つなぐこと たくすこと


寄生生物についての本をとても興味深く読んだ。

自分が読んだのは↑だけど読みやすいのは↓かも

本能とは個体に与えられたプログラムのことであり、そのプログラムをコンピューターウィルスのように都合よく書き換えてしまうのが寄生生物である。
泳げないのに入水してしまうカマキリや、わざわざ天敵に食べられやすいように高いところに登ってしまうカタツムリは、「身を守る」という大事なプログラムを書き換えられてしまっている。さらに、オスなのに、おなかの卵を守るメスのように寄生生物であるフクロムシを守ろうとして生殖活動をしなくなるカニは、個体にとって最も重要な、最優先されるべきプログラムである「子孫を残す」という本能ですら書き換えられてしまう。
寄生される側にとっては残酷に見えるけど、寄生生物の側からすれば、その個体は、子孫を残すために、やはり与えられたプログラムを実行しているにすぎない。
もちろん、寄生される側もそれを見破る力を持つ遺伝子が残り、相対的に増えていくから、やられっぱなしではない。カッコウの托卵によって一時的に数を減らしたオナガも、それを見破る力を持つ遺伝子が増えたことにより、被害に遭うことが減って、再び数を増やしていく。そうすると今度はカッコウが減り、そして、よりオナガの卵にそっくりな卵を産むことができるカッコウの遺伝子が増えて…というイタチごっこが繰り返されるのだろう。その壮絶な戦いによって種の均衡が保たれている。生物はやはり面白い。興味が尽きない。


生物とは遺伝子の乗り物である、というのは、とても有名な、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という本で提唱された学説である。個体としての生物は、遺伝子をたやさない、なるべく増やす、ということを最優先とするプログラム(本能)を実行するための乗り物にすぎない、というわけだ。実際、人間以外のほとんどの生物の行動原理が、この「遺伝子の都合」ということで説明できてしまう。なので、個人的にはこの説が自分が知るなかでいちばん納得できるし、しっくりくる考え方である。
で、人間ももちろん生物だから、利己的な遺伝子の乗り物…のはずなんだけど、ただの乗り物にしては、人間という生物は知能が発達しすぎてしまって、本能という単純なプログラムで動かなくなってしまった。なので、遺伝子にとって大事なプログラムである「子孫を残すこと」にもあまり積極的でなければ、人によっては、「自らの命を守ること」にも従わない場合がある。遺伝子からみると、人間は甚だやっかいな種だ、と嘆息しているのではないだろうか。

ただ、この本能というプログラムは、あくまで遺伝子にとっての最善を目的として作られていて、個体の都合はある意味、無視されている。「遺伝子のコピーを作ってそれを残しなさい」というのはあくまで遺伝子の目的であって、個体の目的と一致していない場合がある。
自由度が極めて高い、オープンワールドのゲームで例えるなら、「遺伝子を残す」というのは、言わば、公式なクリア目標みたいなものだ。公式が定めるボスを倒すことに全く興味を持たず、延々と武器を集める人がいてもよいし、満足する家を建築することにすべての時間を費やしてもよい。公式なルートを攻略して目的を達成したところで、人生にクリア報酬があるわけではないし、寿命が伸びるわけでもない。個体の感じる幸せは人それぞれなんだから、どんな人生を歩んでもよい。


そして、遺伝子の定める最優先プログラムである「遺伝子を残す」ということについて、もう少し掘り下げてみる。

女王を頂点とした集団を作る蟻や蜂にとって、女王以外の個体は個体というよりは細胞に近い。人間も失血時に腎臓への血流を止めて脳への血流を維持しようとするようなトリアージをするが、スズメバチが襲ってきたときに命を捨てて巣を守るミツバチの働きバチたちも、言わば同じようにトリアージされている(集団を守るための捨て石にされている)。つまり、この集団自体がひとつの個体のようなものと言える。
群れを作る哺乳類や魚類なども、食べられる個体は食べられるという重要な役割をはたしており、群れを個体と考えれば、個体は言ってみればひとつの細胞のようなものだ。もちろん、種のなかでも、より優秀な遺伝子を残そうとする争いは発生するが、もっとマクロでみると、直接自分の遺伝子を残さなくても、種の遺伝子を残すために何らかの役割を担っている(自分が食べられることで別の個体の遺伝子が生き残る→結果として種の遺伝子が受け継がれていくことに寄与する、など)。

だから、公式のクリア目標(=本能)である「遺伝子を残す」とは、単純に「子どもを作る」ということだけではない。
自分という遺伝子ではなく、種としての遺伝子を残す、というふうに広義に解釈するなら、個体の生の目的は、受け継がれた遺伝子、つまり、次世代のために生きること、ということになる。

群れの移動速度についていけなくなった老いた個体が、ライオンに襲われて食べられたとして、個人的には、その老いた個体は最後まで役割を全うしているから、意味のある生であり、意味のある死だと感じる。未来のある若者を守って自分が死ぬ、なんて誇りある死なのだろうか。

自分は姥捨て山を残酷な物語とは思わない。いつか必ず死ぬことが決まっている生物にとって、生よりも大切なのは生き方であり死に方のはずだ。次世代に何かをつないで、何かを託せたなら、自分の生を誇れるし、満足して死ねるのではないかと思う。

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