ浦の後を生き延びている人物なので、こうなってくると重盛維盛親子に伝来したのはちょっと無理があるような気がしてくる。

頼盛は平家一門と微妙な距離感のままでいた。清盛の死後、没落していく一家とも距離を置いていたため、宗盛の代で1183年に都落ちをするも、それに同行していない。
逆に、彼は源頼朝に接近し鎌倉側についた。これは母・池禅尼の助命嘆願が関わっている可能性が高いが、いずれにせよ平家とは別行動している。平家の赤旗を捨てて200騎ほどの手勢だけで京に残った頼盛は、源氏の支配下でも権大納言という高い役職に復帰。しかし、1185年の壇ノ浦の戦いの後はすぐ出家して、その翌年にひっそりと亡くなっている。

「平家物語」「源平盛衰記」は物語であって、歴史書ではない。そのため頼盛が意図的に平家一門と距離を置いたのか、そうでないのかはもうわからないが、彼の存命により辛うじて平家の血筋は残った※。
彼が自分の子に抜丸を伝えたかは不明だが、子どもたちは京と鎌倉を繋げる役割になっていたため鎌倉側に伝わったとする可能性も言及されている。

※辛うじて血筋は残ったものの、その後男子が少なかったこともあり頼盛の血筋も南北朝時代ごろには断絶したとされている

足利に渡った可能性について

敵味方を行き来している抜丸は、その後どうなったのか。行方不明説のほか、実は足利将軍家の宝刀になったという逸話も残っている。
1432年5月7日、御会所(行事などが行われる建物)の塗籠ぬりごめに二重の戸を付けて厳重に保管していたはずの抜丸が行方不明になる。京都中の質屋などをひっくり返して捜査したところ、9日に発見された。
このことはかなり将軍家を驚かせたようで、摩訶不思議なことであったため15日には相国寺の僧侶100人7日間かかって大般若経をあげて祈祷までしていいることが、「看聞御記かんぶんぎょき」に記されている。
盗人はその後も発見されず、またその時の保管担当者は流罪になったとあるが、自ら抜ける刀だったのだから自力でどこかに行こうとしたかもしれない。
その後の逸話は残っておらず、現在は行方不明のままでいる。

誰が打った刀なのか

抜丸の逸話は以上の通りとなるが、果たして誰がこの抜丸を打ったのだろうか。この点についても諸説あり、現段階では特定されていない。

①伯耆国(現在の鳥取県)大原真守説、②伯耆国武保説、③古備前助包説などが挙げられているが、現状、最も多い記載は①伯耆国大原真守説である。
「伯耆国大原真守」というと童子切で有名な安綱の子と呼ばれる人物で、嵯峨天皇の時代(809年〜823年ごろ)に刀を打っていた。そのためか、嵯峨天皇の命で抜丸を打ったという逸話も残っているが確かな話ではない。

③古備前助包説については、同じような名前の「抜き打ち丸」がいたための混同ではないかと福永酔剣氏は懐疑的に述べている。
上位を占めるこれらの刀工の名前を考えると、どうも現在の中国地方近辺で打たれた説が強いようだ。

まとめ

抜丸はその来歴から、平家の宝刀でありながら平家一門とは距離を置き、滅亡時は源氏側にいたとされる刀である。このことから刀剣男士・抜丸は白い源氏の色の衣を身に纏っているのかもしれない。
彼が顕現した時、何を語り出すのか。
筆者も入手が叶ったなら、また彼の考察を深めていきたいと思う。


参考
・松尾葦江、久保田淳 他「源平盛衰記(一)〜(七)」三弥井書店 1991年
・山下宏明「平治物語」三弥井書店 2010年
・福永酔剣「日本刀大百科辞典(一)〜(五)」雄山閣出版 1993年
・国立国会図書館 「源平盛衰記.5」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877522 2022年8月28日最終閲覧
・名刀幻想辞典 抜丸 2022年8月28日最終閲覧
・小林保治 編 「平家物語ハンドブック」 三省堂 2007年
・水原一「平家物語」(上) 新潮日本古典集成 1979 
・東京大学SHIPS Image Viewer 「看聞御記」
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1432/09-3-2/2/0090?m=all&s=0090&n=20 2022年9月2日最終閲覧 ※該当箇所は90-91
・大羽吉介「抜丸説話と平頼盛平氏一門離反をめぐって」駒澤大学 1985年
 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/19728/


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