二つの真理「世間法」と「出世間法」

仏教の真理には二つの捉え方がある。
それが「世間法」と「出世間法」である。

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例えば、「無常」。
これは「世間法」である。
すなわち、全ての行(現象)は無常である。

では、無常でないものはあるか?

それが、「涅槃」である。
この涅槃に関する真理が「出世間法」となる。

他には「Dhukka(苦)」。
これも「世間法」、全ての行(現象)は苦(不満足)である。
木を見て森を見ず「世界は苦しみである」

そして、「無我(非我)」。
これは、全ての法についてであり、行(現象)と涅槃を含む。
つまり、世間法として全ての行(現象)は無我であり、出世間法として涅槃は無我となる。

以下にまとめる。
世間法とは、現象の実相(真理)であり、無常・苦・無我。
出世間法とは、涅槃は無我(非我)である。

他には例えば、有名なものとして「縁起」。
大乗仏教に、(よく知らないため)ざっくりと「全ては縁起によって成り立つ」というものがあるだろう。
これは「世間法」である。
つまり、涅槃は除く。
涅槃は縁起を超えたものである。
十二縁起を見ても、始まりは「無明」であり、涅槃ではない。無明を超えたものが涅槃。

しかし、論理が発展していくと、縁起のない縁起まで出てきて、議論は果てしない。

例えば、無常は世間法であり、いくら無常(現象)を見ていっても涅槃(出世間法)には辿り着かないように思える。
しかし、実践的にはそうではない。
なぜなら出世間法とは結果であって、過程(実践)ではないからだ。

全ての現象を無常と見て、無執着(離欲)を確立し、それらを捨離(出離)することが実践の要諦である。
涅槃を見抜く必要はないし、理解をするということはそもそもできない。

そのため、涅槃や実在などの議論はほとんど必要がない。
それはたった一つのことでいいのだ。

では、なぜ出世間法があるのか?

世間法として捉えると、過程(プロセス)が生じる。つまり、煩悩を滅していったり、カルマを浄化していくというような。
しかし、それではいつまでも終わりはない。
修行(探究)を終わらせることを「決める」

有るから無いに向かっていっても、(有るが前提であるため)無にはならない。
有ったり、無かったりするのは無常(世間法)である。だから、涅槃には達成も実現もない。
有るも無いも超えたときが終わりとなる。
それが「中道」である。

この超えるとき、世間法から出世間法への超越(出離)がある。
これが例えば、初転法輪のまず「四聖諦(世間法)」、そして仕上げの「無我(出世間法)」に現れている。
他にも、般若心経のまず「空」そして、「無い」というのも同じことだろう。

出世間法のたった一つとはなにか?

今ここに、いつもどこにでも(不常、不生、不滅)、涅槃があるということだ。

出世間法としては涅槃があるとは言ってもいいだろう。
しかし、世間法では、涅槃があるとは言わない。
そうではなく、苦しみ(無常)を見なさいと言う。

いわば、出世間法とは、最後の奥義のようなものだろう。
初めから、出世間法を示されても、それはただ見解に囚われてしまうだけになりかねない。議論ばかりで、役に立たなくなるのだ。

これらが「世間法」と「出世間法」の説法の巧みさであり、またややこしさでもある。

それゆえ、そのときまで師(ゴータマ)は出世間法については沈黙する。


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