修行(探究)を終わらせることを「決める」

修行(探究)は終わらせるものだと、心に決めよう。
修行を終わらせる努力ではなく、終わりにすると「決意」するのだ。

それが難しいことであると、一生かけても終えられない、自分には不可能だなどと考えてはいけない。
そして、それが簡単であると考えて、油断してもいけない。
それが難しい、簡単であるという見解を捨てて、ただ道を歩もう

涅槃(真実)は到達するものではない
ここにはなくて、あそこにはあるというものではない。
今はなくて、未来にはあるというものでもない。

道を歩く自己を捨て去るとき、もう目指すものが無くなる
そして、それでも「道」は続いていく。

もし解脱を目指し、すべてのカルマを浄化しようなどと考えれば、到底可能であるとは思えないだろう。
だから、本当の意味で解脱を決意するということは、解脱する自己、修行する自己を放棄するということでもある。
※これが、ゴータマ・ブッダの言う「現法涅槃の否定(梵網経)」の意味である。

それが厳しいことだと考えるのは、むしろ妥協しているのだ。なにかを我慢しなきゃいけない、頑張らなきゃいけないというのは、むしろ自分を甘やかしているのだ。
とりあえず、できることから始めるのは仕方がない。しかし、いつか決断しなければいけない。
自分にできないと思っていることを、心から望むことはしない。
だから、「終わりにする」ときっぱり決意するのだ。

なぜゴータマはわざわざ解脱を宣言したのか?それを人に誇るためだろうか?
いいや、解脱は確かに出来る!ということを示すためではないだろうか。

行為が問題ではない。
世界が問題ではない。
見解(思考)が唯一の問題である。

人は歩こうと意図しなくても、歩くことはできる。
それどころか、人はみなそのようになっている
それゆえに、難しいことも簡単なこともない。

意思(カルマ、業)を捨て去ることはできない。
しかし、その意思を持つ自己を捨て去ることはできる。なぜならば、その自己は存在してはいないのだから。
ブッダには自我はないけれど、私はまだ自我を捨てきれない、などということはないのだ。
ブッダは「あなたにはまだ自我が残っている」と言うだろうか?

一人が解脱できるということは、みんな解脱できるということだ。そうでなければ、なぜ初めの一人が可能なのか。

自己の非実在性を忘れないように、よく気をつけていること。
そして、実在するもの(涅槃)をそのように見て、大いに楽しむこと
それが完成に至る道である。

自分で見るべきものであり、
時間をへだてず結果を与えるものであり、
「来たれ見よ」と招くべきものであり、
自分の心に獲得すべきものであり、
賢者によってめいめい知られるべきものである。

「法随念」


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