歩こうとしなくても歩ける!霊性編
歩こうとしなくても歩ける。入門編に続き、霊性編。
歩くとき、歩く目的はなんだろうか?
その目的には動機が伴う。
その動機と目的を果たすために、意図(心)が働く。
あらゆる行為には意図が伴う。
それが、身体を動かすこと「=歩く」よりも、本質的な意図「=歩こうとすること」だ。
ここで、人は選択に迫られる。
いつも無自覚であっても、人は必ず選択している。
「どこへ行くのか?」
しかし、本当はその選択肢は2つしかない。
歩くか歩かないかではない。
こっちに行くか、あっちに行くかでもない。
「真実か、幻想か」だ。
私たちの通常の多様な選択肢は「幻想」の中にある。
私たちはどこへ行けるのか?
歩こうとしなくても歩ける以前に、そもそも私は歩いているのだろうか?
もっと言うと、「どこかに行くことはできるのだろうか?」
私たちはどのように、どこかに行くことを知るか?
それは「時間」である。
私たちの見ている視野は時間と共に変化する。
だから、移動していると考えられる。
もしVR(ヴァーチャル・リアリティ)の精度が向上していったとしたら、仮想空間がまるで世界そのもののように感じられるかもしれない。
そのとき、移動しているように感じる(見える)が、本当に移動していると言えるだろうか?
私たちは世界の中にあるのだろうか?
それとも、世界は私たちの中にあるのだろうか?
世界の中にあるのは、私たちの身体だ。
私は身体だろうか?
この物質的な、食べ物の栄養素で出来たものが私だろうか?
もし私たちの中に世界があるならば、私たちは移動することはできるのだろうか?
どこに行くことができるのだろうか?
私たちは、自分の意思によって、努力によって何事かを為そうと、または為していると考えているが、果たしてそうなのだろうか?
「そうではない。
あらゆる負担、重荷は神(高次の存在)が背負っている。
自分が背負っていると思っている罪や後悔もまた同じように。
しかし、神に罪はあるだろうか?
罪があるとは、誰が言うのか?
神ではない。あなただ。
世界、他者はそれ自体が面倒を見る。
あなたは他者のためになにかをする必要はない。
自己を神に明け渡し、ただ静かにありなさい。
至福が自然なのだ。」
そのように、ある聖者は言う。
ただ静かにあることは、なにもしないのではない。ただ「歩くこと」だ。
なにかを意図的に思い通りにすることではない。
あなたが神ならば、他になにを望むだろうか?
あなたの神は、あなたが欲しかったものすべてを与えなかったのだろうか?
思い通りにする必要があるのだろうか?
あなたは自己(自我)を明け渡したのではなかったのだろうか?
「あなたが、社会のため、他者のために行為することは、良いことです。
そこでもし、あなたの努力によって社会が良くなるどころか、悪いことばかりが起こったとします。
それでもあなたは、「私は、社会に奉仕させていただいて、満足しています」と感謝するでしょうか?
それとも、なぜこんなに頑張っているのに、社会が変わらないんだろうと不満に思うでしょうか?
あなたの本当の幸福は、社会によってもたらされるのではありません。
もしあなたが幸福で、他の人が不幸だったとしましょう。そのとき、あなたは本当に幸福だと言えるでしょうか?
もし他の人が幸福で、あなたが不幸だったとします。それでも、あなたは他の人の幸福を心から喜べるでしょうか?
社会での幸福とは、そのようなものです。
それゆえに、あなたは社会の幸福などの結果を動機にせず、ただ行為するよう教えられているのです。
結果のために行為したとき、その行為に囚われ、自らの意思でそれを行っていると考えるでしょう。
そして、それによって、結果が良いものであれ悪いものであれ、それを受け取らなければなりません。
相対的な幸福は、不幸がない状態に過ぎません。
新しくやってきた幸福は、いずれ去ってしまいます。
しかし、私たちは本来、至福なのです。
ただ静かに在れば、その至福があなたの内にいつもあることを知るでしょう。
もし結果がどうしても気になってしまうと言うならば、それがどんなものであれ、その結果を神に捧げてください。
そして、神から与えられるものを受け取ってください。
神はあなたになにを与えてくださるでしょうか。
きっと素晴らしく、気に入るものに違いありません。」
そのように、ある賢者は言う。
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