宗教は「死」を問題にし、真理の教えは「生まれ」を問う

社会的な宗教では、死を問題にし、いかに生きるべきかを教える。
つまり、「いかにして幸福に死ぬか」を教える。

真理には、問題はない。
そして、原因を問うことで、問題以前に向かう。

人は、生まれ(原因)によって、死ぬ(結果)。
では、永遠の生命とはなんだろうか?

生まれたこの肉体が朽ちることなく永遠に維持することはない。
それどころか、一生のうちに何度も全ての細胞は入れ替わる。
「その身体は私だろうか?」

永遠に生き続けるのは、フィクションに過ぎない。
では、これまでの聖者は、人を死の不安から遠ざけるために、嘘をついているのだろうか?

しかし、聖者はこのように問いかけている。

「人は生まれたのだろうか?」
「生まれた誰か?」

そして、結論はこう示される。

彼は決して生まれず、死ぬこともない。
彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。
不生、常住、永遠であり、太古より存する。
身体が殺されても、彼は殺されることがない。
(バガヴァット・ギーター)

社会とは、人の生まれを前提にして成り立つ。
そのため、生まれを問うこと、否定することは、社会には受け入れられない。

真理は世の流れに逆らう。
ゴータマ・ブッダ
だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
マタイの福音書

神とは、真理。
富とは、社会のことだろう。

ヨハネの福音書では、生まれる以前を暗示させる言葉がある。

「イエスの祈り」より抜粋

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
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父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
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わたしは、もはや世にはいません。
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世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼ら(※)の内に満ちあふれるようになるためです。
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。
わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
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天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。

※ここで彼らとは弟子たちのことで、世に属していないとは、富(社会)に仕えていない(=出家)ことだろう。

しかし、キリスト教神学では、世界創造以前を問うことも、それを疑うこともご法度だ。

生まれ以前を問うことは、智慧の道である。

しかし、信仰の道は、神を疑うことはしない。
疑いを神に明け渡すのだ。
しかしまた、信仰とは信じることではない。
これについては、また改めて書いてみたい。

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