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退職エントリ

本日2023年10月31日で12年勤めた会社事務所を退職した。
12年を振り返ってみようと思い退職エントリを書いた。

1.入社までの経緯(2011年4月~9月)

(1)失意の日々

博士課程の3年を終えて単位取得満期退学をした2011年の4月から学術支援員として働いていた。

海外学振に採用が内定してUCバークレーでの研究が決まっていたが学位を取得できなかった。
アメリカの東海岸で年俸600万円のはずが、時給1400円の生活になった。

東日本大震災が起こって日本中が混乱する状況下、僕も混乱していた。

(2)転職活動

このままではダメだ、研究する前に自分のことを何とかしないといけないと思い、アカデミックを辞して知財業界への転身を決めた。
僕が弁理士を選んだ経緯はnote知財ぷりずむに書いた。

就職活動では、池袋のハローワークに行ったり、パテサロを見て色々な特許事務所に直接応募をしたり、エージェントを使ったりした。
幸いなことに1カ月で特許の調査会社に決まった。

入社の決め手は、子供の頃から調べることが好きだったから。
弁理士になって調査スキルを武器に知財業界で生きていくことを決めた。

サーチャーという職業があることも知らなかった自分がこうしてやってこれたのも、調べることが好きだったからだろう。

余談であるが、最後まで悩んだ特許事務所は、その後に解散した。
子年生まれだけあって危険察知能力には優れている。

(3)入社前日に救急搬送

入社前日の8月31日の夜に激しい頭痛で救急車で運ばれた。
髄膜炎だった。
入社初日の朝を病院のベッドで迎えた。

研修があって出遅れは許されないから入社も取り消しか…、終わったなぁ…、また就活がんばろう…。
そう思ったが、会社は1週間遅れの入社を認めてくれた。

入社してからは遅れを取り戻すべく必死に頑張った。
この写真、復活して出社した初日に撮ったんだよなぁとしみじみ思いだす。

この眼差し、当時27歳の僕には何が見えていたか。良い目をしている。

2.サーチャー時代(2011年9月~2016年3月)

特許庁指定の登録調査機関のサーチャーとしての4年半で1000件近い調査を担当し、J-PlatPatの経過情報で見ることができる検索報告書を作成し、様々な分野の約100名の審査官に対話形式で報告した。
重たい包袋を抱えて歩いて週2か週3ペースで特許庁に対話に行った日々。
このときの蓄積は今でも僕の礎となっている。

この間、2012年に弁理士試験に合格、2014年には博士号も取得した。
東京大学では満期退学後3年以内であれば通常の課程博士と同じ扱いで学位を取得できるのでギリギリであった。

研究室の先輩の結婚式で教授の先生に再会できたこと、会社からも博士号の取得を後押ししてくれたことに、感謝。

サーチャーから弁理士へのキャリアプランについては以下の記事に書いた。

3.弁理士時代(2016年4月~2023年10月)

(1)弁理士としてのキャリア

弁理士としての7年半、幸いにも色々な経験をした。
何をしてきたかは、noteの経歴執筆講演にまとめてある。

弁理士になってからは業務以外で1年に1つ何かを達成しようと考えた。
2016年はパテントに論文を投稿
2017年は特許検索競技大会で最優秀賞
2018年は特定侵害訴訟代理業務付記登録
2019年はAIPE認定知的財産アナリストの取得
2020年は書籍の出版知財ぷりずむ新春特別寄稿
2021年以降はIPAS知財実務情報Lab.®専門家チーム知財塾 侵害予防調査ゼミ ファシリテーター経済産業庁九州経済産業局 チーム伴走型知財経営モデル支援・広報事業など支援や教育にも力を入れてきた。

2022年からは、パテント2022知財管理2022知財管理2023などの執筆、書籍の改訂版の出版、イーパテントチャンネル知財実務オンラインにサーチャーと弁理士の側面から2週連続YouTube出演など、調査の啓蒙や知識の普及にも努めてきた。

2023年はテレビドラマに自分の書籍が登場したりもした。
弁理士会でも初めての研修をして一つの区切りを迎えた。

2020年の書籍発行以降、どうしてこんなにも色々やってきたのか、理由は言わないけど、やらないといけなかった。

だから僕はやった。全力でやった。やりすぎたのかもしれない。
何事もやりだしたら止まらない性格だ。

(2)日々の業務と葛藤

日常の業務では、国内外における出願権利化、特許調査、侵害訴訟、無効審判、異議申立、情報提供など、サーチャーから始めたキャリアを活かして、弁理士が行う特許調査の可能性を追究し、死に物狂いで走り続けてきた。

クライアントにも恵まれた。
仕事が楽しくてしょうがなかった。
会社の取締役にも最年少でなった。
待遇についても普通ではあり得ないくらい厚遇してもらったと思う。
業務内容、待遇、地位などが僕と同じ状況の人が100人いたら99人は残る道を選ぶだろう。
それぐらい良くしてもらったのは間違いない。

それでも、自分に嘘はつけなかった。
組織から求められる役割と、自分のやりたいことの乖離が大きくなった。

スティーブ・ジョブズは言った

「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。
「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

日本経済新聞、「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて

1度しかない人生、やりたいことをやりたい。
自分にしかできないことをやりたい。
悔いを残すことなく、自由に自分の思うように仕事をしたい。
僕の我儘かも知れないけれど、僕の人生だから。

色々なチャンスをもらえた。
自分では意識していなかったけれど、結果としてその時々に目の前にあったチャンスを掴んできたと思う。
本当に恵まれた12年半でした。

4.これからのこと

情報発信をしてきたことで多くの人に知ってもらえた。
色々な弁理士や弁護士の先生から調査の依頼を貰い、とてもありがたいことに、一緒に働かないかとお誘いを多く頂いた。
そんな中、1番最初に声をかけてくれたある人がいた。

これからの物語は、実は5年前のあの日から始まっていた。
僕がどこへ行くのか、何をするのか、何を目指すのか、それはまた明日

それにしても高校卒業してからの20年、色々あったなぁ。。

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