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対話とは、自分が正しいことをわかってもらうこと「ではない」

世の中には“律儀な人”が結構います。
この場合の律義さは、若干の問題をはらんでいる。

私の言っている律儀な人とは、端的に言って

「自分の発言の正しさを一方的に説く人」


です。

・「これは本来、こう考えるべきです」、「理解できますか?」
・「それは予めこう決めていたはず。今さら「考える必要はありません」、「当然ですよね?」
・「そのことは間違っています。よって、よい結果をもたらしません」、「それでもやりますか?」 

などなど・・・。



このような理屈を盾に論破方式の言い方をする人を私は“律儀な人”と呼んでいるのです。

律儀という言葉はもともと義理堅く、実直なことを意味します。
しかしこの場合、

「意識して自分の正しさにこだわり」
「無意識にも自らの優位性を示す」
「結果として相手の気持ちを排除した発言となっている」

ことを指しています。


もちろん、この理屈力や論破力は場面、状況によって”強み”となることがあります。一つの能力だとも言えますね。
ただ、そうであっても、日常的な対話においてはあまり有用ではありません。



❖律儀な人の弊害とは?

この私なりの律義さの定義から察するに、いくつかの弊害があると思いませんか?

律儀な人の持っている”下手くそ”な一面です。すぐに想像できることですが、律儀な人から発言を浴びさせられた人は恐らく

「あなたの言っていることは正しかも知れないが、その言い方はなんだ!」

と感じることでしょう。

このような感情を対話の相手に即座に持たれてしまう発言は、やはり下手くそなのです。



この場合、「どのような弊害があるか?」もう少し掘り下げてみます。

自身の正しさを律儀に発言すると、

・自分が正しいと決めつけているから一方的にな主張になってしまいます。
・相手の受け止め方に配慮を欠くことになってしまいます。
・そして、優位性を示そうとしているように受け止められてしまい、不遜な態度と思われてしまいます。

要は相手より高い目線になっているのです。

これが考えられる弊害であり、律儀な人が正論を発する際の下手くそな部分です。この下手くそな自己主張が永遠と続くと、気が付いたときには周囲に話を聴いてくれる人がほとんどいなくなってしまう。


❖律儀さは人間関係の崩壊の始まりに

恐ろしいことに、この律義さが暴走すると”人間関係の崩壊”まで到達してしまうでしょう。

「人は人間関係において、一方的な主張を強いられることを極端に嫌う。双方に許容できる余地、余裕があってこそ意思疎通は円滑、円満に成立する」

「人は人間関係において、単純に正しいかどうかに終始する対話は不毛なことが多い。対話とはどちらが正しいかを決めるためにあるのではない。相互理解、相乗効果を出すためにある」

主張を通すため、正しさを立証するための対話は人間関係の崩壊を招きかねない。そうならないためには・・・、

「相手の立場を理解し、対話中の心持ちを図り、素直に受け止めてもらえる言葉の選択、言い方、そして、タイミング」に気を配ることです。



さらに、「対話は自分を理解させるために行っているのではなく、まずは、相手を理解するために行っている」ということを自覚することです。

「対話のゴールは受容、つまり、お互いの気持ちを汲み取り合うこと」。ここの部分を予め心得ておくことです。

人間関係の基礎を成すコミュニケーションというものは、ロジックだけで成り立っているわけではなく、つねに根底には感情が流れています。

その感情こそが対話の科学反応を決定づけているものと思います。

❖所詮、人間は感情の動物

もし、一方的な主張によって自らの正しさの証明に向かい進行してしまうと、相手は優位性を示されたように思い、不満感情が瞬時に芽生え、ついには納得がいかない気分になってしまいます。

「言っていることは間違っていないとわかっても、聞きたくない」

といった極めて情緒的な反応をしてしまうでしょう。



所詮、人間は感情の動物です。

よって、心は理屈を超えたところで反応することが多いのでは?ですから、正論を吐くときは、人間が感情の動物ということをしっかりと踏まえる。

❖正論を吐く時の厳粛な手続き

相手の感情を無視したがために拒絶されてしまうのはもったいないことですね。正しいことを言うときは、相手が気持ちよく受け入れてもらうための“厳粛な手続きを踏む”必要があるです。

その手続きとは・・・、

・まず、相手の考え、想いを知ろうとすること
・相手の今、おかれている立場を理解すること
・会話のテーマに対しての相手のこれまで関わりを尊重すること
・自分主張する際は、相手が受け入れ易いように丁寧な話し方をすること
・相手が受け入れ易い言葉を選ぶこと

この一連の順序立てた手続きが必要なのです。面倒といえば面倒ですよね。でも、外すことのできない手続きなのです。

だから、厳守と申し上げました。

あたかも交差点で信号の色を認識し、前方、後方、左右の状況を確認しながらゆっくり通過していくがごとく・・・。



もう一度申し上げます。

「対話のゴールは正しさを認めさせることではない。ゴールは気持ちよく受け止めてもらうこと!」

なのです。

ここをはき違えると、人間関係はギクシャクしはじめ、信頼関係までも崩れてしまうように思います。

交通ルールを守りましょうね!

❖対話は中和

では、実際どのような対話が相手の心の受容に繋がるか?
冒頭の言い方を例にとり示したいと思います。

・「これは本来、こう考えるべきです」、「理解できますか?」
➡「これはいろいろな視点から考えることができそうですね」、「私の理解だけですと一面的になってしまいそうです。是非、あなたの考えも教えていただけないでしょうか?」

・「それは予めこう決めていたはず。今更、考える必要はありません」、「当然ですよね?」
➡「以前、それについては何か決めていたことがあったように思いますが・・・」
「一応、そのことは確認しておくにしても、状況も変わってきているので、現状での話し合いも大切に感じます」、「そう思っていますが、いかがですか?」

・「そのことは間違っています。よって、よい結果をもたらしません」、「それでもやりますか?」 
➡「そのような意見はとてもありがたいです。私には思つきませんでした」、「そのように異なる意見がありますと、結果もおのずとより良いものとなるでしょう」、「性急すぎるとよいことはありませんよね。一層、議論を深めていきましょう!」

先に示しました厳粛な手続きを踏まえますと、概ね、このような対話になるように思います。共通していることは、対話の相手の発言に対して「中和の精神」が貫かれているということです。

この中和とは、中庸(片寄らない)と柔和(緩やか)をもって相手を尊ぶことです。同時に、相手に対する畏怖心をもって包容力を発揮することを意味します。

❖最後に

確か、夏目漱石の「草枕」でも言ってました。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だとかく人の世は住みにくい」と。

この言葉には人間関係における「コミュニケーションの在り方」と、その中心にある「対話におけるバランス」、つまり、”律儀さではなく中和であれ”ということが説かれているように感じます。


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