ハリー・ポッターと反抗期の子

「ハリー・ポッターと呪いの子」の舞台を娘と観に行った。
ハリー・ポッターが大好きなのは娘で、自分は本を読んでいないし映画も観たのは賢者の石の半分くらい、でも娘が興奮して早口でしゃべってるから主要な登場人物はだいたい知ってる、それくらいの知識だったけど、それでも充分楽しめた。

そもそも舞台を観るのがおそらく初めてだったんだけど、舞台芸術というものがとても新鮮で、映画とは違う表現、演出の方法に感心した。そして、何より、生で観る俳優さんたちの迫力のある演技に圧倒され、惹き込まれてしまった。小学生みたいな感想だけど、あれだけのセリフや立ち回りをすべて覚えて、あんなに早口なのに全く噛まずに言えている、それだけですごすぎる。そして、観ている側に「演じていること」を感じさせない、本当にハリーやドラコそのひとがそこにいて、その物語を観ていると思わせられるような、素人目にもわかるプロの技に圧倒された。出演していたすべての俳優さんたちの気の遠くなるような地道な練習と、それを支えるたくさんの裏方のスタッフの力が集結した、濃密な時間だった。
完璧を求めてリテイクを繰り返し、最新の技術を使って迫力を出す映画は音楽で言えばCDなどの録音した音源であり、膨大な時間と労力をかけて準備したものをその場で演じる舞台はすなわちライブにあたるのだろう。どちらにもそのよさがあるけど、ライブが大好きな自分はおそらく舞台とも親和性があるのかもしれない。

そして、舞台の内容についての話。
ここからは「ハリー・ポッターと呪いの子」についてのネタバレと、そしてハリー・ポッター本編をあまり知らないニワカ(ですらない)の個人的な感想が続きます。



物語の舞台はハリー・ポッター本編から20年ほど経過しており、ハリーの息子アルバスと、ドラコ・マルフォイの息子スコーピウスを中心に進んでいく。ざっくり言えばふたりの友情と成長を描いているわけだけど、もうひとつのテーマは、息子と衝突し、お互いに傷つけ合い、悩み、苦しみ、そして、親として成長していく、ハリーたち親世代の物語でもある。父親を助けようとしたデルフィーも含めるなら、何組かの親子の関係をそれぞれの視点から描いた物語と言ってよいかもしれない。魔法やタイムパラドクスを前提としたファンタジックな世界観ではあるけど、根底にあるのが親子の愛という普遍的なテーマだから、観ている側も感情移入しやすい。

観ているときにまず感じたのはアルバスに対するもどかしさと、それ以上に、ハリーに対するイライラだった。アルバスの方はザ・思春期という感じで、もどかしいし共感性羞恥を感じたりするけどまあ了解できる。思春期ってそういうものだよねという感じ。それに対して、特に前半〜中盤にかけてのハリーのイケてなさは度を越していて、なまじ本編を読んでない自分としてはよくこんなやつが世界を救えたなと呆れた。売り言葉に買い言葉とはいえ、息子に「父さんだってお前が息子じゃなきゃよかったって思ってる」なんて言う父親は一生口をきいてもらえなくても文句言えないし、いくら心配しているとはいえ、スコーピウスに関する根拠のない噂のせいで、息子のただひとりの友だちである彼との接触を、校長をおどして魔法で監視させて禁じさせるとか、やっていることが完全に悪役レベルで引く。後半に入り、小さい頃に両親をなくして親のあり方がわからないと吐露したり、不器用なりに歩み寄ろうとしたりと、少しずつ共感できるところも出てきて、ラストでは、こちらも成長をとげたアルバスと、お互いに本音で話をするというシーンがあるわけだけど、それでも、前半の嫌悪感を払拭するまでには至らなかった。

