共感て難しい、という話など



前々回のnoteは、しばらくモヤモヤしていた気持ちを整理するような記事で、自分としては書いてすっきりしたところはあったんだけど、でも一方で、メンバーとか関係者の皆さんとか、いろいろ一生懸命考えて努力されている方たちを傷つけるような内容だったかもしれない、とも思い、書いたら書いたでとてもモヤモヤしている…
ファンはただただ応援するべきであり、応援できないのならファンをやめればいい話で、アーティストにアドバイスするなんてもってのほかである…と常々思っている自分なのに、なんかそんな感じになっていたかな…そんなつもりじゃなかった…つもりなんだけど…結果的にはそうなっちゃってたのかな…とか…
何回も読み返したけど、自分ではよくわからない。モヤモヤ…


これがその方たちの目に触れることになるかはわからないし、自分の思いがどうあれ受け取った方が不快に思ったなら言い訳のしようもないんだけど、ただ、自分としては、大好きな人たちのことを書いているわけで、少なくとも絶対に批判するような気持ちでは書いていないし、また、自分の言う通りにしてほしいとか思って書いたわけでもない、ただの自己満足な文章である、ということは明記しておきたいと思います。

クリエイターではない、ただの消費者である自分が偉そうに言うのも烏滸がましいのですが、クリエイターはファンという名の消費者に決しておもねるべきではない、と考えています。
アーティストは自分の欲望に忠実であるべきで、自分勝手に好きなように表現する、その姿にファンは惹かれるし、勝手についていくものだと思っております。

なので、当然、いち消費者にすぎない自分の考えなんか本当に無視していただいていいんです。卑屈になっているのではなくて本心からそう思います。

でも、もうこういう内容を書くのはやめようと思った…
少なくともしばらくは…




雑記なので実にどうでもいいことを書こう。

最近、子供たちに買ったルービックキューブを、不意に揃えてみたくなり、ネットで調べながら書かれている通りに動かしたら…揃えられた!

…いや、答えを見ながらやっているんだから、当たり前と言えば当たり前だ、でも、それすらもやろうと思わなかったので、実際にやってみて、揃えられると、自分の力じゃないのになんだか感動してしまった。

そのキューブは10秒後にはまためちゃくちゃにされていたのだけれど、「いちど揃えられたのだから、その気になればまた揃えられる」という、今までにない気持ちでそれを見守ることができた。

経験したことがあるかないかは大きな差だ。
例えば自分はフルマラソンを走ったことがあるから、それがどれだけつらいかとか、どれくらい達成感があるかとか、経験でわかる。
走ったことのない人でも、想像して、「つらいんだろうな」とか「完走したら気持ちいいだろうな」とか、なんとなくわかるけど、結局、実際のところは、走ってみたことのある人しか、本当のところはわからない。

「共感」という言葉がある。
「自分も同じ気持ちですよ」とか「気持ちわかりますよ」とかを相手に示すことが「共感」。
「共感」は心理療法の初歩であると同時に最も大切なものなんだけど、じつはこの「共感」って、簡単ではないし、下手をすると、かえって相手を傷つけてしまうこともある。

共感には想像力が必要だ。自分の経験したことがないことに対して共感するためには、想像力を働かせるしかない。似たような経験をもとに、想像力を働かせ、相手の立場になって考え、その時の心情を慮る。想像力豊かでないと難しい。

ただ、いくら想像力豊かな人でも、その人と全く同じ経験はできないし、元々の性格も状況も違うから、全く同じように考えることはできない。
だから、自分が経験していないことを想像力で補って、安易に「気持ちわかるよ」って声をかけるのは、かえって相手を傷つけてしまう場合もある。


前に書いた記事。

性指向や性自認の価値観だって、現実にそういう人たちがいるわけだし、他人にその人たちの価値観を否定する意味も権利もないしその人たちが自分の価値観に従って生きたいように生きられる社会が望ましい、それは確実にそうなんだけど、実際のところ、自分は性的マイノリティーではないから、たぶん本当の気持ちは理解できないしきっと価値観も擦り合わせられない。むしろ、「気持ちわかります」とか言うことの方が傲慢だし、薄っぺらい共感ならしない方がよいと思う。
「自分にはわからないけど、あなたの価値観を尊重するよ」が、自分にとっていちばん正直でしっくりくる言葉だ。

差別はもちろん嫌いだけど、自分がその立場でもないのにわかったふりをして憤っている人たちも同じくらい嫌い。当事者じゃないし、現場の問題なんて何も知らないくせに、AV新法を立案して結果的に現場の人たちの仕事をなくすような人たちが。

