歩こうとしなくても歩ける!入門編

歩いているとき、当然歩こうとして歩いていると思っている。
しかし、「歩こうとしなくても歩ける」のだ。

歩いているとき、どのように意識するだろうか。
普通は「歩いている」とは意識しない。
「家に帰る」など、どこかに行こうとして、歩いている。
そのとき、当然足を動かそうともしない。
目的地に「行く」のだ。

では、「歩こう」と意識して歩くときは、どうだろうか。
それでも、わざわざ足を動かそうとはしなくても、歩ける。
それどころか、「身体よ、歩け!」と念じたところで、歩いていかない。

では、もっと自覚的に、歩いていることを観察しようとするとどうなるか。
「右足が動く」、いや右足だが、股関節も膝も足首も足も足の指も動く。
それぞれをまた観察しようとすると、もっと複雑になる。
「身体全体が動く」いやそもそも地面が無ければ歩けない。地面、重力、地球、太陽、宇宙。
どこまでいけば、歩くことを知れるのか?
それらを知ることもできないし、それらすべてを意識しながら歩くことなどできない。

要するに、私たちはどのように歩いているかを知らないで、歩いているのだ。
しかし、知らなくても歩ける。
それどころか、余計に意識しないほうが、むしろ自然に歩ける。
「歩こうとしなくても歩ける」。

このときには、必要性が重要になる。
必要でなければ、歩くことは起こらない。

私たちは歩き始めるタイミングを自分で図っているようで、そうではない。
これは脳科学でも仮説として出てきている。

歩くとは、言葉(概念)では説明できない、もっと直接的なものなのだ。
それが、身体が「あるがまま」にあるということ。

さらに、「歩こうとしなくても歩ける」ことの霊的な意義について、そして、それを実際に確かめる歩行瞑想についても書いた。


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