身体はあるがまま「唯一の問題は思考にある」

人が病気などで死ぬ間際、呼吸がハァハァと荒くなる人もいる。そのとき、もう意識は身体から抜けていて、苦しくない、という。

これは本当なのだろうか?

しかし、確かに、痛みに耐えるとき、呼吸は荒くなるというより、グッーと息を堪える。

また苦しいとき、つい身体を強張らせてしまうが、そうすると時間が経つほど苦しみは大きくなる。
あえて、痛みに入っていくように、身を委ねてしまうと、さほど苦しくなくなる。
そのとき呼吸は短く早くなる。
ここで問題になっているのは痛みではなく、恐怖なのだ。

苦しみには大きく2つある。
肉体的な苦しみと、精神的な苦しみだ。

仏教では、これを2本の矢に例える。
矢が肉体に刺さると痛い。そして、その痛みへの不快感、嫌悪感で2本目の矢が刺さる。
そして、1本目の肉体の苦しみよりも、2本目の精神的な苦しみのほうが遥かに大きいと。

身体には問題はない。
もし身体の苦しみが怪我や病気によって生じるならば、それが治るまでずっと苦しむはずだ。
しかし、身体のことを忘れているときは、なんともないのだ。

問題は、思考によって生じる。
思考が唯一の問題なのだ。

身体も心も、あるがままにある。
しかし、思考はそれらに重ねられた幻想に過ぎない。

思考によって、問題が解決されることがあるかもしれない。
しかし、その問題もまた思考によって作り出されたものなのだ。

物事を思い通りにしたいとき、思考の力を使おうとする。
そして、その力は超能力にさえ高められる。
思い通りにしたいという願望はどこから来ているのか?
それは無力感や不全感ではないか。

物事に耐え、受け入れるとき、思考から解放される。
自己を明け渡すことで、自由になる。
なにも思い通りにする必要はない。


いただいたサポートは、また誰かのために使わせていただきます。Be happy!