自分の知らない世界じゃなくて、経験したことのあることだって、同じような立場にある相手の気持ちをわかってあげられるとは限らない。
むしろ、同じような立場であるからこそ、「自分の時は…」みたいな決めつけをして、相手を傷つけたり追い込んだりしてしまう人たちもいる。

例えば、7人の子供を育てたお母さんが、2人の子育てで疲弊してつらくなっているお母さんに、「私は7人も育てたんだから、あなたなんてまだ楽な方よ」と言って傷つけるような場合。
当たり前だけどそのお母さんが置かれている状況はそれぞれ全く違うから、7人が大変で2人が楽、とは限らないはずだ。
むしろ、経験していることの方が、相手の立場を想像することを妨げてしまうこともあるのかもしれない。

薄っぺらい共感も、自分の価値観から勝手に共感を押し付けることも、どちらも相手を傷つけるし、そんな共感ならしない方がいい。

人間は基本、わかりあえない。

これもさっきのnoteに書いたこと。
わかりあえない、というところからスタートすることで、わかりあえる部分がないか、謙虚に、お互いに手を伸ばすことができる。

「わかりあえない」って、ネガティブなことばじゃないんだよ。
わかりあえないからこそ、価値観の違いを尊重できるし、もっと言えば、基本わかりあえないぼくらが、ほんの一瞬、心が通じ合うような瞬間があったとき、それをとても幸せなことだって感じられるんじゃないか。
わかりあえないからこそ、わかりあえたと感じる奇跡のような瞬間が、この上なく尊いんだ。

神さまじゃない、わかりあえないぼくらは、わかりあえないからこそ、お互いを認めあおうよ。

だいぶかっこつけすぎているけど笑、よい文章だなと自画自賛しちゃう。
冒頭では珍しく反省しましたが、基本、自分の文章が大好きなので。


どうでもいいことを書くつもりが、真面目な文章になってしまった…


前回の記事をちょうど書き終わって読み返したりしてるくらいのタイミングで、大好きなライさんのnoteが更新されてて。

ライさんが自分の言葉で今の想いや状況やこれからのことを書いてくれて本当にうれしかったし、誤解を招く表現かもしれないけど、とても安心した自分がいて…
自分でも記事を書いたことで気持ちが整理されたし、Buddha TOKYOのラストの瞬間まで前向きに推そうって気持ちではあったんだけど、
これを読んで、なんか、その先がどういう形であれ、自分はきっと納得できるだろうということがわかった気がしたのです。

自分はライさんのことが本当に大好きだし、ライさんの言葉を信じているから。
ライさんが、これからもやりたいことをやっていくって約束してくれて、これからを作る準備を毎日がんばってるって言ってくれてる時点で、それがどういう形であれ、自分が受け入れられないはずがないのですよ。

未来はわからないし、望むかたちになるかどうかはわからないけど、ライさんが自分のやりたい活動を続けてくれるなら、ファンとして、それ以上望むことはないな、と心から思います。
そして、そんなライさんを、その先もずっと応援し続けるだろうという、根拠のない確信もあります。笑

裏切られた、なんて思うはずない。だって裏切られてないから。今までいちどだってそんなことはないし、だから、これからもないです。
ずーっとライさんについていきたい。ライさんがこの世界にいようとしてくれる限り。ずっと応援させてね。

ライさんに出会えて本当に幸せ。毎日ずっと幸せだったし、これからもきっとそう。

そうそう、11/6は、Buddha TOKYOというグループがデビューするっていう告知がされてからちょうど1年という日で。

ということは、自分がライさんと出会えてちょうど1年という記念すべき日だったということですよ。

最初、デビューライブの12/4までリプライにお返事がもらえる期間になってて、たくさんお返事もらってとてもうれしかったのよく覚えてる。
自分が書いたリプライを読み返して、悩みすぎてよくわかんないこと言ってるな、って思いつつ、1年経ってもなにも変わってないのが悲しい。でもそれだけ大切な存在なんだよね。

特典会でもうまく話せないし言いたいことの100分の1も伝えられない。でもいいんだ。書きたいことはここにたくさん書いてるし、自分が伝えたいことは、結局、大好きってことだけだから。

12/4もきっとうまく伝えられないんだろうな。
でも、全部言えなくても、きっと、ライさんには自分の気持ちが伝わると思う。
そんなふうに思えることがとても幸せです。

チケット完売してメンバーみんなを喜ばせたいな。

少しでも多くの人の心に届きますように。

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