それに対して、自分がいちばん心を打たれて、大好きになってしまったのは、こちらも息子との関係に悩んで不器用な立ち回りを繰り返していたドラコ・マルフォイだった。本編読んでないマンの自分でも、ドラコがどれだけイヤなやつだったかは知っている。そして、序盤での、息子スコーピウスに対する態度やハリーやハーマイオニーへの言動は、そのドラコのイメージを裏切らないものだった。しかし、物語が進むにつれ、息子が行方不明になって取り乱す姿や、そして彼もまた父親から普通の愛情を受けられなかったことにより、愛する息子とどう関わっていいかわからず苦悩する姿が描かれ、最初のマイナス評価からのギャップも相まって、好感度がストップ高になってゆく。そしてクライマックスの場面、みんながハグする場面で、スコーピウスに「自分たちもしてみようか」とぎこちなく言ってハグをしたところが全編を通じていちばん泣けた。個人的にはこの舞台の主役はドラコ・マルフォイだったし正式にドラコ推しを宣言したい。同じ不器用でもハリーの百億倍くらい好感がもてる。

その次によかった場面をあげるとしたら、やはり肖像画のダンブルドアとハリーとのシーン。そこでもハリーは最初とてもめめしくて八つ当たりしている(ように見える)んだけど、最終的には、お互いの愛情を確認して感謝を伝える。「死が触れることのできぬものがある」「肖像画…記憶…そして愛じゃ」は印象に残ったセリフ心のベストテン第1位。
そしてそこでのハリーはちゃんと自分の気持ちに気づけたし素直になれたからまあよかった。やればできるじゃないか。でもキミはもう少し感情をコントロールしないといけません。
本編を知らない自分の勝手な推測だけど、ハリーはダンブルドアに父親を求めていたのだろうな。理想の父親像を求め、でも実際の父親を知らないハリー。そこにもまた多少同情の余地はある。でもキミは本当にもう少し感情を以下略。


そんなところが終演直後の感想だったのだけれど、振り返っていろいろ考えていたら、あまり気づきたくないことに気づいてしまった。

ハリーに対するイライラには、おそらく、反抗期の娘に対して、もっと親としてうまく立ち回ることができるはずなのに、それができていない、自分の姿を見せられているようで、自分に対しての嫌悪感が含まれていたのだ。きっと。

さすがにハリーほどではない(と思いたい)けど、自分もやはり、反抗期で相手を傷つけるような言葉をあえて使ってくる娘に対して、つい、感情的に応戦してしまうときがある。正しいか正しくないかで言ったら、まあ一般的に正しいことを言っていると思うのだけれど、でも、言っても仕方がない、むしろ言うとよけいに逆効果であるようなことを言ってしまっているときがある。自分が間違っていることがわかった上でわざと言っているのが反抗期なのに。親の態度としては、ドラコのような沈黙こそが金であり、雄弁は銀どころかプルトニウムくらい有害なのに。

つまり、ハリーに対するイライラは、結局のところ、同族嫌悪というやつなのだ。こいつ最低だな、と思ってみていたハリーは、なんのことはない、自分だったわけだ。気づかなきゃよかった。ふつうにへこむ。

まあ、父親は特にそうだっていうけど、子どもが生まれて、立場は急に親になるけど、中身が急に親になるわけじゃない。当然のことだ。当たり前だけど、親も成長していかなきゃならない。そして、そのまたとない機会を与えてくれるのが子育てなのだろう。育児を通じて、はじめて親になっていくのだ。
思春期に入って急に大きくいろいろかわっていき、本人も大変だろうけど、親の側も戸惑うし大変なのだ。完璧な人間なんていないから、完璧な親など存在しない。手探りで進んでいくしかない。まあ、へこむけど気づけてよかったと思いたい…

そして、この親子の関係を描いた物語を、思春期の娘と父親である自分がいっしょに観ているというのも趣が深い。自分はハリーやドラコらの父親目線で観劇していたが、娘はやはりアルバスやスコーピウス目線でみていたのだろうか。
感想をきいたら「ロンがチャラかった」と言っていた。そこは完全に同意見だ。

春にまた、こんどは母親と娘で行く予定らしい。
奥さんがどのような感想をもつかも楽しみにしていよう。

この記事が参加している募集

舞台感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?